一節



「おはよう」
「…うん、おはよう」
ボーっとした声のまま、表情のまま、少女が体を起こす。
窓からは、光も差し込まない。ただ、しとしとと降り注ぐ雨の音だけが続く。
「朝、降ってなかったのにね」
「梅雨だから」
梅雨時の怠い空気の中、彼女の部屋だけは酷く快適だ。湿度も温度も、その気になれば光度さえも思うままにいじる事が出来るとか。そんな物いじってどうなるのか、よく判らないけれど。
「もう6時なんだ」
時計を見ながら、気の抜ける声で少女が問う。ベッドの上で、パジャマのままだ。
今更だけど、勝手に部屋に乗り込んでおいて言うのも難だけど。もう少し警戒心とか持ってくれないだろうか。
「ん、アヤメが寝てる間に。…いい夢は見れた?」
床に散らばった本を拾い上げながら、彼女の…菖蒲の顔を覗く。
彼女は、『まだ私は寝惚けていますよ』とかそんな顔をしたまま首を傾げ、唸る。一緒に長い髪が揺れて、俺の手をくすぐった。
一頻り唸って、こちらに正面から向き直り頷く。
「そうでもないかな」
俺の手から本を奪い取り、その表紙を眺めながら言い放つ。
本のタイトルは『素敵な夢を見る方法』。因みに児童書だ。表紙に可愛らしい魔女の絵が描かれている。アヤメの好きそうな本。
「そっか」
好きな物は魔法の類、と子供の頃に宣言していた彼女だ。きっと表紙だけ見て反射的に借りてきたのだろう。その場面が容易に想像できる。アヤメが結構頻繁にやっていることだから。
「あ」
「どした」
「また勝手に入ったの?」
若干咎めるような表情で、声色で、扉を指差す。
…大体言いたい事は判る。普段から、アヤメが学校を休んだ日は俺が世話をしにここへ来るのだけど。彼女の両親に承諾を得ていない、と言いたいのだ、彼女は。そんな事よりもっと気にするべき事はあるんだろうけど、彼女はそれに気づかない。
結局これも週に二、三…多い時は三、四回ある事だから、彼女の両親も納得している。俺としては抵抗が全くない事は無いのだが、彼等は娘の治療費を稼ぐことに忙しいのだ。夫婦共働きで、二人とも会社の重役として頑張っているのだとか。
更に彼等は俺の事を、彼女の『命の恩人』だと思い込んでいるそうだ。なにかあると二言目にはそのセリフが飛びだすものだから、俺としては恐縮以外の何物でもない。 偶にアヤメの祖父母や従姉妹が面倒を見に来る事もあるけれど。流石にしょっちゅう都会からこちらへは来られないのだとか。財政面の事でも、精神的な面の事でも。
何時逝ってもおかしくない様な、そんな子の顔をずっと見ているのは。やっぱり辛いのだろう。
その点で、俺は鈍感なのかもしれない。こうして毎日アヤメの顔を見ているのに。
「今日はちゃんとおじさんに言って来たから。平気平気」
「こないだはお母さんだった。お母さん、聞いてないって言ってたよ?」
「気のせい」
「嘘は駄目」
駄々っ子のように、俺の服の端っこを捕まえてみーみー唸る。
嘘吐きは嫌いなんだそうだ。昔病院の先生がやたらと病状の説明を渋って、すぐに治るとか、治すとか言ってたのが癪に障ったんだとかなんとか言っていた。
好きで嘘を吐いていた訳では無いんだと、彼女も分かっている。でも子供の内に刷り込まれた事は大人になっても尾を引く。三つ子の魂百までとはこのことだろうか。ちょっと違うような気がする。
「とにかく、勝手におうちに入っちゃ駄目です」
「部屋はいいのか」
「?」
そこで首を傾げるな。
「で、判りましたか」
こうなると色々収拾がつかなくなる。…まあ、ちょっとした遊びみたいな物だから、ここで判ったふりさえしていればアヤメは満足する。可愛くはあるのだけど、高校生にもなってちょっと子供っぽい。
「はい」
「よろしい」

こくん、と一つ頷いて、小さな笑顔を作る。

その笑顔は、やっぱり何だか儚くて。

窓の外を見るふりをしながら、目をそらす。
「ところで、今日は仮病?」
「うん…あれ?違うよ?」
「へえ」
相変わらずこの子は、嘘というものに縁がないみたいだ。





二節



アヤメの見舞を済ませて、我が家に帰るべく道を歩く。

古い付き合いだけれど、決して家が近いわけでは無い。やたら家が隣同士とかそんな、同じ関係の人達が羨ましい。好きでずっと友達で居る訳だから、家が近くたって悪くないだろうに。両親もそんな事を言っていた。

そう、親同士の仲が良かった故の現在地。

ここに来るまでの、昔の自分と昔のアヤメは水と油みたいな存在だったんだ。

例えばこんな雨も。アヤメは嫌いだというけれど、俺は大好きだ。物の好みから、考え方、挙動も何もかも全て歩み寄れなかった筈なのに。



…どうして俺は、あんなこと言ったのかな。

昔を思い出して、立ち止まる。

見上げる先には大きな木。

忘れられない記憶の中の、ど真ん中に佇む柱。



彼女を此処に、繋ぎ止めた場所。



「あのお」

「わ」

心臓がひっくり返ったかと思いました。

振り向けば、反対側のバス停に、佇む少年一人と一匹。

彼もずぶ濡れで、犬もずぶ濡れで、しきりに体をぷるぷるさせて。

梅雨時なのに、傘を忘れたのだろうか。今朝の天気を考えれば無理もないけど。

「道を尋ねても、いいですか?」

恐る恐る、言葉のとおり文字のとおりの態度で、こちらを窺う。初対面だから無理もない。自分だったら、たとえ自分が迷子でも話しかけられない。そういうのはアヤメの仕事だった。

「どうぞ」
「へ?」
…返し方が拙かったのか。不思議そうな顔で聞き返されてしまった。
女の子みたいに縮こまって、引き連れた犬の縄をぎゅっとつかんで。
そこまで恐がることも、ないと思うんだけど。
「えっと、だから…行先」
「あ、ごめんなさい…」
「こちらこそ…」
萎れてしまった。
そんな反応されると、こっちが申し訳なくなってしまう。というか、悪い事をした気分になる。いたたまれないというか。
「あの、立花先輩の…あ、僕、結城って言うんですけど、後輩で、その、部活の後輩でして、今日菖蒲先輩がいらっしゃらなくて、でもこの間先輩がるるに会ってみたいなっておしゃってまして、あ!るるって言うのはこの子の名前なんですけど、先月捨てられてる所を………えと」
ここで一息。
「…立花さんのお宅、ご存じですか?」
「うん」
真っ赤な顔で、彼が俯く。
せっかちなんだろうか、気持ちはわかるけれど…いらない個人情報まで露呈してしまうのが、こういう人の不憫なところだ。大昔の自分を見ているようで、少し胸がいたむ。
確か、アヤメが園芸部だか文芸部だかに入ったよ、とか抜かしてたから、その友達だろう。なんだかしっくりくる。見た目も挙動も。
「二、三軒行った所を右に曲がって。そしたら判る」
「ありがとうございます、それでは…っ」
「待って」
そそくさと、逃げようとする彼の腕を捕まえて。
「傘」
「…えと?あの」
「折り畳で小さいけど、使って」
押しつけるように、それを渡した。

昔、アヤメに貰った折り畳み傘。

小さいから使いにくくて、ずっと鞄に収まっていた物。

もともとアヤメも使いにくいなんて押し付けたつもりだったらしくて、まだ持ってるんだ、なんて言われたこともあって。処理に困ってた。
アヤメの知り合いなら、赤の他人ではあるけどなんだか古い知り合いみたいな気がして、簡単に押し付けられた。

訂正。大変そうだから貸してあげるんだ。

「いや、でもっ」
「いいから。アヤメによろしく」
くると反転して、駆け出す。

傘は別で持っているし、時間が心配なわけでもない。

それでも急ぎたくなるのはきっと、やっぱり少し見ず知らずの人が苦手だから。

駄目な訳じゃないけど、やっぱり。

知らない人は、少し怖いんだ。


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