21.

 行程は1週間足らずで、特に遅延が発生する様な要因もなく、――物々しい300騎に対して一体どんな懸念があるだろう――アリスの予定通りにアミアン侯の居城へと着いた。
 戦争はまだ始まっておらず、しかしその空気は誰の目にも明らかになっていたから、街は私財を持ち出す者、逃げ出す者に溢れ、それを政府としては禁じているのだろう衛兵が城郭の出入り口に立っていて、取り締まっているようだったが、そこは知っているもので金を幾らか握らせば衛兵も目こぼしをしているようだ。  そんな動きを横目で見ながら、アリスがともかく到着を知らせに使節を遣ると、会いに来るようにと記した書状を使節が持ち帰ったので、仕方なくバルナバと副官と二人連れて挨拶に行った。 質素と言うよりはそれに金を掛ける余裕がないと言う様な宮廷での面会は華々しくも劇的でもなかった。
 アミアン侯はまだ年若く30前後の精悍な顔立ちをした青年で、確かにミーネの評した通り、ラシェル程の他との隔絶を示す威力の輝きもなかったし、セレンも持っていた生来の資質から来る煌びやかな雰囲気すらもその影さえ見せなかった。
 ただただ、平凡そうな男で、特筆すべき事は少しばかり容貌が優れていた事と、少しばかりは状況に目を向けられる頭を持っているだろうというだけだった。
 状況に向けられる頭がジル卿との差だとは、すぐにアリスは気が付いた。
「お会いできて光栄です。ええと」
「アリスと」
 握手を交わしながら、彼が彼女の事をなんと言えばいいのか迷っていたので、アリスは助け舟を出した。アリスは家族名を名乗っていなかったから、名で呼ぶしかない。奴隷の様に個人名しかない彼女に対して、一国の宰相が敬意を表さなければその砂の楼閣が崩れ去る可能性があるというのは何とも皮肉だった。
 戦乱は身分をより流動化させる。
 この時になって初めて、アリスはそれを実感したのだった。
 そして、その背景になる自分の手の内にある軍事力の強大さにも気が付いた。
 騎兵隊300は戦争を単独では遂行できないが、その帰趨を決定的にする力を持っている事に。
 これを越える騎兵力があるのは比較的国内の統一を維持しているコライユ大公国の1000弱と急速に力を付けて来ているイウェール王国のシャルトル伯ラシェルの同じく1000弱と、他に500の隊を持つミーネだけだった。目の前の宰相など問題にもならない。 今、正にこの地方の覇権に最も近いのはラシェルとコライユ大公というのが専らの評判で、テミリオンの戦いからのラシェルの躍進は人の端に登る最も時期に適った話題だった。
 直ぐに侯に登るとか宰相になるだとか、荒唐無稽な話が囁かれているのをアリスは久方振りに噂を収集して知る事になって、その地位の確かさにびっくりしたものだった。
 あの少女が大きくなった。言葉を交わした事もあるし胸を貸した事だってある。少し前まで目の前に実存していた彼女は今や虚像の存在だった。
 そして、彼女がそうなっている事を羨んでいる自分に気が付いたりして、それをまた驚いたりしたものだ。
 自分は何も成していない、折角手に入れた地位も市井の人とどれ程の差があるだろうと思った地位は、彼女が最初に気が付いた程ありふれたものでも市井に近くもなかったのだが。
 少なくとも一国の宰相であるアミアン侯が敬意を表さなければならない程の力は備えていたのだ。
 そう思うと彼を見る目も若干変わった。彼には敬服を強いる様な輝きがない。それは侮りという形で簡単に現れた。元々、従順さというものに全く無縁であった彼女の事だ。セレンには服したのも彼があまりにもアリスを押さえつける何を持っていたからで、彼女の本性はどちらかと言えば反撥の方にあるのだ。必要最低限の活力も見せずに、大人し過ぎた振る舞いで諌められて飛ばされたのだったし、だから今度は逆に動き過ぎてみようか、とちょっとばっかり思ってみたのだった。
「お会いできて光栄です。数々の勲は名高く聞き及んでおります」
「ありがとう」
 空気が変わるのをアリスは当然のように感じ取った。
 後ろで控える2人の部下も彼女のその態度に驚きを隠せないと反応した事は見ずとも分かった。
 思い通りの反応でひそかにほくそ笑んだ。
 わざとそういう態度に出たのだから、凍りつく空気はアリスの思う壺でそれを回避して彼女を楽しませる様な切れ者はその場にはいなかった。
 一瞬、あまりの不遜さに行動の止まったアミアン侯は、それでも感情を露にする事なく、語を継いだ。
「いや、大変お美しい。誰もが放っておかないでしょう」
「いえ」
 益々、雰囲気は悪くなる一方だったがアリスはそんな事を当然気にする事もなく悠然とアミアン侯に対した。
 いい加減、内に秘めたるものが表に出てきそうだったのか、アミアン侯は口を閉じてしまって顔が青白く染まっていた。
「アリス」
 バルナバが窘める様に小声で諌めてきたが、それをアリスは完全に無視した。
 この後に、バルナバがミーネに書き送った報告書で「まるで、彼女の方が宰相のようであった」と嘆きとも感嘆とも取れぬ簡素な言葉で言及する事になった面会は、アリスがその扱い辛さを初めて表に出しただけで、というよりもそれが全ての面会だった。
 その日の後から、続々と傭兵がこの街の周辺に集まり、その数は500を越え、城郭の回りを囲むように天幕が張られ、少々他の傭兵団は暴れたようだったが、その何個かの傭兵団で宰相と面会したのはアリスだけだった。それがアリスに懲りたのか、それともアリス以外はそれに足らないという判断だったのかは分からない。もしかするとそのどちらも、とは冗談にならない冗談だった。
 初夏の陽気に包まれる中、漸く戦争の季節になって、陣容の整えたアミアン侯は出陣した。
 その中身はありふれた普通の軍だと副官の一人がアリスに教えてくれたが、どこからどう見ても、信頼の置ける軍である事を疑わずにはいられなかった。傭兵団が5つも6つも参加していて規律は取れていなかったし、それに伴って命令系統も混乱していたし、何よりもまず司令官の統率力が欠如していた。
 それを見て、ラシェルがあの歳でどれだけ奮闘していたのかをようやく現実味として自覚し、セレンが行って確実に彼の名を高めた沢山の傭兵団を纏め上げる事の大変さも知る事ができた。
 これはダメだと確信を抱くには十分過ぎる程の反証を得ていたがそれを改善しようとは思わなかった。アリスが指揮するのは騎兵隊で、この軍と運命を共にする可能性は低い。
 いざとなれば自分たちだけ逃げるという一事は日和見をアリスに選択させるのに効果的な役割を果たした。
 10日程の進軍で敵とかち合った。
 前衛を進んでいたアリスの騎兵隊が定期的に出していた斥候にもたらされた情報で、敵は大体1000足らずと言う事だった。
それを聞くとアミアン侯は街道を逸れ、開けた平野に布陣させ、そこに相手も到着すると互いに陣営地の建設にその日を過ごす事を決め、そこで初めて作戦会議を開いた。列席したのはアリスを含めた6人の傭兵隊長とアミアン侯自身、そして彼の配下である4人の部隊長で、長方形の机の短い一辺にアミアン侯が座り、反対側の一辺にアリスが、その間の長い辺に9人が向かい合って座った。
 長時間に及んだ議論をアリスは欠伸をかみ殺しながら耐え、他の10人が練りに練った戦術を、決定事項になってから、「卿らは騎兵隊の事をご存知でない」と嘲笑に似た一言を浴びせただけで他には一言も発さず、これに関わろうとはしなかった。
 アミアン侯は持久戦に持って行けば敗北を避けられ、尚且つ小さいまでも勝利を得られるというのに速戦を選択し、危険を冒してまで自らの栄誉を欲したのだった。シャルトル伯がジル卿の後背地を掠めるというのを察知していないのか、そんな事は頭の片隅にもないのか、それとも彼女の力を利用したと言われるのを恐れたのかは分からない。
 アリスは何の助言もせず――それにそんなものは契約に含まれて居ないし、全く傭兵の領分から外れる事だったらあえてそれを侵す気分にはなれなかった――アミアン侯の指示に従った。
 次の日に、会戦は行われた。元からしてジル卿は早く終わらせたいと思っていた筈だ。彼に取っては速戦が唯一の取れる道なのだから。しかし、それを本当に分かっているのかは判断が付きかねた。何よりそうであればこの戦争を起こしたりしない。
 左翼、中央、右翼に分かれた軽装備の歩兵が方陣を作って互いに向き合い、司令官の号令と同時に遅々と進み出る。
それをアリスは中央の後ろで小さく騎兵隊を纏めながら眺めていた。
 彼女の役割は追撃とアミアン侯の周りを固める事だった。アミアン侯も騎乗で、アリスの隣に居た。
テミリオンの戦いの評判も態々アリスの騎兵隊というのも全く意味を成さなかった。彼女は勝利をもたらすことはなく、あるのは勝利を大きく見せるだけの殺戮だけだった。
 ちらりとアミアン侯を眺めると、彼は完全に戦場の雰囲気に飲まれてしまっていて頬を赤く染め、戦況を見入っている。こちらに気付く素振りも見せなかったのでアリスも戦況の推移を見守る為に視線を眼前へと戻した。
 眼前に広がる戦況はどっちとも勝敗が着きかねる互角の状態だと判断するに足る状況だった。
 左翼も中央も右翼も全く拮抗していて崩れる様子がない。
 自分を投入すれば、簡単に勝利を得られるだろうと思ったが、アミアン侯が離す筈もなく、態々危険に飛び込んだ所で何の得があるのか分からなかったし、送り出す時のミーネの反応からして勝利を得るより被害を受けないようにする事の方が彼女には喜ばれそうな気がして、結局、伺いも立てない事にした。
 じりじりと戦況はアミアン侯の有利に移ってきた。方々で戦列を崩しかけているのが認められる様になり、方陣は崩れ出すと終わりだった。
 まず、司令官が敗走した。
 次に左翼が、そして右翼が、中央が最後に戦列を乱した。
 陣営地に逃げ戻りそうな気配だったのでアリスは出動の準備を鋭く命令したが、アミアン侯がそれを遮り、離れる事は罷りならないと裏返った声が命じてきた。
「追撃は?」
 それが一つの任務であった筈だが、それすら忘れていたのか、アミアン侯の頭は戦闘の事で、しかも戦術やそういった類ではないことで一杯だったらしい。
「他の者に任せよ」
 他の兵では追いつけない、とアリスは言おうとしたが、やはり止める事にした。この調子だと大きな死地に立たされる様な事はないだろうから、それならそれでいい。
 300の騎兵は全く遊んでいるだけだった。
 結局、歩兵では追い付けず、陣営地に逃げ戻った敵兵は陣営地を盾に防戦に努め、何の準備もしていないアミアン侯の兵はそれを落とす事はできず立て直す機会をみすみす与えてしまう結果になった。
 それはつまり膠着の兆しが見えた会戦の結果だった。


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