16.

 決戦の機運は高まりつつあった。
 敵はもはや絶対的な優位性を保持していないし、味方は気力が充実している。幼い領主を勝たせようとする者もいれば壮麗な傭兵に心奪われている者もいたが、敗北を肯ずる空気はない。将校たちは元からこの戦に勝とうと勝たねばならないと思って参集していた。手段さえ選ぶつもりがないのが幸いして、今は優位に戦況が運んでいる。
 だが、拙攻はしなかった。
 夜襲の翌日、会戦をフォンテーヌ伯は望んできたがそれには乗らなかった。
 まだ、利用できる手立てがあったからで、運よく手にする事ができた捕虜たちがそれだ。
 800名の内降った者は96名。逃げ得た者は20人程度だろうから、 大きな戦果と言って良い。
 あの短い時間で、敵は中々多い数を動員していた。軍営地の周りに壕を巡らしたり、他の防衛策も取っていない、知恵のない、軍事における常識も根付いていないこの地方の人間に即応できる人間がいるとは驚きだったが意外と使える人間は多いものらしい。上が愚かでも下までが愚かとは限らないものなのか。
 だがもはや、セレンはこの戦に負ける要素を見出す事ができなかった。
 こちらには、また別の面の才能を示したアリスが率いた強力な騎兵隊がいて、会戦となれば指揮をセレンが完全に執れるから、懸念があるとすればアリスが率いないどちらかの翼軍だけで、妥協をすればアジャーニに率いさせてもいい。彼は戦術眼はさっぱりだったが、統率には長けているし、戦場での働きに於いては満足できる力を持っている。
 代替わりをして、その後継者が余りに若すぎただけで元からの力はシャルトルの方が大きい。その力に相応しく繰る者がいれば、フォンテーヌに敗れる道理はなかった。
「エティ」
 外に控えている従者を呼び出して、命を下す。
 さっそく、セレンは計略を実行に移そうとしていた。
1 0分もしない内に衛兵を前後に挟まれた捕虜の隊長を伴ってエテルノが帰ってきた。
「余人を交えたくない。外で待機しておけ」
 衛兵すら外に出して、捕虜とセレンは面した。と、そこで目の前にいるこの人間はウェスミル語者だという事にようやく気が付いて出かけていた言葉を口に出す前に変換した。
「さて、貴公の名前を伺ってもよろしいか? ――そう、ロアール殿と。貴公が残念な結果としてここに居られる事を非常に遺憾に思います。何か足りないものはございませんか? そう。ない。ならば結構です」
 尊大に振舞う指揮官級の明らかな人間と話す機会を得た事に哀れな捕虜は面食らっている様子だった。
 随分若い、それでもセレンよりは年上だったが、20前半ほどのハンサムな男でセレンの言葉に頷いたり、感謝の言葉を述べたりする姿が緊張に固まっているのがよく分かった。
「貴公らを早く相応しい場所に帰して差し上げたいが、中々、事務というものは煩雑なものでしてね。幾許かの時間が掛かる事をご了承頂きたい。もしかすると、その前に戦争が終わってしまうかも知れませんが」
 実際には捕虜の返還要求など為されてはいなかった。フォンテーヌ伯は自らがそれを得たらするようにシャルトルも捕虜を全て殺すだろうと思っているのかも知れない。それとも捕虜になるような人間には用はないという見方もできなくはない。酷い拷問の末に殺されたのだ、と兵に伝えて発奮を促す材料にしている事をセレンは間者――奇襲の際の混乱を利用して紛れ込ませるのに成功していた――を使い、知っていた。
「貴方は将校であられるから、1日2時間の自由行動を得る権利を有しています。これはイヴェール王国がシャルトル伯の大慈大悲により与えられる将校の特権です。当然ながら戦闘中には許可できませんがそれはご了承下さい」
 思わぬ待遇の良さに益々捕虜は状況に置いていかれている様で、可哀相な事にその頭では理解するのに大分沢山の時間を浪費した。予想の付きかねる展開であるのはやっている自分がよく分かっていたから、捕虜の慌てぶりを優越感に浸って眺めるだけで済んだ。
「その権利は今この時より発生します。私の口からそれを貴方に伝える事が叶った事を嬉しく思います。それではまた」
 未だびっくり眼の彼と握手を交わし、外に控えていた衛兵を呼んで彼を牢に戻した。
「エティ」
 それからすぐに再び従者を呼ぶ。殆ど、間がなく彼女が姿を現した。
「口述するから、筆記をお願い」
 セレンが口述を始めると、その内容にエテルノが柄にもなく驚いてセレンを見返した為に少しばかりの文言を聞き逃して、態々それをもう一度言わなければならない二度手間を彼に強いる失策を犯したが、それ以外は順調に進んだ。
 元々高い教育を受けていて、更にセレンの元でも勉強をしている彼女は、流麗な文字も操ったし、何より頭も良く、身の回りの世話をさせるには十分な能力を持っていた。少々、役不足の感も否めないのも事実だ。
「基本に忠実に最低限、用を為す様にしてみたのだけれど、うまく行くと思う?」
 時にこうして彼女の意見を聞いてみても的外れな事を言ってくる事は少ない。それはその筈でセレンとは似たような教育を受けていて、セレンしか話す相手がいない状況が続けば思考パターンが似てきても可笑しくはない。
「これが出来なれば人間の知性、そのものを疑わなければなりませんよ。果たして、ヒトは退化するのだろうか? いえ、ここは文化の程度とヒトの知性が比例するかの証明?」
 大真面目にエテルノがそんな事を言ったものだからセレンは少し笑い、それから口述したそれを実行に移す様に命令を下した。
 数日の間、軍営地はかつてない活気に覆われていた。
 糧秣を届けてくる兵に紛らわせて、遠くまで兵を派遣したり、2度ほど騎兵同士が小競合いを演じたりもしたがアリスの騎兵隊に追い散らされて、今は鳴りを潜めている。詰まらない事を考えていなければよいが。
 活気を見物する為に天幕を出て歩き回っていると金髪の男が呆然とそれに見入っている姿が目に入った。
「これはロアール殿、ご健勝ですか? 何か至らない所はないでしょうか?」
「いえ、十分に整っております。細やかな心遣い痛み入ります」
 セレンに声を掛けれてはっとした彼は呆然としていた様子を気取られたくなかったのか取り澄ましてセレンに対した。
 セレンは何気ない、という様子でロアールが呆然と見詰めていたものに目を遣って、説明した。
「投石器です。ご覧になった事は? そうですか。無理もありません。これも古い文献にあったものをひっぱり出して来たものなのですよ。上手く作動するか分かるものではありません」
 活気に満ちていたのは工事の音がけたたましかったからと、兵たちが意欲を高く持ってそれに臨んでいるからでもあった。
 今、工事を監督しているのはアリスで、監督の役はラシェルも直々にしているし、セレンも当番が回ってくれば指揮を執っている。全軍挙げての仕事で総司令官さえも出張っていたから嫌でも空気は高揚した。
 ロアールは投石器の完成した時の大きさを想像したのか、はたまた、その攻撃を受ける所を想像したのか小さく呻き声を上げた。 「……いやはや、貴軍には大変に美しい指揮官がおられる。羨ましい限りです」
 軍人としてのプライドがそうさせたのか、ロアールは話を変える。
「ええ、我々のアイドルですよ。彼女は敗北を知りません」
 セレンはそう返し、それきりロアールは黙ってしまった。
 一頻り工事を眺めていた彼は、時間が迫っているとセレンに詫びを言い、牢へと戻っていった。セレンはと言うと、目的を達せられたからそれに満足し、工事を続けている兵を激励してから天幕へと戻った。
 次の日には、捕虜を全員呼び出した。
 それの前でセレンは一席ぶって、事の総仕上げとするつもりだった。
「諸君、伯は諸君らを解放する事にした」
 一瞬、シンと静まり返り、それからどよめきが取って代わった。 決戦が終わるまで留めて置かれると思っていたものが、それに参加できると知った兵の反応は様々だった。セレンの寛大な待遇に屈辱を感じた者もいれば恩義を感じた者もいるようであったし、投石器を作る音を聞いていた彼らは少なからずその兵器に対する恐怖を植えつけられてもいただろう。
 セレンは更に、何故戦争という手段をラシェルが執ったのかを説明し、与えられていた情報の差異により兵士は動揺を来たした。続けてフォンテーヌ伯の誤りを詰り、益々混迷の色を深める兵士たちに向かってこう言って話を終えた。
「やはり運命は会戦によって決められるべきものだと伯は考えておられる。諸君らはその言葉をよく考えてみるべきだろう」
解放に対する条件は何一つ付けなかった。
 まこと寛大で、やや常軌を逸していると思われるこの行為も、一枚岩でない敵軍には十分な打撃になると踏んでいた。拷問された上に殺されたと吹き込まれていた兵士たちが戻ってくればどうなるのか。
 巨大な兵器を間近に見た者の言葉が兵士たちの間で広まるのも早いだろう。
「司令官」
 100名に迫ろうかという捕虜の中で声を上げるが何人かいた。その声は鋭く覚悟に満ちていた。
「何だ?」
 セレン対する呼称は公式には傭兵隊を纏めてしかいない為、部隊長が適当かと思われたが今はそんな細事を指摘する場面でもない。
「我々は司令官の許で働きたく存じます」
 再びその場に静寂が降りた。
 その意思を示したのは10名程で、どれも若かった。
 元々この戦争は内乱かそれか紛争かに分類される類のものだ。国という枠組みがこの地方では廃れて諸侯が勝手な振る舞いをしている領地が多いが、シャルトル伯とフォンテーヌ伯のどちらもイウェール王国の臣下だった。人種も違わなければ民族も違わない。言葉も全く違わなければ、つい先ごろまでは同盟国として交流も盛んだった。
 鞍替えに抵抗を覚えない人間が居ても不思議はない。
 それに、心証を良くセレンが振舞っていたのだから感性豊かな若者がそれに引っかかるのも無理はなかった。
 若き過激派は捕虜の内に1番の動揺をもたらし、若さから来る根拠なき自信に支えられた強気の態度に感化され自らの去就に悩み始めている者も出て来ているようだ。
 セレンは予測済みの行動を、今初めて知った様に驚き、その言葉には感謝を述べたが敵陣に帰るのを薦めた。そこで悩んでいた声無き少数派は思い留まる方に傾いた。しかし、言い出した若者たちは頑としてそれを聞き入れなかったので、仕方がないとでも言う仕草で自軍に加わる事を認めた。
 残りの80余名は帰る事を選び、ロアールが代表してラシェルの慈悲に礼を述べ、それからセレンの振る舞いにも感謝を表してから軍営地を去って行った。
 捕虜を返還した効果はすぐに現れた。
「あっはっは」
 報告を聞いてセレンは笑いを押さえ切れなかった。
 こうも掌の上で思い通りに動いてくれると、あまりに上手く行き過ぎて怖いくらいだ。
 捕虜たちが持ち帰った情報に恐慌状態に陥った敵陣営は統制が緩み脱走兵が相次いでいる。その少数はシャルトル軍に保護を求めてきた。逃げてきたはいいが同胞に剣を向けたくないと言うので、軍営地の守備隊に組み込むくらいにしか役に立たなかったが、相手から戦力を削るという事だけでも効果としては大きいし、目的は最初からそれだけだった。
 脱走兵を見つけ次第、フォンテーヌは見せしめの為に殺したが、それで歯止めが利く状況では、もはやなくなっていた。
 ここに至り、セレンの方から会戦を挑戦する事にした。
 相手の不利は圧倒的に揺るがなかったがここで退いてはフォンテーヌは破滅だった。勝利を以って拡張していた勢力は敗北を以って終焉するのが成り上がり者の末路だったのだから。
 受けるしかない状況に、開き直って一分の勝利の可能性に懸ける事にしたのかフォンテーヌ伯は陣を布き、どう転んでも最後になるであろう戦いの幕が切って下ろされた。


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