8.

一番最初に眼に入ったのは一杯に広がる薄いクリーム色の天幕だった。
「あ……」
 何の事か、頭がぼんやりし過ぎていて全く分からない。
ようやく分かった事といえば、自分がベッドの、それも使っていた自分のものではない結構良品のベッドの上で眠っていたというくらいだ。
「眼が覚めた?」
 いきなり眼前に顔が広がって甚だアリスはびっくりした。
「あ」
 言葉を発しようとしてあまり上手く口が回らない事に気が付いた。思えば倦怠感が体を包んでいる。
 それを見越してかウィオーラは優しく微笑んで、あまり喋らなくて済むようにしてくれた。
「心配ないよ。どこも悪くない。疲れが限界を超えたんだろう。暫く休めばいい。幸いな事にしばらく時間はあるよ」
 何の時間なのか、それを推し量るにはあまりにも頭の回転は鈍くて、普段の彼女であればほんの少しの好奇心を覗かせる事もあったかも知れないが、とにかくこの時にはそんな事は露とも思わずまた眠りに就こうと目蓋を閉じた。それからウィオーラが何か声を掛けた様だったが、それは子守唄の様に彼女を深遠に誘い、心休まる一時を与えた。
 再び眼を覚ました時にもウィオーラは傍にいた。
「おはよう。調子はどうだい?」
「ん、大分いい」
 そう、と何時もの様に微笑んでから、傍らの水差しからコップ一杯の水を差し出してくる。幸いな事だ。
 アリスは随分と喉が渇いている事を思い出した。
「ありがと」
 受け取ろうと腕を伸ばした時にある事に気が付いた。
「……傷が、消えてる」
 左肩に手を当てて確信した。
 そうだ。なんで此処に横たわる事になったのか。あの怪我、些細な傷も含めたら殆ど全身が手負いだった筈だ。事の外、左肩の傷は大きいものだったと思う。あの朦朧としていた中で一際の激痛に襲われたのだから。
 それが全部消えてる。
 他にも何か変わってないかと身体を探って、つい最近できたここにアリスが来る羽目になった傷まで消えている事に気が付いた。
「水、いらないの?」
 ひどく動揺していただろうにそれを目の当たりにしても彼は全く動じる素振りもなく、ただ水を差し出している。
「飲む」
 ひったくるように奪って一飲みに飲み干した。
 だが、それだけで落ち着ける程彼女の精神は可愛いものではなかった。久方ぶりにまともな思考能力を取り戻したアリスの頭は、この問題に対してどうやって解を導こうか全速力で回転している。
 もしかしたら、治るまで意識が戻らなかった?
 いや、それは非現実すぎる。そんな長い間昏倒しているのであればもうミーネの許に送り返されている筈だ。
 そうなると、人間の回復スピードくらいアリスも分かっているから、余程の事、もしかしたら魔法か魔術の類かも知れない。
 神話や伝説の類では頻繁に出てくる単語だが、現実では、それこそ同じ住人である英雄と似たように頻繁に拝めるものではなかった。
 そういえば、彼女の祖国ガラッシア王国の最元老は150歳ばかりだと誰かから聞いた事がある。叙事詩の決まって主人公のその人は未だ生き続け、それでも叙事詩を汚さぬ人格者という話だ。
 他にはその奇蹟によってヒトに余る生命力を持つ人間は風の便りにも聞いた事はない、それくらい希少なものだった。もしかしたら、ただアリスが風評に疎いだけなのかも知れないが。
魔法の何ができて、何ができないかもはっきりとよく知らない。 数は置いておくにしても普遍的なものでは決してなかったし、触れる機会もなかった。
 ……なかった?
 また、何かを忘れている様な妙な感覚に彼女は襲われた。だが、今度はあの時の記憶を近い内に呼び起こしていたので記憶の波に攫われることなく、当該を思い出せた。
 セレネス。幼い頃助けてくれたあの藤色の綺麗な子は、人間には見えなかったではないか。あの運動能力はヒトとしてあり得ない。だとしたら、衛兵に追われていたのも納得はできなくはない。個体数が少なければあれは絶好のサンプルになる筈だ。
なるほど、と記憶の彼方の整合性を得られた事にちょっとした満足感を覚え、するとずっと人前だったという事を思い出す隙というか余裕というかそのようなものが生まれた。
目を彼にやるとずっと眺めていたのか、目が合う。顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「ち、違うんだ。これは、その……」
「うん?」
 柄にもなくまごついて、余計に事態を悪化させただけだった。
「君は運が良かった。ただ、それだけだよ」
 全部見通したように、落ち着いた調子で言い、彼は席を立った。
「え?……ちょっと待って。どういう事」
 呼び止めても、彼は説明するつもりはないのか止まろうとしない。
 しかし、彼の思惑通りには事は運ばなかった。
 彼が天幕を潜る前に誰かが入って来た。
 立ち竦むようにウィオーラは動きを止めてそれを見やる。
潜っているところは見えなかったが、入ってくるとアリスの視界でも捉える事ができて誰なのか確認することが出来た。
 それは金髪を、腰より下まで綺麗なストレートな金髪を伸ばした、まだ小さな子供だった。年の頃は10歳を少し越えたぐらいで、勝気な感じの目元が印象的だ。
「存外、甲斐甲斐しいなセレン。随分と探したぞ」
 訂正。勝気じゃなく尊大だった。
 混じり気のない金髪で瞳はルビー色。それなのに彼女はファラミル語を操っていた。この地の支配言語はウェスミル語。語族は一緒だが習得するのにはそれなりに時間が掛かる。が、彼女の発音にはウェスミル語者の訛りもなく、使い方にも違和感を全く見出せないのでそれが彼女の主用言語なのかも知れない。
 そういうものにもの凄く堪能なのか、はたまたアリスの推察通りなのかは分からないがどちらにしろそんなのは些末事だった。
「それは失礼を致しました。閣下」
 二人はそんなアリスの心の内など知るはずもなく、会話を進めていく。
 恭しくウィオーラは頭を下げて、少女は満足そうに頷いた。
「まあ、いい。――やあ、お前が鬼神か?」
アリスの方に紅玉の鮮やかな目を寄越したかと思うと楽しそうに顔を破顔させる。
「きじん?」
 意味が分からず説明を求めようとウィオーラの方を向いたら彼は苦笑して彼女の願いを届けてくれた。
「閣下。彼女は今目覚めたばかりなのです。自身がどうのように称えられているかなど知る機会もございませんでした」
「そうなのか?」
 不思議そうにウィオーラを見上げ、その姿は本当に愛らしいものだったが彼女の尊大な態度が全部ぶち壊している。まあしかし、尊大は尊大でもその行為に全くの疑問も得ていないようであるし、ウィオーラもそれに付き合っているのだから本当に地位は高いのだろう。
「ええ。しかし、直ぐに気付く事になるでしょう。何しろ閣下と御臨席する栄誉に浴する程の事ですから」
「うん、それもそうだな」
 見た所、金髪の娘は随分とウィオーラに懐いているようだ。……まあ、あれだけ人好きのする容姿に加え従順な態度を取られれば容易に信用してしまうのだろう。
「知った時、どうなるか見物だな」
 にやりと人の悪い笑みを浮かべるその姿は不相応さと相応さがない交ぜになった感覚がしてぞくりとなった。
「まあ、いい。それでセレン。順調に進んでいるのか?」
 再び、ウィオーラに視線を移して彼女は問う。
「はい、閣下。ですが、何分にも相手のいる事。思い描いた通りには行かぬでしょう」
 思った通りの返答がなかったのか不服そうに彼女は顔をしかめたが、ウィオーラはそれを予想していたのか、いつも通りに柔和に微笑み言葉を紡ぐ。
「不測の事態、戦場の霧、全てを心しておかなければ足を掬われます。決して万全はない。それが戦というものですよ、ラシェル様」
 目上の者が説くように優しく言い聞かせる様は、契約によって結ばれた短期間の紛い物の忠誠よりも先生と生徒の間柄か兄妹みたいだった。
「うん、分かってる」
 それを彼女も感じているのか、不服そうにしてはいても聞き分けよく了承する。
 そのやり取りで予想が付いた。
 ラシェルと呼ばれたこの少女がウィオーラやアリスの依頼主、シャルトル伯だ。
 なるほど、それならば兵があまり集まらなかったのも無理はない。成人に達していない領主に誰が好き好んで生命を預けようとするだろうか。する人間は余程の酔狂かもしくは名を上げたい野心家と相場は決まっている。
 なんでこんな子供が戦争を起こそうと決断したのか、もしかしたら相手に深い恨みを抱いているのかも知れないし、全くの野心からかも知れなかったがアリスに興味はなかった。ただ、取り巻き達にろくなのは居ないようだ。すくなくとも戦術、戦略に長けた者はいない。いたらあんな負け戦必至の指揮を執ろう筈がない。
――それで、セレンにお鉢が回ってきたと思うのが自然だが、どうやってそれが回って来たのかは、多分喧々諤々のやり取りをしただろうから、眠りこけていた自分をアリスは恨んだ。色々と勉強になっただろうに、それをふいにしてしまったと思う悔悟の念が胸に苦く広がる。
 だが、もう済んでしまったことは取り返しが付かない。それに本番はこれからだ。
 これからを見逃さなければ構わないではないんだろうか。
「とにかく、お前に任せているのだからな、しっかりしてくれ。――女にかまける余裕があるくらいなら、心配はないんだろうが」
 最後にアリスに一瞥をくれてからシャルトル伯は天幕を出て行った。――だが、一瞥をくれた目がすごく鋭かったのはどうしてだろう。結構、和気藹々としていたと思っていたのだが。
「それで」と、ウィオーラは一息吐いてからアリスの方に向き直った。
「大体の事情は飲めたかな?」
 態度には口調以外にも僅かばかりの変化がある。これが地でさっきまでは取り繕っていたという事か。もしくはこれも取り繕っているのか。全く綻びは見せていなかったし、板に付いている。もしかしたら、彼もバルナバと同じ様に訳ありなのかも知れない。良家の子弟、でも違和感はない。
「ああ、どんな魔法を使ったんだ?」
 彼はそれを避ける様に薄く笑った。
「セレン?」
 追い討ちを掛けようと問い掛けて、失言紛いな事をしたと気が付いた。
 呼んでくれて結構、と言われ、まだ実際には読んでいなかった名前。あの時、下手にセレネスなんて呟いたから、それが残っていた。
 音が似ていて、言い易いからこんな事になってしまったんだ。 頭を抱えたくなる気持ちを押さえ、彼を覗い見ると彼もどうしていいか分からないように固まっていた。
 1秒が何分にも感じられた時間。
踏んできた場数が違うのか、それを動かせる力を持っていたのはセレンだった。
「うん、まぁちょっと活躍したからね」
 少しだけ嬉しそうに態度を翻して彼は話し始めたのだった。


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