13.

休戦が明けて、まず彼は軍を軍営地の直ぐ前に布陣させた。
2000を越える人間を顎で使うのは当然、初めてであったろう彼はその重さをつぶさに感じていると思われたがアリスにはそういう箇所は見出せなかった。
彼に見えるのは、望んでいた玩具が手に入った子供そのもので、その玩具をどれだけ遊び尽くせるかに頭を費やしているとしか思えない。
いや、それは確かに間違っている。
今や彼は完全に好感を得る人好きさの鑑だったような笑顔を捨て、野心を剥き出しにしていたのだから。
その姿が無邪気な子供である筈がないのだが、どうしてかアリスはそんな印象を抱いてしまって自分ではそれが今の彼の状態にぴったりと形容しているに思えてならなかった。
本当に生き生きとしていて、まさに水を得た魚が正鵠を得ているように思える。
「どう思う?」
厳然とした冷徹さを存分に含んだ声で彼は問い掛ける。
公の立場として、ラシェルが総司令官。正規軍の指揮はアジャーニ元老が執り、傭兵の指揮をセレンが。そして、セレンはアリスに騎兵隊の指揮官のポストを用意した。
益々、人の目を集める所に追いやられたアリスは、それでももう彼女を偶像として扱う雰囲気にはとても抗う事はできなくて、大人しく運命を受け入れるしかできなかった。
「今更、どうこう言った所でどうしようもないだろう」
「そうだ」
セレンとアリスの視線は展開中の軍に注がれている。
二人とも精鋭や、標準的な質の軍を見たわけではなかったが、シャルトル軍が弱兵の集まりだとは気付かない訳にもいかなかった。しかし、錬度という点ではフォンテーヌ伯と大差ないだろう。この地方でガラッシアやアエテルヌムといった大国に抗する事のできる軍など存在しない。所詮はそれ程度のどんぐりの背比べなのだから、当然数の多い方が有利だった。
「ラシェル様」
彼女も馬を駆ってセレンの隣に居た。前回の対戦では軍営地に引き篭もっていたのだが、セレンは彼女までも引っ張りだし旗印として存分に使うつもりらしい。そしてそれをシャルトル伯は完全に容認して、寧ろ積極的に彼に協力していた。
セレンは展開している軍から目を逸らさずに口を開く。
「動きの極端に悪い兵が見えますね。あそこの連中です。彼らは懲罰に値します」
そうする事で、兵に緊張を張り巡らせて少しでも効率を上げようとするセレンの考えだろう。見る限り全員が同じくらい程度は低いから運悪く生贄にされる事になった兵士は不運だ、とアリスは思った。
次の日も数百m程前進させただけで、やっている事は前日と全く変わらなかった。
軍営地から出てきて、陣を組み、日が落ちると共に、軍営地に戻る。
シャルトル軍が陣を組めば当然、敵もそれに呼応して陣を組んだ。フォンテーヌの方は最初に組んだ位置から殆ど移動していなかったから、遅々としかし確実にシャルトル軍はその距離を縮めていた。
何故、この様な事をするのか流石にアリスも理解し始めていた。
敗戦を払拭させるには丁度よいし、何より即席の調練にもなった。単純行動の繰り返しは軍の秩序に良い影響をもたらす。
兵の不満――見当違いの甚だ害にしかならない――はセレンが尊大な態度で押さえ付け、しかしその中に微かにチラつかせるある友愛とも言えるような態度が兵士たちの間に伝播し、いつのまにか彼を盲信する輩まで出る始末。偶像として、彼はアリスよりもずっと適性があると彼女自身は判断していた。
彼はアリスよりずっと華々しく、立ち居振る舞いも、ある機会にぶった演説も仰ぐに足る指揮官として不足ない、いや、また彼女は消極的な評価を下そうとしていた。彼は人心掌握に非常に長けている。それはラシェルがアジャーニがそしてアリスが証左だった。
何日もの反復作業の結果、フォンテーヌ伯の軍営地との距離が1km程に差し掛かると、俄かに緊張した空気が陣を覆った。
対陣は決戦を望む空気が支配的になり、それは相手もセレンも気付いている筈だった。
決戦は明日か、と兵士たちの自分勝手な予想が瞬く間に広がり、不安に駆られる者、指揮官の強気に感化されて全くの不安を抱いていない者が混ざり合って混沌とした様相を呈していた。
その日、陣をいつもの様に撤収させた後でセレンは作戦会議を再び招集した。いや、会議というよりは密議に近いものだった。列席者が4名というのは通常の会議ではない。
シャルトル伯ラシェル、アジャーニ、当のセレン、そしてアリス。
円卓を4人が囲い、各々の顔を確かめる。ラシェルと目が合うと彼女は複雑な色合いを湛えた瞳でアリスを見返した。
それにしても成人が一人しかいないという光景は異様なものに映っただろう。それがこの軍の首脳なのだから尚更だ。ただ、ラシェルはあれで領主に相応しい態度を取っていて、セレンも指揮官という地位に瞬く間に溶け込んでしまったから、白眼視されるのはアリスだけだろう。自分が人の上に立つなんて事をアリスはまだとても自分の事の様には思えなかった。
一同を見渡したセレンが最初に口火を切る。
「前回の事案を決行に移しましょう。その決行は今夜。投入する兵力は騎射の出来る騎兵を50、普通の騎兵を200。弓兵200。軽装、重装を含めた歩兵を950。指揮は騎兵がアリス。弓兵を私自らが。歩兵はラシェル様、アジャーニ殿が執って頂きます」
漸くの事、アリスも彼の思い描く戦略の片端に触れる事を許されたらしい。
円卓の上に広げられた軍営地の間の詳細な地図を3人は一様に覗き込み、セレンの説明を聞いた。
要約すれば、こうなる。
シャルトル伯の軍営地からフォンテーヌ伯の軍営地まではなだらかな勾配があり、フォンテーヌの軍営地の方が標高が高いのだが、その間には小さな丘が重なっていて死角になると思われる箇所がある。であるから、その中に歩兵を隠す。
騎兵は左手を大きく迂回し軍営地に火矢を浴びせかけ、弓兵は直線に行軍し騎兵と同じように火矢を浴びせる。
矢を浴びせるのは、敵が打ち払う素振りを見せるまでで、見せ始めたら、弓兵は早急に歩兵の埋伏している箇所まで退避し、追撃を掛けてきた敵兵に埋伏していた歩兵が打ち掛かる。騎兵は敵に悟られないように行動し、できれば、追撃を掛けてくる敵兵の後ろから攻撃を加える。もし、騎兵が被攻撃対象となるのであれば、退避を第一と考える。
そして、何故今晩かを短く説明した。
それはラシェルとアリスに教授する為に加えたようだった。
「随分とまた、手が込んでい……ますね」
人前だった事を思い出し、寸前で言葉遣いを改める。
まったく何時の間にか彼とは浅はかならぬ縁が築かれてしまったようだ。
それにしても、錬度の低い兵でこれを完遂する事はできるのだろうか。
隊は3隊でこれは全く単純明快であるが、指揮官の個人的な判断に左右される箇所が幾つかある。そこがずれると全てが失敗に終わるだろう。
付け焼刃の指揮官たちでそれができるものなのか。それともせざるを得ないのか。
それに敵が追い払うだけで満足する可能性もある。いや、賢明であれば態々優位を揺るがしかねない敗北の可能性のある夜の戦闘はできるだけ回避しようとするだろう。
ただ、賢明な将がこの地方にいるだろうか、とは疑問に思うが。
「成功……するか?」
不安げにラシェルがセレンを見上げ、彼は肩を竦めた。
「閣下の働きに掛かっています。何よりの成功の鍵は伏せている歩兵が握ります」
セレンはアリスに目配せしながら言う。
それから二言三言付け加えて焚き付けられたラシェルはすっかりやる気を出していた。
アリスがそんな茶番劇を白々しい気分で眺めていると、殆ど初見であるアジャーニが人良さそうに話しかけてきた。
彼との話は、まったくアリスが一人歩きしている現状を確認するくらいには役に立ち、意外と冷静に自軍の情勢を分析できる人間がこの軍にもいるという新たな発見も得られたが、彼は戦争の事は全部セレンに任せきりして安心しているようだった。確かに、壊滅的な戦術眼のなさはもはや明らかでその老年では改善など計れないから、その決断は英断と言ってもいいかも知れない。それに特にセレンに対して思う所があるという素振りもなかった。彼は自分自身の役割を見極めてそれに徹するという誰しもがぶつかって幾人しか持つ事の許されない技能を老年の成熟さからか身に着けているらしい。
 軍人としては見習うべきものなど欠片もなかったが、人間としてならば彼は最元老と敬意を払い、その権威に服するに値すると、流石のアリスもそんな感想を抱かずにはいられない好人物だった。
「貴女はマリウス傭兵団の方だと聞いたが本当か?」
 その問いには当然、肯定を示したが、すると一瞬彼の表情には陰りが見え、そしてそれをアリスに悟られない様に内へと引っ込めたのだろう直ぐに一瞬前の表情に戻った。
「それが何か問題でもあるのですか?」
 それに心がざわめいたものだから、彼女は愚かにも折角彼が慮ってくれたのを無下にした。
「いや。――マリウス殿はご健勝か?」
「ええ、はい。すこぶる」
「そうか。ならばよい。彼は若いのによくやる。それに実に気のいい人間だった」
 だが、アジャーニはそれでも気を悪くすることなく、しかし完全にアリスの問いは無視すると決めたようだ。
 ただ、それは彼女の心を騒がせるだけ騒がせる結果に終わるだけだった。あまりいい事ではない。何となく彼女の母親がしていた仕草とアジャーニが重なった。あれはよくない事を隠している素振りだ。
 それでも彼女は、彼女らしい殊勝な心がけで指揮官たる者の気構えとして必要のない懸念は抱くべきでないと考え、その一切を片隅に押し込めて置く事にした。また後で、明日それを広げればいい。
 残暑の日が強い中、日暮れと共に涼しさが顔を覗かせてくる時間帯に密議は終わった。 


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