14.
この戦争でこれまでアリスが身に付けていた軍装は軽装備だった。自由が制限されるのを彼女が嫌ったのもあるし、何より彼女の本性は弓にある。
他のどの武器より自信があるのが弓で、剣は二次的な武器に過ぎなかった。もし、最優先の武器が剣だったら彼女はとても自分に失望していただろう。
ともかく彼女は軍団兵ではなくて、補助兵なのだから、軽装は当然の帰結だったのだが、部隊長ともなると勝手が違うものらしく、セレンは自らが用意した兵装を着用する事を求めた。それは目立つ事を目的としたもので、大マントまで羽織れという念の入り様で、いい加減にうんざりとして来たが、彼には彼の思惑があるのだし、それに今この状況に彼は全てを傾けているのだから、個人的なそれも些細な感情的な反発を彼に浴びせる事は何の益にもならないし、彼の不興を買うだけだろうと思って彼女は分別ありげに従う事にした。
命令通りに軍装を彼のお好みに替え、彼女は自身、初めてとなる部隊長としての戦闘を遂行中だった。
騎兵隊は大きく迂回して強襲を掛ける手筈で、できれば弓を持っている人間を掻き集めた即席の200人の弓兵隊と同時の攻撃が望ましいとのセレンの言だったが、それは難しい望みだろう。出来る限りの手は尽くして、――各隊の指揮官をセレンとアリスにした程度のものだったが、――それにしても騎兵隊を率いる以前に隊長という役すらこなした事のないアリスだったし、シャルトル軍の中で一番それが巧みであろうセレンと特別親しいものでもない。
同時攻撃というのは端から彼女は諦めていて、次善として騎兵隊が早く攻撃を仕掛けるという点の達成に力を傾けるつもりでいた。
二箇所からの攻撃は必ず混乱を生むはずだ。
もし、何の警戒もしていないのなら尚更で、思ってもみない成果を上げる可能性だってある。
敵の部隊を引き出して、歩兵で殲滅する。というのは、それが出来れば当に完璧と言ってしかるべきで、まさかセレンも本当にそこまで出来るとは考えていないだろう。
夜は流石に冷え始め、そう言えば、もう秋が近いという事を思い出した。
夏を跨いで彼女はセレンの許に居て、3ヶ月目に突入している。誕生日も近くなって来たし、このまま陣中で迎える公算が大きい。
平常でも誕生日を祝ってくれるような友人には恵まれた事はなかったから、それ自体は特にどうも思わなかった。ただ、存外長くこの社会勉強は続いていて、いつのまにか自分は随分と色々なものに染まってしまったものだと、妙に感慨深いものがある。
「些か遅れていませんか? 隊長」
月の位置を見たのか、副官――シラー傭兵団の一人でセレンが各隊に配備した部下の一人――が進言してくる。
「進軍スピードを上げよう。貴公は後ろから追い掛けてくれ。くれぐれも大きな音は立てないように」
騎兵隊に隠密性を求めたところで余り期待できないが、気付かれてよい位置と不必要に気付かれてはいけない位置というものくらいを分けられない程彼女はその種の才能に乏しいわけではなかった。
「音を出す者は絶対に殺してやる、とでも脅したらいい」
アリスはそれの実行に躊躇するつもりはなく、それを副官を務めることになった青年もよく分かっているらしい。
頷いて、彼は後尾に移動した。
緊張がないわけではない。全部が未知の事だったし、最善を取っている自信なんて欠片もなかった。それでも、課されたからには、自分でできる範囲の事には力を尽くさないと済まない性格が寄与したのか、重圧に潰される事なく何とか綻びを見せない程度の指揮は執れていた。
はっきり言って、もうこれで一杯一杯だったが。
早く戦闘になればいいと彼女は多くの所で思っていた。そうなれば、あれこれ要らない考えが顔を出してくる事もないし、敵は殺すだけという単純明快な作業をこなせばいいだけだ。
行軍速度や規律なんてそんな事を勘案するなんて自分には荷が重いと益々、確信を強めつつあった。しかし、それは全部セレンや他の人物が判断する事で自己評価と他人の評価が重なるのは僥倖の中でも一際大きいものになるだろう。
丘を登る作業は何の障害もなくこなされて行く。
風が出てきて夜露に濡れる草を靡かせ、夏の最後を知らせる薫りが場違いの様に騎兵隊を包んだ。
それから半刻ほどで大体の工程は踏破した。今までで彼女を遮るものは何もない。
後は計画を実行に移すだけで、しかしそれが今なのかは判断が付きかねた。
弓兵はまだ到着していないかも知れない。
それを知る術はない。かの隊が到着しているか、していないかはこの場では彼女の胸三寸で決まるのだ。
短い時間彼女は逡巡して、決断した。
250騎という大所帯が一箇所に集まり、それが敵陣直ぐ近くにあるというのは時が経過して行く毎に発見される危険性が増す。
その危険性を指を咥えて見ているのなんて愚か者のする事だ。
「火矢の準備をさせろ」
副官に命じ、弓を持っている50騎以外の兵が馬を降りてその準備に取り掛かった。
ここからは時間との勝負だ。
もし見張りの兵がいて、種火に気付いたら混乱を生じさせる前に状況を悟られてしまう。
すると、対応に必要な時間もずっと短くなってしまうから、被害も少なくなってしまい、逆にこちらの被害が増えるだろう。
1分1秒が惜しい気持ちでアリスは準備が終わるのを待っていた。
「準備できました」
誰かが報告に来て、アリスは即座に攻撃を命じた。
燃え盛る油を染み付かせた布を巻かれた矢が暗闇を裂いて敵の軍営地に向かって飛んで行く。
結果を見ずに、次々と放つよう命じ、彼女も自身の弓を取ってそれに加勢した。
辺りは篝火で照らしたように明るくて、きっと敵も視認できるに違いない。
今更、視認したところで何をどうする事もできないだろうが。 最初の内は火矢は軍営地の中に消えてそれまでだったが、何回か繰り返している内に何か引火するものに運よく突き刺さったのだろう。軍営地も篝火を焚いたように明るくなった。
「やったぞ」
思わず彼女は叫んでいた。
これで最低限のこの作戦の目標は達した。
消火活動。しかし、今もやまない矢の雨。
余裕が生まれた事で冷静さが興奮の中に付け入る隙ができて、彼女は辺りを見渡す余裕を得た。
軍営地に降り込む矢は別の方向からもあった。
セレンの部隊が射掛けに射掛けている。
彼の部隊は大きな松明を持った兵が居て、アリスのいる位置からでもそれを認めることができた。
「隊長、矢が尽きました」
その報告を受けて、アリスは隊を数百メートル下がらせた。
それからは状況観察が続き、セレンの隊が一頻り矢を浴びせ掛けていると漸くの事、敵がそれを打ち払う為に隊を繰り出してきた。
明らかに動揺が走っているのが見て取れて、知らずアリスは笑った。
しかし、その数は800。随分と弓兵隊よりも多く、隊伍は全くと言っていい程用を為さなかったが、それでも数に押せば殲滅は難しくない。
敵が出て来たのを見て、直ちにセレンは退却を命じたのか、弓兵隊は撤退を始めた。
弓兵は軽装歩兵の集まりで、敵は重装と軽装の混成部隊、だが軽装歩兵は自らだけが突出するのを嫌っているのか重装歩兵と足並みを揃えていたから、大部分の人間は余裕のある撤退ができそうで、セレンは敵が追い付こうという試みを諦められないような微妙な距離を保って遅々と軍営地まで戻っていった。
どうやら敵は騎兵隊を回す余裕まではないらしい。
門から全員が出てくるのを見終え、それからまた暫く時を計算したアリスは、大体セレンの指示通りの時間に達したと思われる時まで待ってから、騎兵隊に向けて短い激励の言葉を掛けて――どうして掛ける気になったのかは分からない――追撃をする敵の追撃を命じた。
アリスを先頭に騎兵隊は錐状な隊形になって丘を駆ける。
ラシェル率いる歩兵隊が潜んでいる辺りまでには追い付きそうだった。
ここまではセレンの計算通りに進んでいる。見事なまでに完璧に。
敵の先頭が歩兵隊と刃を交わして直ぐに、アリスも後尾に辿り付くだろう。
それで、終わりだった。
敵は弓兵隊の末尾を蹴散らしながら進んでいる。弓兵隊にもう規律という言葉はなく只、シャルトルの軍営地に向かって敗走しているだけだ。
これもまた、セレンの言葉通り。
敵は殺戮に追撃に夢中になって背後に迫る死神に全く以って気付いていない。
松明が消えた時、敵は初めて止まった。
歩兵隊が姿を現したのだ。
銀色に月明かりを照り返す短剣を片手に襲い掛かって来る重装歩兵が。
その止まった隊伍も何もない敵軍の集団に騎兵隊も時を置かずして突っ込んだ。
騎上から剣を振り下ろし、敵を一人ずつ葬り去る。
咄嗟に、騎兵隊としての運用として間違っていると思ったが、今更それを取り戻すことは望めそうになかった。
馬首を巡らし、目に入る敵兵に剣を振るい、白兵戦をしばし展開して、その戦闘は終わった。
全く敵には思慮というものが欠けているか、それとも頭に血が上ってそれを曇らしたのか、まんまと見え透いた罠に引っかかったのだった。
騎兵隊を一箇所に纏め置いて、アリスは単騎、セレンとラシェルの許に向かった。
その途中、辺りには屍が散乱していてそれは殆どが敵のものだったが、何人かに一人の割合で味方と思しき人間も混じっていた。 「やあ、アリス。見事な働きだったね」
一際、明朗な声が辺りに響き、それがセレンのものである事にはなんら疑いようもない。
「命令通りに動いただけだ」
声の方に近づいて馬を降りる。
握手を求めて来たのでそれに応じ、何故かその弾みで抱擁まで交わしてセレンはやっと放してくれた。
「お嬢さんは?」
セレンは苦笑して、後ろの方を示す。
そこには呆然とした様子でラシェルが立ち竦んでいた。
「どうしたんだ?」
何故そんな風に放心しているのか全く理解できなくて、アリスは首を傾けた。
「どうにも、目の前で人が死ぬのは初めてだったらしい。確かに、刺激が強いだろうね。あの歳には」
態々、総司令官を引っ張り出しておいてその言葉だった。
明らかにまだ、10になるかならないかの子供で、その歳で人が死ぬのに慣れていたらそれはそれで問題があるだろう。だが、セレンはそんなことを意に介す様子もなかった。
きっと彼自身は他人の生死に心を煩わした経験がないのだろう。そうでもなければあまりに反応が冷淡で微かにその声色には侮蔑の色が篭ってもいる。ただ一般論くらいは知っているし、それを表に出さないだけの分別があるだけの話だ。
アリスも特にそういう事に心を煩わした事はなかったが、自分たちが普通でない事を知っていて、普通である彼女の動揺を慮る事くらいはできた。
「閣下……」
声を掛けて近づいてみる。
一体どうして、彼女にここまでしてやろうという気持ちがあるのか、アリスは一瞬そんな事を思った。――多分、歳が一番下の、一番仲の良かった妹と重なるからだろう。性格は全く反対と言ってよかったし、他人だという気持ちもあったが、不思議と世話を焼きたくなってしまうのだ。
ロザリア。どうしているだろうか。元気でやっていればいいけど。
ふと、そんな事まで心に浮かんできてアリスも狼狽した。戦闘の熱が変な所を刺激してしまったのかも知れない。
それを引っ込めようとアリスは、ラシェルに更に言葉を掛ける事にした。が、そこまで来てなんて言葉を掛ければいいのか皆目見当が付かないに気が付いた。
一瞬、時が止まった様に感じて、結局ラシェルの方が声を上げたので、アリスはそれ以上言葉を考えなくてよかった。
「……怖かった」
ぽつり、と零した言葉。
小さくてまだ少女の声。
「怖かったよぉ」
嗚咽交じりになって、彼女はアリスに抱きついて来た。
それ受け止め、益々妹みたいな感触が思い出を生々しくしそうで彼女は彼女であたふたとしていたが、それでも傷心の領主への慰めを優先する分別は生きていた。
「もう大丈夫です、閣下。誰が閣下に刃を届かせましょう。それは私やウィオーラが防ぎます」
「でも、でもぉ」
しゃくり上げて、幼子そのもので、気丈な振る舞いが影を潜めている。
張り詰めていた糸が切れたように彼女は一頻り泣き続けた。
その間、アリスは頭を撫でたり背中を撫でたりして、落ち着かせようと心を砕き、セレンはアリスに任せ切りにして、後始末の命を次々と下していた。
泣き声が止むと、ラシェルは自分で涙を拭いて、アリスを離す。
「す、済まなかった。礼を言う」
離れるといつものラシェルに戻っていた。
「いえ、私なんかよければいつでも」
本音をいうとこれで勘弁して欲しかったがこう言わない訳にもいかない。
「ありがと。この事は誰にも」
「はい、内密に」
幸い、泣き声は小さかったので気付いた者は少ないだろう。それにその辺はセレンが配慮を怠る筈がないとも思えた。
安心したのか頷くと彼女は駆けてどこかに行ってしまった。歩兵の隊に戻ったかも知れない。
「中々扱いが上手いね。私に代わらない?」
やる事は終えたのかセレンが折りを見たように声を掛けてきた。
「嫌だ。子供は苦手だ」
「その割には手馴れていたけど。下の兄弟が居たの?」
「ああ。私は1番目で下に3人居た」
「最初は苦労するよねぇ」
セレンも1番上なのか、経験から来る溜息を吐く。
「まあな。あれが妹なら、それは苦労もしそうだな」
エテルノを思い浮かべる。一度対しただけだったがあの冷淡さと我の強さがあった日には兄の威厳なんてあって無きが如しだろう。
だが、セレンは片眉を上げてアリスの誤りを訂正した。
「エティとは血の繋がりはないよ。私には弟がいたんだ。エティがあれだったらどれだけ救われるか。――エティは拾ったんだ。ちょっと前にね」
妹でもない人間を連れているのもびっくりだったし、それを拾ったなんて言われたら全く意味が分からなかった。これは買った、ではなくて安心するべきなのだろうか。
「拾った?」
当然の質問をぶつけてみたが、生憎時間がそれを許してくれなかったらしく、会話はそれで終わった。
「帰ろう。準備は整った」
先頭を弓兵隊。歩兵隊が次ぎ、騎兵隊が殿を務めて、シャルトル軍は帰還の途に就いた。弓兵隊と歩兵隊の間には捕虜が100名近く武器を取り上げられた上で歩いている。
逃げたのは少数で、大半は討たれた。
ちらと捕虜を見た中に、どこかで見たような顔があったが、どうせ前に戦場で会った傭兵だろうと気にしなかった。出会いは多いし、一々気に留めていたら直ぐに頭の方がパンクしてしまう。 軍営地に帰還した時には、歓声を上げて皆が出迎えてくれた。 気が気でなかったらしく、殆どの人間が起きていた。多分セレンは憤慨している事だろう。
寝ずに待っていた部隊は丸一日寝るのをふいにする羽目になるのは確実だ。
そして、その見張りの為にセレンかアリスかアジャーニかが睡眠をふいにするのも。
奴隷、従者の連中も営舎の中から出てきていて、その中でもやはりエテルノは1番目立っていて、湛えた表情は彼女に対する認識を改めるには十分過ぎる程のものがあった。
何をそれほど心配しているのか、秀麗な顔は心配で歪み、その目には涙が溜まっているようにさえ見える。
ずっとアリスはエテルノを見ていたのだが、エテルノも気の迷いか、ちらとアリスを認めて目が合い、すると、何が嫌だったのか視線を切るのと同時に営舎に引っ込んでしまった。
エテルノの今見た姿は、彼女に対する不満を随分と洗い流していた。
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