17.

 セレンが鎧を着けるのをエテルノが手伝い、とは言っても彼女の細腕が鉄の塊を持てる筈もなく彼女が手伝ったのは止め具を付けたり、マントを羽織らせたりに過ぎなくて、従者として相応しいとはとても言えなかったが彼女を好き好んで従者に選んでいる時点でそれは捨て置かないといけない事だったから彼が言えた問題でもなかった。もっと手持ちに余裕があればちゃんとした従者も雇う所なのだが……
拙いエテルノの手伝いも昔よりは大分手馴れてきて、それでも十分に時間を掛けて準備を整え、天幕を出るとアリスが態々セレンの天幕を訪うつもりだったのかすぐ前まで来ていた。流石にその面持ちには緊張の色が覗いていた。やはり会戦ともなると受ける重圧の質は夜襲の際とは比べ物にならないくらい圧し掛かってくるものらしい。
セレンは、といえば、やっぱり彼も歳相応に血を滾らせていて、冷静を努める様に自分に言い聞かせねばならないくらいだったのだが。
「セレン」
アリスよりも先に、後ろの可憐な従者が鈴を転がすような声を心配に震わせながら掛けてきた。
振り向くと、エテルノが両手を胸の前で握り締めていて、瞳の奥はとても穏やかとは言えなかった。
「どうか、ご無事で。それだけをお願いします。何よりもご自身のお命を1番にお考え下さい」
「そうそう死にはしないよ。負けなければね」
実際に部隊を率いても、剣を交える事はそう多くはなくなっていた。何よりセレンには考える事が尽きる事無くあるのだった。最も彼に課せられた重要な任務は、戦局を視て適宜に戦闘を有利にする様に軍を運営する事、だ。その時が過ぎれば戦闘にも参加するかも知れないが、その時は既に勝ちが見えているか、反対に負けが見えているかの時だった。
そう言ってもエテルノに安心をもたらす事はできなくて、彼女は敵の攻撃全てがセレンに向けられているとでも思っているかの様な反応だったが、それからセレンはいつもの様に彼女を安心させるように更に言葉を重ね、それでようやく彼女は落ち着いた。
落ち着いたら、彼女はセレンの後ろにアリスがいるのに気が付いたようだった。じっと見詰められていた瞳が外れ、アリスを捉える。
何かまた、アリスの心情を乱すような事を言いはしないかと刹那、はらはらとしたが、エテルノから出た言葉は全く意外なものだった。
「……アリス、様も。……ご無事をお祈りしております」
恐る恐ると言った感じだったが、しっかりとエテルノは言って、その空気の変化に居たたまれなくなったのか、それとも自分の柄でない事をしたのをセレンに何か言われたくなかったのか、セレンが言葉を掛ける間もなく天幕へと引き返してしまった。
「お前の言った通り、本当はいい子、だったな」
何気なくアリスは言って先へ歩く。言葉には出しはしないが彼女がエテルノの言葉に満足しているのは明らかだった。
セレンの知らない間にアリスはエテルノに接触したのかも知れない。不遜な態度で対されて、それにアリスも憤然としていたし、まさかそれで接触を図ろうとは一体アリスにどんな心境の変化があったものなのか。それとも意外と、態度ではああだったが、度量が大きいのだろうか。
自分だったら、そんな見ず知らずの他人にああいう態度を取られたら絶対に許せないだろうと、自嘲気味に思った。
「ありがとう、アリス」
エテルノが他人に話しかけるのを見たのは初めてだったから、保護者として彼女の成長をもたらしてくれた人に感謝を述べるのは当然の務めだった。それに片付けてくれた案件は彼が先送りにしていた問題でもあった事であるし。
アリスは立ち止まってセレンに振り返り、小さく笑っただけだった。
「さあ、行こう。今はそれに感けているときでもないだろう?」
すっかりアリスは上機嫌で、それが態度にも微かに表れている。
懸念や気後れなどは完全に置き忘れて行くつもりだ。
セレンが作戦会議を開いた時に列した人物の中で最も戦死の可能性が高いのは彼女だ。自分の武力に物を言わせて率いる類の人間だったから、そういう人間は往々にしてよく死ぬものだ。それを自身も分かっていたからこそ、多少なりとも張り詰めた空気を滲ませていたのだろうが、それをころりと忘れている。
「ああ、そうだね」
忘れているのなら、忘れたままにしておいてあげるのも優しさだろう。
彼女ほどの人間がこんな所で死ぬとは到底考えられなかった。でももし、緊張や気後れが腕を鈍らせたら、それは分からなくなるだろうから。
将兵は既に整列していて、セレンとアリスが最後に近かった。
ラシェルは紅の大マントを羽織っていて、見目は見るからに派手に着飾っており、金色の髪とマントの紅は嫌と言うほど目立っている。
いつもの如く、いやそれ以上に気丈に振舞っていたが、それが見せかけである事はセレンにはもう簡単に見抜けるまでになっていた。彼女もこれが最後だと自覚しているらしく、復讐を遂げられるのだという期待と、敗北に晒されるという恐怖が彼女の中で席を争っているのだろう。
セレンは彼女を促し、演説をさせた。
最高司令官のそれは会戦の前に行われるのが伝統だったからだ。 ラシェルはガラッシアで育ったのをそこで存分に証明する演説を展開した。切々と理を踏んだものだった。いや、演説というより論文に近い。
何故戦端を開く事になったのか、開かざるを得なかったのか、正義はどちらにあり、法にも道にも悖るのはどちらなのか。これを聞けば、当然ラシェルの方にこそ正義があるという内容で、これしか聞く機会のない兵士たちには抜群の効果を発揮した。
「諸君らの許に、不正は正されるものと私は確信している」
そこで演説は終わり、ラシェルは紅のマントを翻す。
シンと静まり返っていたが、それは何も、彼らを奮わせるものがなかったという訳ではない。
ただ、彼らはこういう風な演説に経験がなかっただけであり、その意は十分に伝わったろうと反応を見て推察する事もできたし、その効果はセレンが態々言明する事でもなかった。
兵士の心理状況を見て、それから彼はすぐに布陣の命をラシェルを通じて出させた。
敵は既に軍営地の距離の半分の所に、高地に陣取るメリットを大方捨てて布陣を開始しており、セレンはそれに出来る限り近づく形で布陣させる事を選んだ。
布陣は滞りなく終わった。
右翼にはアリス率いる騎兵隊200。中央に歩兵の3列陣を1500使って組み、左翼はアジャーニが率いる混成部隊が500。
フォンテーヌ伯はそれに対応して、左翼、アリスに対するのに、400近い騎兵隊を投入してこちらを重視するつもりらしい。中央は似たような戦列陣でしかし、脱走兵が響いているのと800近く失ったのが大きいのか1400弱で、右翼には300くらいの騎兵を配置している。
大体、数字上は五分の様相を呈していたが、シャルトルには中央の歩兵隊の後ろに3基の投石器があった。単純な原理を利用した原始的な作りで弾も適当に採集してきた瓦礫なので、命中精度などは望めなかったが、牽制や恐怖を煽ることくらいには使えるだろう。
戦闘の開始を知らせたのは、セレンが下した投石の合図だった。
岩が空を切る唸り声を上げ、頭上を敵目掛けて飛んで行く。
最初の一発は敵前方数十mの所に落ちた。被害はなかったが、心理的な作用は十分望めただろう。
フォンテーヌ伯は間髪入れず前進を命令し、敵はそれを開始したが、その最中に、投石器の2発、3発目が降り注いだ。
投石器の射程をはずれるに至って、セレンは自軍も前進の命令を出した。
接近して2、30mの辺りで投槍がどちらの陣営からも降り注ぎ、運悪く死ぬ者と、死にはせずとも盾でそれを防ぎ、盾が使いものにならなくなった者で溢れ、使い物にならなくなった盾を打ち捨て、白兵戦を展開する事となった。
その間、ラシェルは馬を駆り、大マントを翻して激励に回っていた。紅はひどく目立ち、その激励は忠誠心を奮い起こさせるものだったので、兵たちはよく戦った。
セレンは、といえば、傭兵を指揮し、ラシェルが全軍に対して激励を飛ばしていたのに対し、彼は自分の部署だけに激励を飛ばしていた。それが当然の責務で、全軍への命令は全てラシェルを介してもいる。
中央は押し捲る敵兵、フォンテーヌ伯は巨漢で自分の武勇に任せて指揮を執る類の人間であるらしく、先頭を切って突進して来ていていた。それに励まされた敵兵も勢い盛んで、シャルトル軍はそれを防ぐので精一杯だった。だが、それはセレンとて予想していた事で、中央、及び左翼は戦線を維持できればそれで目標は達せられるようになっている。
問題は右翼で、それはフォンテーヌ伯も見抜いて騎兵隊を倍傾注させていて、その帰趨が勝敗を分ける事になるだろう。
戦端が開くのと同時に高地に陣取っているフォンテーヌ伯麾下400の騎兵隊は、駆け下る速さに任せてアリス率いる200の騎兵隊に襲い掛かって来た。
アリスはそれを恐怖に駆られたのかと勘違いする程、素早く馬首を巡らして逃げた。
その姿を見て意気消沈した中央兵が押し捲られる羽目にもなったのだが、そんな事は当然敵兵に関係する事ではなく、追撃よろしくアリスの騎兵隊を追った。その時、側面に回り込めば確実に戦争はフォンテーヌ伯の勝利で幕を閉じただろうが、騎兵隊の隊長は戦争全体よりも自分の手柄を優先したのだろう。
何より、アリスの名は敵兵にはそこそこ有名になっていたのだ。
自らの手で屠ればそれだけ名も上がるというものだった。
もう追撃に移っていたのだから戦列などは考えていなかったらしい。一騎一騎の間は離れ、容易に命令も伝わりそうになくなった頃、小さく騎兵隊を纏めて逃げていたアリスは反転した。
追撃していた騎兵隊を中心に半円を描く様な反転で、その素早さに命令系統の混乱を来たしていたフォンテーヌの騎兵隊は反応できずその場に留まる事になり、今度は自らが高地より攻められる事になった。
そこからは速かった。1本の矢の様にアリスの騎兵隊は敵をかち割り、想像していなかった打撃に算を乱す敵兵にトドメを刺す様に、攻め上りながら追い散らして、また戦場へと駆け上って行った。
騎兵隊は留まる所を知らず、騎兵隊同士の戦いによって無防備になっていた敵の、シャルトル軍から見て右翼を側面から斜めに突撃して容易く背面へと付き抜けて混乱を敵にもたらし、その勢いを駆って、左翼にまで回り堅実に軍を指揮して固く守るアジャーニ指揮の混成部隊に手を焼いていた敵の右翼を背面から攻撃し、それが敗走して、アジャーニの隊が側面に回って攻撃を始めると自分は中央軍の背面に回り攻撃を開始した。右翼の方は中央の兵を分けて使うくらいには中央が持ち直していた。
もう、そこまでくれば、勝敗は明らかだった。
鮮やか、と言うしかない手並みで彼女は彼女の力だけで勝利を引き寄せたのだ。
セレンがお膳立てをして、敵の騎兵隊長が堅実さを捨てた為に彼女に幸運をもたらしたが、十全を彼女が尽くしたのは間違いないし、更に運の女神が微笑んだのだから、やはりその功は全て彼女に帰すものだった。
ラシェルなどはその力を目の当たりにしてしばし言葉が出ない様子で、そこでぱたりと戦闘が終わったかの様な雰囲気になった。 しかし、帰趨ははっきり目の当たりになったとはいえ、戦闘は継続中だった。
フォンテーヌ伯、彼は遮二無二に中央軍に突っ込もうとしている。最早、ここで死ぬつもりなのだろう。今戦場を捨てても追撃するのはアリスの騎兵隊だ。その体力が切れるまでに彼が逃げ切れるとは到底思えない。それを彼が気付かないはずがなかった。
彼を討たねば終わらない。
まだ、武人のままに死ぬ事を彼は選んだのだから、それくらいの慈悲を見せるのも勝者の務めだろう。
攻撃をそこに集中させた。もう、そこ以外は降伏する者がちらほらと現れている。彼らは逃げる事は選ばなかった。ラシェルの寛容を期待しているのか、多分そうなのだろう。
熱心な心酔者と共に、フォンテーヌ伯は死のうとしていた。
どんな思いを抱えて死に行くのだろうか、とふとセレンは思ったが、そんなのは人それぞれだろうし、聞いた所で彼の欲しているものでもないだろうと思い、その思いは打ち消した。
上手い具合に自軍の兵たちは、衣を剥がす様に周りの兵から殺していき、最後に残った巨漢の男を名も知らぬ兵士たちが殺した。
「アリスに伝えろ。早急に部隊を纏めて、軍営地に向かえ」
それを見届け、生き残っていたほぼ全軍の敵兵の降伏を受けながら、近くの騎乗の者に新たな行動を命じる命令を下した。彼はセレンが言った事を復唱してから、軍を掻き分けて消えていった。暫く時間差があったがアリスの騎兵隊は命令を受けてからその内容を実行したとしたら驚くべき速さで動き始めた。きっとアリスはセレンの命を予測していたのだろう。無駄のない動きだった。 アリスが軍を向けると軍営地を守備していた部隊はすぐに降伏の使者を寄越した。
もう何の帰りもない所なのだ。無駄な足掻きを守備隊の隊長はしなかった。
守備隊の隊長はロアールだった。


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