24.

世間に取り残されていた。
アリスはベッドの上で本に目を通しながらふとそんな事を思った。
そして、まわりを見回してみると、殺風景だった部屋がまるで様変わりしているのを認めすにはいられなくて自嘲してみるのだった。
枕元の左手には本が転げ落ちないくらいのバランスを保って何巻も積み上げられていたし、少しばかり離れたテーブルにはカップが無造作に置かれていたりする。
半年もこの部屋から一歩も出ていなければそうなるのも当然だろう。
完全に引き篭もっていたので、ミーネからは少しは歩くのも悪い事ではない、と助言を受けてもそれを実行するつもりにはなれなかった。
身体は自分でもびっくりするくらい痩せてしまって、特に女性としては致命的ではないだろうかと不安になったりするくらいの痩せ方で、一日起きておく事に耐えられる程の体力が戻った後も一向に体つきは戻らなかった。
この1年で変わった事と言えば、後、髪が首を通って悲しくなるくらい乏しい膨らみの上に乗っかるくらいの長さまで伸びたくらいだろうか。
集中力が切れたのを終わりの目安にして、アリスは本を巻き取り左手に積んである山の頂にそれを加えた。
暇潰しと教養を高めろという事でミーネから借りていた――強制的に押し付けられた――本は100巻は下らない。
ミーネ曰く、売れば今アリスの部屋にあるものだけで、平凡な暮らしを一生送れるという彼女の蔵書は、一重に趣味で集めたものらしい。有名な叙事詩や寓話の写本もあればガラッシアの有名な弁論家の弁説論集などもあったり、多岐に渡っているコレクションには給料を傾けに傾けているらしく、だから、減俸に憤慨していたのだと最近になって分かった。
最近は誰と喋るといえば彼女しかいなくて、その所為で随分と彼女の事を分かるようになったし、彼女もアリスの事をよく知るようになっただろう。
毎日1時間はアリスを訪問してきて簡単な検診と後は与太話に花を咲かせるのが日課になっている。
現場復帰は近い、というのが最近のミーネの言葉だったが半年も何もしない生活が続くとそこから身をはがすというのは中々意志のいる事だと感じていた。
とは言っても現場復帰がこの生活の前提になっているのも間違いのない事で、この心地よい生活に安住するのはとても叶わない望みである事は分かり切っている。
病は精神をも蝕むというか、アリスはまた後ろ向きな思考に絡め取られていて、そこから抜け出すには色々なものが足りない。 仕事への意欲も今や完全に失せてしまったし、――アリスが休職していた間、騎兵隊が仕事にありつけた例を一度として聞かなかった。
大きな戦争は起こっていない。この地方を揺るがすような戦争はもう起こらないのだろう。
何故だろう。とは思ってみたがそれを確かめる術をアリスは採らなかった。
知った所で彼女の生活とは何の関わり合いもない。
アリスは言ってしまえば歯車の端の端で、中心が少し触れた時に最後に大きくなる歪の辻褄を合わせるのが仕事だった。更に外にある歯車もある訳だが、中心は最果てよりもずっと遠い。
それに、いくら頑張っても中心には行けない。
祖国を捨てた時にその道も自ずから閉じてしまった。
結局、この傭兵団で歳を取って、運がよければ結婚して子供を設けて、そして死ぬのが運命付けられている。
そう思うと、暗い気分になるのだった。
「あら、暗い顔をしてるわね」
おざなりなノックが2回響いたと思うと次の瞬間には既に扉が開いていた。
今日のミーネは髪を珍しく結い上げていた。右手には書類を抱え、仕事の合間に態々時間を割いたのだと分かる。ここ数日ミーネは忙しそうにしていたが、それでもアリスを訪うのを止めたりはしなかった。
抱えていた書類をテーブルの上に置いて、ミーネはまず簡単な診察を行った。
一通り終えるとベッドの傍にあった椅子に座って長居する素振りを見せた。
「もう大丈夫ね。若さに助けられたわね。精々感謝をしなさい」 アリスが罹患した病は軍には付き物の厄介なものだった。その所為で半年は棒に振っているし、発症したのが冬の終わりだった所為で春は知らずの内に通り過ぎていた。
最初の1ヵ月の記憶は全くなく、朧げながらも辿る事のできる記憶は2ヶ月目からで、まともな食事するのも叶わず食せるのは水とスープだけという地獄を見る思いだった日々は思い出したくもない。ただ、その爪跡が今の体格に色濃く残っている。一向に体重は戻る気配すら見せなくて、もしこのままだったら鏡を見る度に思い出して鬱になりそうだ。
その事を言うと、ミーネはちらりと視線を降ろし、そしてまた上げて、「大丈夫よ」ととてもその言葉を信用できない調子でアリスを慰めた。
「やっぱりそれなりの時間が掛かる。焦っていい事はないわ」
言って慈しむ様にアリスの頭を撫でる。
柔らかく笑んでいるミーネの顔を直視できずにアリスは外を向いた。何となくこそばゆく、でも嬉しい。
「髪はどうする? 切る?」
肩に掛かって余りある程まで伸びた髪を手で梳きながらミーネは言った。
「ううん、このまま伸ばす」
「そう、なら、整えるだけにしておきましょう」
ミーネはテーブルに載せた荷物の中からナイフを取り出して、アリスにはミーネに対して背を向けさせ、そして髪を取る。
随分と手馴れた様子で彼女は髪を削っていった。
「時々ね、切断手術とかもするのよ」
あんまり、洒落にならないものは止めていただきたい。
「大抵予後は良くないんだけど、10人に2人か3人くらいは生き延びて、でも結局戦場には戻れないから、事務方に回わされる。でもまぁ、字を読める人間がそれに混じっているとも限らないから、ずっと大変なのよね。ただ剣を振り回すより」
「でも、バルナバみたいな奴が戦場にいても、そいつらと似たようなものだろう」
右往左往するのが目に見えているし、命を晒されて臆病さを押し隠す事ができるかどうかも疑問だ。もしかしたら、容易くそんな事はやってのけるかも知れないが、今の彼を見てそんな想像はとてもできなかった。
ミーネは小さく笑って、――そういう仕草をしたと思う。
「ええ。そう。結局の所、人には適材適所というものがあるのよ。どちらが優れているとか卑しいとかそんなものはない。ただ才能の方向性が違うだけ」
応えるべき言葉が見つからなかったから、アリスは黙り、暫く髪を削る音だけが響いて、ようやくまたミーネが喋り始めた。
「でも、社会はね、才能を二つに明確に分ける。要るものと要らないもの。望むべきものと望むべきではないもの。社会が一つってわけでもないけれど」
「何が言いたいの?」
一瞬、ミーネは作業の手を止め、すぐにそれは再開されたが暫くまた沈黙が続いた。
「今までの社会では私たちの存在は許された。でもシャルトルの社会は許さない」
諦念を奥底に響かせた様な声色だった。
何をそこまで絶望が彼女を覆うのかアリスには理解できなかったが、傭兵団が危機に瀕するというのはいかにもありそうな事だと思う。
シャルトル、ラシェルはつい1年前まで、自前の軍を整備していると世間を賑わせていて、その時に傭兵団の危険性に気が付いたのだとアリス自身がそう思っていたから。
一体、自分の地で口を糊し機会があれば母体を殺そうと企む寄生虫の存在を許す宿主が存在するだろうか。
しかも、寄生されているのだと自覚しているとしたら尚更だ。
もし自分がその地位にあったとしても、当然傭兵団は目障りになるだろうと思った。
だから、ラシェルがそれを実現する為に何らかの手段を用いたとしてもなんの不思議もない。
そんな考え浮かんだ自分に皮肉的な感情を抱いた。
自らがその寄生虫なのに、一体どの観点から物を言うのか。
もし、本当に潰されたりでもしたら自分も路頭に迷う事になる。
しかし、それが破滅という訳でもない。
生きようによってはいくらでも人間は生きられるものだ。
「それで、だからどうするの?」
抑揚のないぞっとする程の平坦な声でアリスは問い返していた。
「まぁ、確かに貴女にはあまり関係のない事だわ」
自嘲めいた声色がアリスの耳に届き、次いでカチと金属の噛む音も聞こえた。ごそごそと後ろでは物音がして、ミーネはどこからか出したのか鏡を後ろから手を伸ばしてアリスの顔とミーネの顔が丁度入る位置に調節して留める。
「どう? こんな感じで」
空いている方の手で髪を触り、鏡の角度も微妙に変えたりしながらその成果を確かめて、答えを待たずにミーネはうんうんと一人満足そうにしていた。
「羨ましいわ。こんなに綺麗で。うん、確かにこれは伸ばさないと勿体無い。よくウィオーラは気付いたものね」
何故か彼の名が出てきて、どきりとして視線が泳ぐと鏡の中でミーネと目が合った。
途端に蒼い瞳を細くしてにやにやと人の悪い笑みを浮かべたものだから、アリスは視線を外した。
「また、会えると良いわね」
「うるさい」
反射的に答えてから、ミーネの言葉にはおかしな点があるのに気が付いた。
また会う?
シラー傭兵団――彼の所属する傭兵団――はミーネが居を構えるこの都市と同じ所にあって、会うのは至極簡単な事だ。
あの仕事の後も数回は街で見掛けていた。
それが会うのが難しいような響きには不信感を持った。本来ならば、また仕事を、などが正しい筈だ。
アリスがその箇所に拘ったのでミーネは肩を竦めた。――それが鏡を通して見えた。
「行方知らずになっちゃった。手紙も半年は音沙汰がないわ」
交流があったのか。
考えてみればどちらもが互いに言及していたのだからそんなに不思議な事ではないではあるが。
アリスは彼が行方知らずになったと聞いてもあまり動揺は来たさなかった。結果は気になったけれども、蓋を開けてみると特に意外な事でもない。なるほど、彼の行動は突飛だったかも知れないが、その根底に流れているものは分かる様な気がした。
何も理由がなくそういう事をする人間でもない。
そして、理由には心当たりが多すぎる。
だから、「そう」とだけ答えると、それにはミーネも些か驚いた様子だった。しかしそれ以上その話は続かずに、時機を失ったと思ったのかミーネは鏡をしまい、アリスにこちらを向くように言った。
「少し、真面目な話をしましょう」
振り向くとミーネは総長としての仮面を被っているようだった。
久しく見ていなかった顔で、これに相対する時は自然とアリスも私人から何か義務を負う者に作り上げられる。
「貴女はもう仕事を遂行できるという前提で話しますが、当然それへの異議は認めません。私が貴女の健康への快復を保証しますからね。――さて、では仕事に話を移しますが、喜びなさい。久方振りに騎兵隊への依頼が来ました」
アリスは腰を折らないように目顔で尋ねる。
ミーネは頷いて先を続けた。
「依頼主はガラッシア国王。期間はまず2年、最大5年が認められています」
「ガラッシア……」
遥か遠き祖国。
平和で名君が治める国家に一体、何の懸念があるのだろう。
妹たちは元気にしているだろうか?
「正確には騎兵隊だけの雇用ではありません。雇われるのはマリウス傭兵団そのもの。私も、マリウスもアニタも全員です」
それはまた大掛かりなものだった。マリウス傭兵団は総勢3800を数える。それはガラッシアでは1個軍団の定数の半分だったが、その定数を満たしているのは稀だと言われている。つまりそれに匹敵する力をマリウス傭兵団は持っている訳だが、それを雇う必要性が生じるとは一体、何があったのか。
その事について問わずにいられなかった。
あまりに唐突で、何が起これば戦乱にガラッシアが参入してくるなど想像も出来なかったのだから。
最後にアリスは情勢を論駁してみた時に、ラシェルやアミアン侯がアエテルヌムに敵対する為に軍の消耗を嫌ったのだと断じたが、それから1年近くの間で、ガラッシアの顔が覗くとなればそれは明らかな間違いだったとなろう。
「アエテルヌム――神聖アエテルヌム帝国――とこの地方の三ヶ国、コライユ大公国、ボシュエ公国、イウェール王国は非公式に多く会談を持ち、結果、協約を結ぶ流れになっているの。内容はそうね、服従、それも全面的な服従と言ってもいい内容だわ。ガラッシアも当然、それを掴んでいるのでしょう。それが結ばれればここはアエテルヌムの覇権圏内になる事になる。後は分かるでしょう?」
「ラシェルは?」
まさか、そんな外交だけで3国もがひれ伏すとはとても考えられない。一体何を秤にかけてそれを選択したのか。服従する事がこの地方に利すると首脳陣は思ったのだろうか。
それに、あのラシェルが、アエテルヌムに膝を折るなど。
「1万も集められないのに、10万を送られると分かっていれば、賢明な領主だったら耐える事を選ぶ」
冷ややかにミーネは言い、話は再び原因から実践の方へと移った。
何が起きてそんな事になったのかアリスはまだ腑に落ちなかったがミーネが話すつもりがなければ知る由もない。仕方なく、一先ず話を続ける事を選択した。
「もう、殆どの隊は出払っていて、残りは私たちだけ。明日には出発します。準備をして」
「また、急だな。旅程の上に指揮なんて今の私にはとてもできるとは思えないが」
当然の事を言ったつもりだったが、ミーネは特にそれに慮る仕草も見せず、つまりそんな事は考えに入っていたのだろう、アリスの立場を明確に示した。
「指揮は副隊長に任せればいいでしょう。彼が貴女の不在の間はよく穴を埋めてくれました。貴女はただ私と旅行と洒落込みましょう。ガラッシアまでの行程はリハビリだと思えばいい」
言い尽くした、と言った感じでミーネは腰を上げる。
アリスは聞きたい事が山の様に積み重なっていたが、道中、彼女とは一緒らしかったからまた機会もあると思い黙ってそれを見上げて、ミーネが最後に挨拶をする段になった時に、一つだけどうしても今言わなければいけない事に思い当たり、
「そう言えば、これは?」
と詰まれた本を指し示した。
ミーネは苦笑して
「隠すわ。大事なのは持って行く。人をやるから少し煩くするかも知れないけど、ごめんなさいね」
と先に断りを入れてから、手を振ってじゃあねと言葉を残し去って行った。


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