18.

天幕の外の喧騒に幕を挟んだ所で幕自体が高々布な訳だから、劇的な違いがあるわけでもなく、アリスはうんざりとしながら、その簡易のベッドに身体を横たえていた。
祝勝会という名の大騒ぎが始まっていて、全くこれで戦争は終わったというわけだ。
講和条約を結んだのか休戦協定か停戦協定で一先ずの状態を策定したのかはアリスは知らなかった。セレンはそれにまで臨席していたがそこまでの興味はなかったし、どちらにしろ許されなかっただろう。
ともかく、それの発効を以って戦争状態は解除されたわけだった。
それから軍営地に大量の酒が運び込まれて、宴会が始まり今に至る。
アジャーニは止めなかったのだろうか。いや、もう敵はいないのだ。
一日くらい羽目を外した所でリスクがあるわけでもなかった。
戦後処理も大方終わっている。
後は解散を待つばかりだったから、最後の一日くらい宴を張ったとしてもその判断は間違ってはいない。
だから、と言ってもそれを苦痛に感じる人間は少ないにしてもいるものだ。
天邪鬼というのが一人くらいは。
騒ぐ、というのも嫌いだったし、まず以って酒が苦手だった。
一度、ミーネにふざけ半分に飲ませられて、次の日に色々障りが出たのでそれからは徹底的に忌避している。ミーネは面白がってジュースを出すのだが、それはそれで止めて欲しいものだったが。
「ああ、寝るにも寝れんな」
と言って今更、外に出るのも何となく負けた気分になって嫌だった。
何というわけでもなく天井を見上げる。
随分と遠くまで来た、とふと思った。
マリウス傭兵団では只の兵士だった。それで良いと思っていた。 それが今では、騎兵隊まで率いて、行賞ではアジャーニ、セレンに次いで名前を言及されもした。全く劇的な変化だった。
兵士でアリスを知らぬ者はなく、つまり彼女は既に兵士ではない。
それを懐かしんだりはしないだろう、と思う。
懐かしむにはあまりに短い間だったし、それに懐かしむだけのゆとりがこれから取れるだろうか。
きっと、マリウス傭兵団に帰ったとしても今までと同じ様にはいかないのだろう。
それには少しばかり名前が有名になり過ぎていて、その所為で自由は制約される。
もし、セレンが彼女を偶像として使うと気付いた時に、反抗していたら、今の地位はなかっただろうが、でも、それにはセレンの失望は必至だったし、何の為にそれをするのかその時は疑問すら浮かばなかった。
上に行ってみたい。
セレンの存在は彼女に世界の広さを現実として認めさせてくれた。
伝説も英雄も全部本当にあった事だったんだ。
彼らは遠い昔に確かに存在していて、そして彼らは今もいて、未来にもいるのだろう。
それを間近で見てみたい、とアリスは思う。
幸いに、ここが終着点じゃない。
まだ、才能には限りは見えない。
だから、まだまだ上に行ける筈だ。
「瞬きもしないってさ、怖いよ」
急に声が降って来たかと思うと、その主はアリスの返事を待つ事もなく、ずんずんと中にまで入って来た。
「勝手に入ってくんな。バカ」
アリスに声を掛けてくる勇気があるのはラシェルかアジャーニかそれともセレンかで、ここまで気安いのはセレンしかいない。
彼は軽装で片手にはワインの瓶を持ってその反対にはゴブレットを持ち、夜半の中、琥珀色の瞳が少しだけ光っていた。
「連れないね」
肩を竦めて見せて、アリスが仰向けに身体を投げ出していたベッドの隣にある机にワインを置いて、椅子に浅くその背もたれに大きく身体を投げて座った。
「どうしたの? みんな君の姿を探してたよ」
「こういう場は苦手なんだ」
しょうがないので半身を起こしてセレンの相手をする。どう言った所で彼が出て行かないだろうとは分かっていたから。
「ダメだよ。もっと親密なイメージを持たせないとね」
わざわざこんな時までそんな事をセレンは考えているのか、その徹底振りはあまりに隙がなさ過ぎて反対に少し怖かった。
「まぁ、いいよ。心には留めておいてね。――ワインは? じゃあジュース……冗談だって」
思わずにらめ付けたらしく、セレンは言い掛けた言葉をすぐにしまって小さく笑った。
「外はどうなってるの?」
そのまま上から見下したような笑みを向けられ続けるのは癇に障ったから、適当に話題を探し出した。
「音の通りだよ。今は指揮官も何もない、かな」
「……お前はそれに加わらなくていいのか?」
またセレンは肩を竦める。
「一通りはして来たよ。義務みたいなものだから。――エテルノが君の姿が見えなくて残念がってたよ」
あれ以来彼女が戸惑っている様に感じてはいたから、その言葉はアリスを満足させるには足るものだった。しかし、人嫌いの気を感じさせる彼女が態々あの喧騒の場に出てくるのは意外だった。
「うん? 居ないと分かってすぐに引っ込んじゃったけどね。それに流石に危なくて放り出せないよ」
まぁ確かにエテルノをあの場に放り込めば野獣の中に兎を入れてしまう様なものでまず無事には帰って来ないだろう。これまた意外でセレンは結構大事に彼女の事を思っているらしい。――思えば、決断すれば捨てられるし、それをこんな所まで伴っているのだからそれは当然と言えば当然だったが。
「もう会えなくなる事だしね。もう一度会ってくれるとありがたいんだけど。――君には感謝してるよ。色々とあれから話もしてみたんだ」
そう言われて悪い気は当然ながらしなかった。意識を変えてエテルノとは接してみたがそれがいい結果に転がったのはエテルノもそれを望んでいたのだろう。彼女からセレンに対する想いは痛いほど、流石のアリスでも分かる程、溢れていたから。
どうして、そんなお節介みたいのを焼いたのかは未だながらに少しばかり謎だったがあの時には丁度望郷の念が胸を掠っていたからそれも影響を及ぼしたのかも知れない。
「別に特別な事をした訳じゃない。それに本質的には何も変わっていないだろう」
変わったのは彼女の態度なだけな筈だった。あんな態度を何故彼女が取っていたのかは分かっただろうが、それ以上の進展は望めないだろう。そんな事で翻す様な人間にはエテルノの事を思えなかった。
「それでも理解したというのは大きな進展だよ。私たちはあまりにもお互いの事を知らなかったからね」
そこで初めて思い出したようにグラスを傾けて彼はワインを呷った。
「必要とも思ってなかったんだけど。まぁ、意外に知る事は多くて有益にもなったよ。身近に身近な人がいるのを知ってね」
謎掛けみたいな言葉にアリスは怪訝な表情を返し、セレンはそれに手を振ってそれ以上の言及を避ける。
「君は、これからどうするの?」
「どうするって、帰るだろう。いるべき場所にな」
「大変だと思うよ? あんまり有名になったし、それに……いや、ルクセンブルクは大喜びだろうね」
ミーネの心算はほぼ完全に遂げられたという訳だ。
「あんまり面白くない。給料も上がらないだろうし」
全く与り知らぬ所で立てた功績に支払うべき義務はなかった。まず、通常の任務を暫く放棄していたからこの半年分の給料が出るのかも怪しいものだった。出なかったらミーネにたかってやろう。
「すぐに上がるだろう」
くすくすと笑いながら、セレンはそんな事を言った。
金に執着している様に取られたのだろうが、やっぱり努力に対してそれなりの対価は欲しい。それが間違っているとも思わなかった。
「だといいけど」
この戦争の評価を下すのは団長のマリウスや副長で自身も連隊を率いているアニタでミーネは残念ながら軍事に口を挟めない。あの二人がどんな風にアリスを思っているかは完全に未知数だったので昇進に繋がるかどうかは分からなかった。それにそれを待っているのは100人と下らないだろう。
その内の幸運の一人になれるかは彼ら二人の胸三寸に掛かっていた。
部隊長を経験すると、只の兵士の空しさと消耗品と然程変わらない価値に留まり続けるのは馬鹿らしくて、できる限り早く登りたいものだったが、マリウス傭兵団は大所帯でそれ特有の出世の遅さが生き急ぐ若者には苦痛に感じられた。
「お前はこのままでいいのか?」
そこでふと、目の前の優男の事が気になった。
ラシェルがご執心になって、アジャーニには信頼を寄せられていて、望めばその地位は劇的に向上するだろう。ただ、そういう類の野心は彼には全く見出せなかった。
彼がこの戦争で見せた野心は戦争の終息と共に掻き消えていた。彼にとって戦争の指揮と結果以上に大事なものは今はないのだろう。
「急がない。私は若いし、国に仕えるとしがらみも多いからね」
なんでそんなに達観しているのかは分からないが、やけにあっさりと彼は答えた。
「しがらみ?」
「うん、そう。――やっぱり私はどこまで行ってもガラッシア人なんだよ」
ふと遠い目で彼は言い、その言葉の意味をアリスは掴み損ねて暫しの間、沈黙が降りた。
ガラッシア人と言えばアリスもそうだが、きっとセレンの言った意味は違う。もっと深くてそれは彼の根源に触れるものなのだろう。
だから、容易く触れていいとも思えなかったし、知らずに触れるのも憚られた。
「お金に興味がないわけじゃない。ウチには手の掛かる子もいるし、私も結構湯水の如く使うから……まぁ、それよりも守りたいものがあるんだよ」
それから、ぱっと雰囲気が変わって彼は世間話を始めた。
どこから情報を仕入れて来たのか、少しばかり様変わりした勢力図に注釈を付け加えて、一々アリスは頷く事くらいしかできなくて、恥じる気持ちでいっぱいだった。ミーネがあれだけ好奇心は持つものだ、と言っていたのを思い出す。
満足に人と話もできなくて、セレンが言う事の半分も理解できない。
情報なんて上の人間だけが知っていればいいと思っていて、自分が上に行った時の事なんて考えていなかった。
セレンはアリスが理解していないのを気付いたのか、その注釈をその前提から話してくれて彼女の知識の向上に尽くしてくれ、しかもそれを何気なくしてくれた。
ただ、彼女は愚かでもなかったからそれに気が付いて、益々不明を恥じるだけの結果に終わったのだったが。
「お嬢さんはこれで求心力を増すだろう。アジャーニがいれば内の事はそこまで問題はないだろうし、となれば、この国で3指に入るくらいの勢力を持つ事になる。――権力が集まり始めた。どういう形で収束するかはまだ見えないけど、もしかしたら国境を越えるかもね」
時々、グラスを空け、ワインを注ぎ、いつの間にか瓶が空になっていた。
――うわばみかこいつは。
それで全くの素面と変わらなかったから、薄ら寒いものを感じた。
「そうしたら、アエテルヌムが黙っていないだろう。皇太子は野心家とも聞く。彼が主導権を握っていたら手を伸ばすかも。ガラッシアは爺さんが身体が悪いし、外に目を向ける余裕はない」
いつの間にか話が大きくなり過ぎて、それは確実性の乏しい只の空想論にも思えたが彼は自信あり気に語っていた。
まぁ、どちらかと区別する必要は今はない。
真面目な場ではないのだから。
「すると今度は、ガラッシアとぶつかるかな。――いや、名義上は親族になるんだし、それはないか」
「親族?」
表面上は素面に見えてもやはり酔いが回っている様だ。今のセレンは口が軽くなり過ぎている。
「王孫の一人と王女が婚約をしてるよ。――ただ、失踪したからね。今も有効かどうかは分からない」
アリスが昔、あの子に助けられてから家を出るまでの間にあった失踪事件、王太子夫妻と二人いた内の兄の方、その存在を最も王に喜ばれたという王孫が行方を暗ましている。
セレンに言われるまでアリスは忘れていた。――それほど昔の事で、風化していて、既に誰も注目していないような事だった。
ああ、それで思い出したが、確かあの事件は老王の逆鱗に触れたらしく、王太子の王位継承権が剥奪されている。それでいて一緒に消えた王孫の方は取り消されていないから彼が現在、継承権一位だ。
今どこにいるのか、どうして彼は継承権を取り消されなかったのかはとてもアリスの知る所ではなかった。ただ、要らない推察をすると彼の行動は能動的なものではないと判断されているのかも知れない。その主犯は王太子だったと。
「――そこまで先は誰にも見えないか。さてさてどちらかで私たちの名を聞く事もあるかな?」
どちらもガラッシア人だったからあるとすればガラッシアでだった。
ただ、アリスは今のところ国に帰るつもりはなかったから、名が上がったりするのはセレンだろう。アリスはマリウス傭兵団の行く先で、幸運であれば名を残しているかも知れない。
「まぁ、これも天の御心次第ってね。――と、もう結構遅いね。じゃあ、私は失礼するよ」
言って立ち上がったので、アリスも彼見送ろうと立ち上がる。
入り口まで行く途中でセレンは急に立ち止まり、全く道を逸れた所にあるアリスの天幕――何も物がない――で唯一彼女の所持品が無造作に置かれている所を見詰めた。
「あのナイフ」
セレンが顎で指したのは、彼女の宝物だった。
「――すごいいいものだね。高価だよ。大切にしてるね」
「ああ、宝物なんだ」
そう、と彼はそれ切り暫く黙ってしまい、
「ここでいいよ。――おやすみ。いい夢を」
そう言って、ずんずんと答えも待たずに出口へと向かった。
アリスはただ、訳も分からずにただ彼を見送っただけだった。


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