10.

彼が軍営地を歩くと視線が集まっているのを気付かない訳にはいかなかった。
 混じっている感情は畏怖か羨望か反感か。
だが、彼はそれを無視して歩いた。
人の目を気にするなどという愚か者に成り下がるつもりはなく、そんな事を気にしている自分が嫌だった。
ちら、と視線を丘の方へと向ける。平野は北に僅かに起伏を生んでいてその頂上にフォンテーヌ伯は布陣してシャルトル軍を見下ろしていた。軍事の知識の欠落はこんな所に現れている。
「まあいいさ。引き釣り降ろしてやる」
 見下されるのは好きではなかった。自分より偉そうにしている人間に対する時も、心の奥底では微かに波打つものがある。しかしそれは全く理不尽な怒りだった。彼らはそれに対する責任を負ってその地位にあるのだし、今は平民に過ぎないセレンがそれにどうこう思う権利はない。
 世の中、そんな思い通りになる道理はない。自分が世界を繰っている訳ではないのだから。
何時の間にか、彼の天幕の前まで来ていた。
彼に与えられた天幕は最初のものと違って、随分大きいものになっている。それが上の人間が下した彼に対する評価を表したものだった。
「セレン」
幕を潜ると一人の少女が駆け寄ってくる。
背中の辺りで切り揃えられている純銀の髪はよく手入れされていて、雪白の肌を露出の非常に少ない服で隠している姿は深窓のお嬢様然としていて立ち居振る舞いもそれを確信に変えるだけのものがあり、全くこの地に似合わなかった。
 彼女はセレンの従者をしている少女でエテルノと言い、今は熟睡しているこの戦闘のヒロインを介抱していた。嫌々ながらではあったが。
「大きな役目を引き受けたそうですね」
 マリンブルーの瞳には不安と心配の色が浮かんでいた。そして、非難がましい色も。
「どうして?」
「もう皆、噂をしていましたよ」
 従者の情報網の広さと速さを目の当たりにした所で、彼にとってそれは興味深いものではなかったので、特に驚いたりせず話を続けた。
「だったら、どうだと言うの?」
「どうして、そんな厄介事を引き受けるんです」
 また、始まった、と、うんざりとした気持ちで思う。
 彼女はリスクを酷く嫌っていて、まずもってセレンが傭兵なるのを強行に反対した。普段は絶対に彼の言に背かない彼女だが、その時に限っては頑強に反対された上に泣かれた。
 酷く困惑した覚えがあるが、結局は路銀が尽き掛けている事などを挙げて宥めすかし不承不承ながらも承服させる事に成功したのだが、その後もセレンが功を立てたり目立つ度に懸念を帯びた目で見つめてくるという何とも効果があるのかないのかはっきりしない術を行使して彼に反抗している。
 他の連中が彼を誉めそやす中での彼女の反応は浮ついた気持ちに冷や水を浴びせかけられるようでいい気はしなかったが、彼女の存在は全くの彼の責任であったので、己の不明さを呪うことくらいしかできなかった。
「彼女は?」
 最早、話し合いの場を持っても意味のない事だったし剣呑な雰囲気に包まれるのは自明だったので彼は強引に話題を変えた。それに彼女も乗る。
 彼女の根幹に触れる問題以外に彼に示すのは絶対の服従だったから、本質的には彼と争うのは避けたいのだろう。
「暢気に寝ています。心配はいらないでしょう。……この状況であれだけ熟睡できるなんてある意味感心しますよ」
「気を張っていたんだろう。その上にあの戦闘だ。疲れるのも致し方ないさ」
 また、彼女の目には屈折した光が浮かぶ。
「英雄には優しいですこと」
「エティ」
 苛立ちを含んだ声で制しても、彼女は無視して話を続ける。
「わたくしには理解できません。どうして、そのように簡単に命を失う事を肯んじる人を称えるのですか。そんなに崇高な事なのですか」
 彼女は穢れているものに対するかのようにアリスを否定した。 そういう彼女にセレンは憐憫の情しか湧かない。
 どうしてそうなってしまったのか彼は知らないし、触れようともして来なかった。
 それでも彼が傭兵になるまでは仲は良かったのが、彼の決断が彼女との仲に微かな亀裂を来たしてしまっていて、それを回復できる気配は今の所ない。
 そして、今回のこれだ。
 セレンはマリウス傭兵団から送られてきた少女に多少なりとも好感を抱いていた。
 最初に連れて行った戦闘で、彼女はエース級の活躍をしてみせて、そのポテンシャルは疑いようのないものだったのだから。
お世辞にも軍人向けの身体とは言えない。華奢だったし、それに加え女性だ。だが、彼女の剣は速く、判断も的確だった。度胸も問題なかったし、その上余裕まで感じさせて、セレンの部隊で脆かった所を何気なくカバーしていた。
 流石に、マリウス傭兵団の所属の兵士だった。ルクセンブルクからの書状にも有望な若者、とは記されていたが、あれほどの人間を派遣に出せるとは人材の層の厚さが伺える。
 シラー傭兵団だったら確実にセレンの同僚か、もしくは上司だ。 確かに、少年であるセレンから見ても彼女は原石に過ぎなかったが、それはオーパルのだった。
 荒削りの才能だけで、この地方と但し書きが付くとはいえ最大級の規模の戦争の中で、名を残す様な戦果を挙げたという所は驚嘆の一言しか出ない。シャルトル軍もフォンテーヌ軍も彼女の名を知らぬ兵士はいないだろう。
 ただ、彼女は自分自身に気付いていない節がある。
 適性と才能に気が付いていないし、師にも恵まれているとは言い難い。――副長に見初められたらしいが、あの副長の人材育成の評判は芳しいものではなかった――
 英邁の誉れ高いルクセンブルクの慧眼はそれを見抜いて、彼女をセレンの許に送って寄越したのだろう。 歳も近い事もあって、彼女に刺激を与える事も望める。
事実、それまでぱっとしなかった戦績を覆すだけの働きを既に示していた。
「人にできない事すれば、称えられるだろう。それがそんなに不思議なこと?」
「普通じゃなければ、称えられる? わたくしはそれが為に悲惨な人生を送ることになった人をよく知っています」
 ふと、遠くを見る様な目でか細く呟いて、彼女はセレンから離れて行った。
 この話題は、しばらく禁句にしていた方が賢明そうだ。彼女の根深い所の問題は軽々しく触れるべきものではない。
 それに彼女と口論をする、という一事は取るべき手段としては彼の中で最も忌避したい手だった。――避けていてはどうしようもないことだとは理解していたのであるが。
 彼女の事は一先ず頭の中から追い払って、彼は眠り姫を見舞うことにした。
 セレンが与えられた彼のものとなるべきベッドは一人の可憐な少女が完全な支配下に置いている。
 彼女はあの戦闘から一度も目を覚ますことなく、既に2日ばかり経っていた。
「……ん……はぅ…………」
 確かに暢気に寝ている。その寝顔に懸念を抱えているという邪推はとてもじゃないが下せない。
 黒い双眸が閉じられた顔には朔を写した髪が掛かっていて、エテルノに劣らない白い肌を際立たせている。彼女の中で最も目を引く瞳が隠れていてもその可憐さは、兵士の間で広く膾炙する事になった一因を支えていた。
 10年後が楽しみという点ではエテルノと同レベルの様な気がする。
「早く、起きて貰わないと困るよ、アリス。君は英雄なんだからね」
 一言掛けて、見舞いを終える。
 その後、自室で敵と味方の配置を記した平野の地図を眺めながらどういう作戦が適当かと考え込んでいると、エテルノが外から声を掛けてきた。
「セレン、手紙を預かりました」
 その手紙はセレンが伯と会談を持った時に居た元老からだった。こちらの言葉で書いてあるのを四苦八苦しながら読み進めると大体こんな事が記されていた。

時間が空くようならば、私の天幕を尋ねて頂きたい。
私のワインが口に合うようだといいのだが。
               P オスカル ド アジャーニ
 丁度、夕食に掛かる時間時だった。
 それに文面ではこうだが、とても拒否する訳にもいかない。
 彼はナンバー2で、少女は今はまだお飾りに過ぎない。
夕暮れに空が染まる頃、幾分涼しくなった軍営地を横切り、元老の天幕へと赴いて、入り口に立っている衛兵に名前を伝えると、若い従者が出てきて先導した。
 従者には、好奇心がありありと浮かんでいたがそれを表に出してくる愚行は犯かす程教育されていない訳ではなかったのでセレンの歓心を買った。
 天幕は簡素な色が強く、華美でないのは好感を抱けたが、本当に簡素なだけだったので、それには失望を覚えた。
「再び、見えて光栄ですな、ヴィオーラ殿」
 こちらの言葉のアクセントに内心苦笑して、握手を交わす。
「私もです。閣下」
 会食の場は和やかな雰囲気に包まれて過ぎて行った。
 元老は人の良い人物で、この地方に相応しい人物と言えたが、その人の良さが今回ばかりはいい方向に行きそうだ。
「貴公は、この戦の始まりをご存知でしたかな?」
 ワインを傾けつつ、彼は老婆心を働かせていたのか口を開く。
セレンの無知を踏んでそれを除こうとする細やかな配慮なのだろう。そして、時間的に見てもこれがこの場の本題であるのは間違いない。
確かに知っているのと知らないのでは何もかもが違ってくる。
否定を示すと彼はゆっくりと喋り始めた。
「閣下は、貴公もご存知の通り、ガラッシア王国に長く在住していましてな……。兄が2人、姉も3人おり、継承権では第6位と下位におられた。その上、兄らとは母が違った事も災いしてか、人質として物心付く前よりガラッシアに預けられたのだ。だから、こちらの言葉も分からぬし、あちらをルーツだと思っている。確かに母はあちらの人間ではあるのだが。呼び戻されたのは3ヶ月程前でそれはどうしてかと言うと――お気づきであろうが、先代の領主、閣下のご兄姉が一度に亡くなられたからだ。フォンテーヌの輩の裏切りでだ」
最後の言葉には、穢れているものを口に出すのも嫌だが説明する為に嫌々口に乗せているというような気配が感じられた。
 なるほど、軍事的な才能には恵まれてはいなかったかも知れないが、忠誠は最元老と尊敬される程のものはあるようだ。
「我々は怒りに燃えている。閣下だけではない。前のベルナドッテ様の恩を受けた臣下もだ。シャルトルの領地は代替わりの際に幾分減少したが、残った者は全員がこの戦に懸けている。この復讐にだ。君たち、傭兵には分からない事かもしれんがな」
 激情に任せて言っているのは明らかだった。
 彼がセレンを見つめる瞳に、軽蔑の念が映っているもその所為だ。
「そうかも知れません。しかし、閣下のお気持ちを忖度する頭くらい私たちも持ち合わす幸運を得ています」
 セレンの返答で彼も自分の失言に気が付いたようだった。
「そうだな、すまない。過ぎた言葉だったようだ」
「いえ。――裏切られたとおっしゃいましたが、同盟か何かを結んでおられたのですか?」
「ん、ああ。ベルナドッテ様の外交の一環だった。特に詳しく知る必要もないだろう。あちらが野心を剥き出しにして来たのだ。先代は人の良い御方だったので信用なされていたのだろうが……」
 それは戦乱の世で、迂闊とした言いようがなかった。シャルトル軍の弱さはこれに起因しているのかも知れない。
「しかし、貴公が居てくれて良かった。まさか、貴公ほどの人物が我が軍に味方しているとは露とも思っていなかったぞ。最初から知っていれば、それ相応のポストを用意したものを」
「私は、与えられた仕事をこなすのみです。分を超えようとは思いません。指揮は契約には含まれておりませんでしたので」
「寄越された部隊が君のものだと知らされていたら、当然、それは契約に含まれていただろう」
 そこまで評価されている道理が分からなかったので下手な返答は避けた。
 元老は戦闘のその前よりセレンを知っているような口振りで、そういえば、少女に彼を推薦したもの元老らしかった。どういう訳なのか全く見当も付かない。
「何か必要なものがあるか?」
「そうですね、差し当たり敵将の情報が不足しています」
「用意しておこう。しかし時間はないぞ?」
「はい。もちろん、承知の上です」
 興も終わりに差し掛かり、テーブルの上の料理は空になりつつあった。
「さて、今日は話せて幸いだったよ」
「私もです、閣下」
「うむ、折を見てラシェル様を訪ってくれないか? 通訳の者以外、話す相手がいないのだ。大変な最中かも知れんが、彼女は貴公を気に入っている」
「心掛けます」
 握手を交わして、会食は終わりを告げた。
 敵将の資料はそれから直ぐにセレンの元へと届けられた。
 同盟に似た関係にあった事もあり、彼を知っている人間は多いらしい。大分感情的に書かれている部分もあって、どれだけ評判が悪いのか伺い知る事ができた。
 その後、暇を見つけてアジャーニの言に従ってラシェルの許に赴くと、それからはたがが外れた様に頻繁にお呼びが掛かることになったし、アリスはアリスで未だに眠り姫を続けているし、傭兵の間でも絶えず不満が燻っているし、その合間を縫ってどういう方針で行くかも決めねばならなくて、彼の数日は多忙を極めた。
 この戦争のシャルトル軍は最初、3000に満たない数だった。その内の傭兵は1000名余り。戦闘を経て全軍で2200。傭兵は700名にまで減っていた。だが、10以上のグループが混在している傭兵軍はその統制の維持を非常に難しいものと言わざるを得なく、数字以上の苦労がある。
 その中でなんとか苦しみながらも一定の意志を反映させられる程度はできているから、それで妥協するべきなのかも知れない。 敵は概算でも3500近い戦力を保持していて、どうしても厳しい状況だった。
「ふう」
 書類との睨み合いを一先ず止めて、傍らに眠るアリスを見やる。  彼女に見舞いをするのは彼しかいない。どれだけ居ても誰にも文句を言われないので、何時間もいる事が多かった。彼女がどうこうではなく、眠りこけている彼女は静かで、思索を邪魔されないのが一番の理由だったが。
「君の知らない間に、物事は進んでいるよ」
 すうすう、と微かな寝息を立てている眠り姫には覚醒の兆しが少しずつではあるが現れていた。
「思い通りにはとてもじゃないけどなっていないけど、まぁなんとかやれそうだ。だけど、やっぱり君の助けが必要だよ。羊を率いるには狼が必要だからね」
「ん……ううん…………」
 寝苦しそうに彼女は身を捩り、
「あ……」
ようやくの事、眠り姫の呪いは解けた。
「眼が覚めた?」
 一抹の安堵を感じながら、起きたばかりの彼女に声を掛ける。
 覗き込むと彼女はびっくりした様な反応を示した。
「心配ないよ。どこも悪くない。疲れが限界を超えたんだろう。暫く休めばいい。幸いな事にしばらく時間はあるよ」
 笑い掛けると、微かに彼女は頷いて、また目を閉じる。今度は浅い睡眠だろう。
「おやすみ、アリー。今はまだ、ね」


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