1.

2本のナイフ。鞘がなく、直ぐに痛むであろうそれは、少女にそういった知識がない為に何の方策もされずに持ち帰られてしまった。
それまで、何一つ、物に関心を払わなかった少女の唯一の宝物。誰にも見つからない様に、大切に大切に保管する事にした。
踏み出した一歩は非日常を瞬く間に展開してくれたが、竦んで後ずさりしてしまっては、また何時も通りの日常が待っているだけだった。
―――それでも、決して踏み出した一歩が消える事はない。鮮やかな藤色が目を閉じれば直ぐに現れる。それは何年経ってもきっとそうなのだろう。そして、いつか幼い頃の冒険だったと誇りに思えるはずだ。
「どこへ行っていたの」
厳しい表情で少女の母は帰ってくるなり娘を詰問してきた。それに、少女は答えようがなく、また答えるつもりもなかったので、無言で押し通す。
キレイな思い出を他人に口外して汚されるのが少女には耐えられなく、親に話せば絶対にそうなるだろうとの確信があったから。無論、ナイフの事など、おくびにも出さない。
「お前が無事である保証なんて全然ないのよ。分かってるの」
結局、いつものお決まりの説教を小一時間程食らわされて、少女は解放された。
顔色一つ変える事なく、日課の様に少女はそれをこなし子供部屋に引き篭もる。
親に取って、その少女は可愛い子などではなく、表情もろくに表に出さない薄気味悪い娘、できれば欲しくなかったと思える様な何の愛着も湧かない子供だった。ただ、それでも少女は自分の娘に違いない訳で、放置するのにも世間体を気にしてできない。いや、そんな事をするくらいなら色宿にでも売って小銭にする方がよっぽど自分の利益になる、とそういう具合にだけは働く頭を使って母は考え、他の子供とも違いないように接していた。
 だから、居なくなれば怒る。傷物になって貰っては困るからだ。その辺りの値の変動は雲泥の程に差があるのだから。
 少女は自分の親の事をそう分析していた。
 それで傷付くという事はもうない。妹たちとの差別なんて慣れてしまったし、このまま、甘んじているつもりもなかったから。
 一つの伝説がこのスラムでは実しやかに語り継がれていた。身一つから、王になった者が居る。奴隷から、この世の全てを手に入れた者がいる。ずっと昔、でも今に繋がる過去の話。
 そうなるのが、少女の純真な夢だった。
 いい暮らしとか、名声とか、権力とか。そういう、一見夢のカケラもないような所に少女は夢を感じていた。その点では純真とは言えないかも知れないが。
 しかし実際にスラム街の出身で後ろ盾も金もなくても、優秀であれば、ずっと上の世界に引き上げられることは全くないとは言えない。ほとんど可能性の少ないものだとしても。だから、本来なら夢の見る事なんて出来ない世界に生きながら、少女はその夢を見続けられる。
―――でも、とそこで彼女の冷静な分析が、影を落とした。
 きっと、14歳くらいになったら売られてしまう。
 それまでに、この状況を変える何かしらの違いを誰かに何かに見せられるのか、人生を自らの手に引き寄せる何かを得られるのか。
「どうしたの? 姉さん」
 親の叱責が漏れ聞こえもしたのだろう。二つ下の妹が問いかけてきた。親とは既に決裂といっても言い過ぎではない程に冷め切っていたが、幸い三人の妹弟とは悪い仲ではなかった。
 事を掻い摘んで話すと、あからさまに馬鹿にした様な表情で見つめられた。
「バカ? 言っとくけど、姉さんは可愛いのよ。人攫いの恰好の的なんだから。一人でこの界隈を歩いてたら命が幾らあっても足りない」
「うん、確かに危ない所だった。―――でもね、いい事もあったの」
子供部屋の奥で、興味津津に聞き耳を立てている残りの妹弟をも意識して、少女は語った。得意気に、幸せそうに。
「ふうん、奇抜な人もいるものね」
「とても強くて、とても綺麗だった」
「ねえ、それホントに人間?」
「え? でも、セレネスって名乗ったよ」
「ええ、でも、おかしくない? それ。まるで神話に出てくるニンフみたいよ」
 軽やかに、冷徹に、ヒトとは思えぬ事を容易にこなした彼女は一体何だろう、と妹は言う。
 少女の胸にも小さな疑問は確かにあった。
 それでも、現実的に事を見極めようとする妹とは反対に、この秘密を明かそうとは思わない。
 だって、あの場で輝いていたのは間違いなくて、それを現実で見ていたのだから、それ以上の事実は必要なかった。それに、夢見勝ちな女の子に取っては人間じゃなくてもどうってことないのだ。
「……でも、衛兵に追われてた」
「衛兵? ほら、普通の子供が追われる筈ない」
「うん」
 でも、それは楽しそうだった。死活問題なのではなく、適当にあしらう様な。
「それに、今日衛兵を動かす様な事するなんて、正気じゃない」
「今日?」
 何か、重要な事だろうかと、少女は頭を巡らす。該当する事柄は直ぐには浮かんで来なかった。
「今日は王さまの孫、だったかしら、その人の誕生日」
「そう、なんだ」
「ええ、とても可愛がってるとの噂だから、怒るんじゃない? 死刑だったり」
 う、と言葉が詰まる。
 自分を救ってくれた人が、王に殺されるなんてのは心情的に辛い。
「でも、まさかそこまでは」
「昔は、抵抗する人には容赦なかったんですって」
「……どうぞ、無事であります様に」
 既に手遅れの様な気もしたが、祈らずにはおられなかった。何日後かに、処刑者として名が出て欲しくない。
「まったく、高が一回助けられただけなのに」
 呆れる様に妹は言うが、恩は恩。回数なんて関係ない。
「そういうのは大事。人としての在り方だもの」
「はいはい。それでお金でも貰えたら私も考えるわ」
「ユリア、そんな悲しい事を言わないで」
 肩を竦めただけで妹は視線を逸らした。
 スラム街に住む者に余裕など生まれない。余裕がなければ心が潤う事などないし、少女の家が安定して収入を得られていない事は少女も十分に理解していた。だから、荒みつつある妹を見て、こんな状況を作り出した両親への不信は募る。
 何か取るべき手段がある筈なのに、それを知ろうともしない親は少女の理解の範疇を超えていた。
 子供は親を選べない。だから、親には子供を守る義務がある筈なのに。
「それにしても現金なものよね。誕生日如きで祭日よ?」
「王さまだって人の子だから」
「そんな事より、政治をよくしろーっての」
「ふふ、そうね」
 強引な話の切り替えに少女は乗る。態々、波風を立てる必要もなかった。
 表面上は未だ仲良く。亀裂も見えるがそれは見ない事にした。唯一の拠り所を壊すのを恐れる少女が無意識に、何の解決にもならないのに先送りにしただけだったけれど。
 ユリアと他愛ない話を続けながら見つからないような、部屋の隅にある、自分の私物にナイフを忍ばせた。
「なにを、しているの? お姉ちゃん」
「つっ」
 突然の予期しない声にびっくりして、刃に指が触れた。
 深くは切れなかったが、刀身はひどく澄んでいて、切れ味はとても鋭い。
「どうしたの?」
 覗き込んで来ようとしたので、反射的に後ろに手を隠して振り返る。
「なんでもない。どうしたの。ロザリー?」
 ユリアとの話が一段落したのを見計らったのか一番下の妹が姿を現していた。
 歳は幾分離れ、7歳だった。黒髪が少女と家族を繋ぎ止める僅かな類似点で、それだけが血が繋がっていると思わせる。瞳は碧でこれは二番目のユリアと同じ色だった。
思えば、とユリアの方に視線を流す。
 あの女の子の髪の色にひどく妹の髪は似ていた。偶然だろうか。あの女の子の瞳は琥珀色だった。きっと、偶然だろう。
「すごく楽しそうにしてた。お姉ちゃんのそんなとこ見たの初めて」
「そ、そう?」
「うん。ユリアお姉ちゃんもすごく楽しそうだった」
 二つ下の妹が普段と変わっている様には少女は見えなかったが、小さな差異を敏感に感じ取る幼子にはそう映ったのかも知れない。
「ねえ、本当にその人はニンフだったのかな?」
 爛々と碧の瞳を輝かせる妹は、愛らしかった。
「どうかな。でも不思議な人だったよ」
 本当に不思議な。
「会ってみたいなぁ」
 昔話や伝説の登場人物に夢を馳せる様に、妹は少女の話に耳を傾けていたらしい。一つ、幼い少女の胸に姉を守った小さな勇者が記憶される様だった。
いずれ、消え去るかも知れないけれど共有できる人が出来て少女は嬉しかった。
 遠い幻想を見た様な時間。
成長する度に薄れいく幼い冒険は、でも確かに、小さな妹と共有できた。
「あ、お姉ちゃん怪我してる」
 指先を滴る血を見て小さな悲鳴を上げた。
 ナイフは既に少女の私物に紛れ込ませた後だ。
 ―――その血が現実だと、痛い程少女に伝えてくる間に、共有できたのはとても大きいと、少女は思った。


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最終更新日 : 09/8/24

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