22.

 今年は無為に過ごす事になるだろう、とアリスは思っていた。
 小競合いはあったが会戦は避ける雰囲気が支配的になっていて、緊張の維持という事も中々維持の難しい事になっている。その状況でアミアン侯やジル卿が何を望んで何を待っているのかはよく掴めなかった。
 アリスは兎に角自分の部隊の緊張を維持すべく心を砕く事にして、何もない中で適当な任務を考え出し、騎兵隊の内の数騎を定期的にミーネの許に走らせて各地の情報を仕入れると共に、他の何も介さない周辺の街などからの噂の収拾に明け暮れていた。手持ち無沙汰を無為に過ごすのは彼女の様な階級の人間がする事ではなかったし、兵に戦地に居るのに必要以上の休息を与えるのも得策ではないと思ったからだった。
 ミーネからの手紙は、1番日付が古いものがまず会談の時のアリスの態度を叱責する内容が書かれてあって、次に苦笑気味に諭すような内容が続き、終わりは結局の所仕事をやり遂げればそれでよいと言うようにしか読めない内容で終わっていた。
 手紙の様式は特に機密事項に触れる様なものは書き送らなかったし、相手も送って来なかったので、全編がファラミル語で成されていた。ただ、ファラミル語ではこの地では圧倒的に話者が少ないのでそれだけでも一定の効果はある。ミーネは名が示す通りファラミル語圏の人間でもウェスミル語圏の人間でもなかったが、母国語を含め3ヶ国語を等しく扱えるという才媛で、様々な人種が入り乱れている傭兵団の会議の時に全く通訳を使用せずに議事進行をしていく様を見た時には、初めて彼女の優秀さを目の当たりにした事もあって随分感動を覚えたのを彼女の文面も見て思い出していた。
 文面は彼女という人間をよく表していて、何がどれのものなのかは分からなかったが引用と思しきものがここかしこに散らばっていて微苦笑を誘わずにはいられず彼女の別な一面に触れたと思うとなんだか楽しかった。
 反対に自分が書いた物は長くても半ページがやっとで簡素でぶっきらぼうなものにどうしてもなってしまうのを何やら恥ずかしく思ったがそれ以外の書き方がなかったのだから仕方がないと開き直る事にして、その作業に勤しむ事にしている。
 やりとりを通じながら、ミーネは噂を綺麗に散りばめて紹介もしてくれ、それに対する信用度なども書き添えて送って来て、アリスもまた、信用できる――絶対に他言しないという意味で――部下を選んで収拾させた土地土地の噂を収束させ、できるだけ情勢の変化に機敏に反応できる様に努める事にした。
 何をすべきか指示してくれる人間がいない時に、自分が全ての権限を担っていると自覚するとそれは無視できる事ではなかった。従う者に情報は殆ど重要な要素でない事を自らの経験から知っていたが、率いる者にそれの収拾が必須の能力である事を疑う事もまた経験から唾棄すべき事だと知っていた。その証左はミーネであり、セレンだった。
 彼らは全くアリスの知らない事実を常に知っていて、その行動は殆どがそれに立脚されている。
 しかし、そうは言っても情報は要素でしかない事もアリスは気付かずには居られなかった。
 今年のシャルトルの動きは鈍い。これは多くの筋から確認され得た事実だった。だが、これだけしか事実は提供してくれない。 何故かは予断を許す状況もあって何通りか考えられる。
 内を固める事にしたのか、軍備が整わないのか、全く別の理由から動く事ができないのか。
 それのどれに重きを置くのかは判断を下すアリスの役目で、それは彼女の能力に帰される。
 情報を収集する才能もそれを精査できる能力も全てが決断力の有無によって台無しにされるか光を浴びる程の称賛を得られるかの差が出るという点で別の才能に従属する。
 そして、今の所はその決断に迫られる様な状況にも責任も負わされている訳でもなかったから空虚な理論を弄ぶだけで時間を潰していた。
 しかし、それも2ヶ月程度で終わるのを余儀なくされた。事態はもっと差し迫った、緊迫の展開を向かえようとしているのに気付かずにはおられなかったからだ。
 ミーネからもたらせた情報によれば、アエテルヌムの皇帝カエサルが崩御したらしい。そして、世俗には皇太子が暗殺したという噂で溢れていた。
アエテルヌム帝国。起源は遠く古代帝国にまで遡れる国家でガラッシアとは兄弟なものだ。そしてこの地方とはいうなれば従兄弟のような関係で、元々は一つの世界帝国が分かれてできたのが今の世界だった。
 アエテルヌムは皇帝こそが国家だった。代替わりはつまり施政方針の容易な転換をも意味し、今開いたままのウァレンシュタイン――この国家とは又従兄弟のような関係だった――との戦線も明日には収束する事も考えられる。反対に全く平穏に努めていた国を略奪に晒す事もできる。
 崩御と即位。それを、この地には全く関係のない外の世界の出来事と断じる事は不可能だった。そして、セレンが皇太子の事を野心高いと言っていたのがアリスには引っ掛かった。
 もしかしたら、大きな節目を迎えたのかも知れない。
 その思いが付き纏ってアリスの思考を飛躍させた。例えば、ラシェルはずっと前から皇帝カエサルが崩御する事に気が付いていたのではないのだろうか。今夏の動きのなさはそれに備える為だったとか。 暫くこの思想を弄んで、我に帰って荒唐無稽だと自ら失笑を隠せずそれを捨てざるを無かった。
 ラシェルとの間には今アリスが味方しているアミアン侯が宰相のボシュエ公国があるし、大体、動きなどは蓋を開けてみなければ分からない。そんな不確定で確実性の乏しい事案で動きを鈍らせるのは現実的ではない。
 そして、アリスの思考は現実にまた戻ってきた。
 代替わりというのは空白期間を必然的に生むだろう。即位式、人心の再掌握にも時間は掛かるだろうし、喪中である事も勘案しないといけない。
 だから、この影響が出てくるのはもっと後だと思っていた。
 しかし、ミーネが何通目か、ジル卿とアミアン侯が無為に向かい合って数ヶ月を過ぎた辺りに寄越して来た、初めて定められていた暗号文を使って作成された手紙に、これからの情勢の推移に注視するように、と、それを要求すると同時に命ずると念まで押して記されていた事がそう悠長なものではなくなりつつあるのに嫌でも気付かされた。
 まだまだ自分は甘いと、絶望的な気分になったが、今出来る事をしようと切り替える事にした。それからはミーネとの通信を更に密にするのと同時に、アミアン侯自身かそれに準ずる様な人物とも話を交える機会も増やし、動きを出来るだけ掴もうとしたが、自分の最初の振る舞いが尾を引いてあまり友好的な人物を得る事は適わなかった。それは全く自分の軽はずみな行動の代償だったので、自分を呪った。目の前が暗闇である事をすっかり忘れていたツケをここで払わされたのだった。
 仕方のない事だったので、確実性は落ちても多大な労力を費やしても様々な筋から噂を仕入れて、状況の変化が明らかになっていると断定できるまでのものを集めた。
 情報はこうだった。シャルトルが内に篭ったが為に、長期戦の様相を呈してきたジル卿とアミアン侯の戦いが俄かに終結の方向へと動き始めているらしい。
 それは情報からも判断する事ができたが、戦場の雰囲気というか指揮官の心情が表われたというか、そういったものの所為でより真実に近いと思われた。
 そんな風に状態がどう転ぶのか積極的に関わらずに傍観者の様に見守る羽目になっていたが、その傍観者を嬉しがらせる事態がすぐに起こった。
 アリスはあまりアミアン侯とは交わっていなかったが様々な噂が氾濫しその確証が益々強くなりつつあったある日、天幕に呼ばれた。
 二人の守兵が立つ、大きな天幕で、守兵はアリスを姿を認めると直立しただけで誰何もせずに通した。
 アミアン侯は入り口から左手にあった机に腰掛けていた。そこに近づいて礼を取ると間も置かず彼は喋り始めた。
「帰れ、と?」
 アリスは何の感情も篭ってない声で聞き返した。
 彼はそれを真面目な色で受け止めて、話を続ける。
「もう貴女の役目は終わる」
「何故?」
「説明する必要はなかろう」
 冷ややかに彼は言った。
 見下ろすのに目を細めると、彼は視線を外した。
「確かに。私は金で買われているだけだしな」
 それに満足してアリスは尊大に頷いた。肝心の依頼料は全額が派遣の前段階で支払われているので、帰れと言われれば、留まる理由もない。
 そういう思いが目の色にも表れている様だ。思ったよりもアリスも冷ややかに彼に対しているらしい。
 しかし、これで確証が得られた。
 戦に頼らず、ジル卿とアミアン侯は戦争を終わらせる選択をした。
 それは多分、アエテルヌムに備える為とアリスは思った。アミアン侯はアエテルヌムと国境を接するボシュエ公国の宰相で自領が国境に接していなくとも、国が荒らされれば彼の威信は晒される。だが、そういう理屈でいえばジル卿は折れる必要もないだろうと思えたが、外に明確な敵意が存在すると国内が纏まるという例が彼にも適用されたのだろうか。
 でも、国という枠組みは完全に破壊されたように見えるこの地方で?
 この休戦、講和はまだ沢山の予断を残したが、アリスにそれ以上の事情を推察できる断片を与える事はなかった。
「そういえば神聖アエテルヌム帝国は皇帝が変わったと聞いた。何かご存知か?」
 それで何か本人から直接聞けはしないかと試したが、彼は少しばかり顔色を変えただけで致命的な言質を与える様な愚は侵さなかった。
 すっかり諦めて、アリスは彼の求め通りに動く事に決めた。
 もうここに居た所で出来る事も少ないだろうと思いもしたから。
「出発は?――分かった。それまでは。会えて光栄だった。では」
 お義理に握手を交わして天幕を出る。
 アリスが自分の天幕を引き払ったのは1週間後、講和条約が締結されたと発表された後だった。


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