26.

「ままごと遊びもここまでくると笑えるわね」
4年ぶりに会ったというのに第一声がそれだった。
満身創痍に鞭打ち、挨拶だけでもと本部を訪ってみれば、最初に会った時と変わらない姿のアニタが早速、アリスの神経を逆撫でるような事を言う。
懐かしいマリウスに入団を認められた団長の執務室の中で、今はそこにあの時いた人物の他にアニタとミーネが居る。アニタはマリウスの机に軽く腰掛けるような感じで座り、ミーネはその前にあるソファに腰掛けていた。アリスはといえば、できるだけ目を引かないように、そんな努力は意味をなさなかったが、3人から最も離れるように立っている。
結局、あの後は何事も起こらなかった。人里にも近寄らなかったし、出来うるスピードの限りを尽くしたのだからさもあろう。それで、2日野蛮な地を駆け抜けて再びシャルトルの領地に辿り着き、そうなった後は簡単な旅程だった。そして、団長たちがいるこの街に着いて、――アリスがこの街に来るのは4年ぶりで二度目の事だった――、挨拶に来たわけである。
国境の街アルジャン。遥か昔は銀を産出したらしいが今はガラッシアとイウェールを隔てる河からもっとも近き都市。マリウス傭兵団の本部が置かれている事くらいしか特筆すべき点がない平凡な街だ。ガラッシアから近いので、この地方の中では比較的発展している部類に入るが、それも特別強調するべき点ではない。
その中で一際大きい建物の最上階にアリスは居た。
「あら、成長には必要なものなのよ。ままごとだってね」
平然とミーネは返したが、アリスにはそんな芸当とてもじゃないができる器量がなかったので、咄嗟に睨み返してしまい、それに満足したアニタは軽やかに良く響く声で笑った。
「貴女にもこんな時期があったのをお忘れでない?」
ミーネのアニタは友達らしかったのだが、全くそんな素振りは見せなかった。アニタは傲岸でミーネは冷淡だった。それを言ってしまえば、マリウスとミーネは主導権を争う相克の仲の筈なのに、そんな剣呑な雰囲気は露とも見せなかった。むしろアニタとの方と仲が悪そうだ。
「よせ。――無事で何よりだったな。よもやお前に不備があろうとは思わないが」 泰然とした声はその場には全く相応しくない。しかし、姦しい雑談を打ち切らせるには抜群の効果を発揮して、辺りを静まり返らせる。
団長は執務を執っている机の椅子に典雅に腰掛け、その威厳はアリスが常に敬意を表さざるを得なかったミーネとはまるで違う人を従わせる魔力を孕んでいた。ミーネは否応なしに裏に響かせる脅しを常に意識して向き合わなければなかったし――とは言っても最近はそれを向けられた事はなかったが――自身が才気走る所が仇となってほとほと人望がない人物でもあったのだが、マリウスはまるで逆だった。
静謐さと包み込むような魅力があって、傭兵としては優秀かどうかは分からないが組織のトップは彼の天職なのだろう。
アニタといえば、彼女は経営には全く参画していない。タイプでいえばアリスと最も近いがどうも虫が好かないのはそういう同属嫌悪な所がないとは言えない気がした。
「ええ、アリスの指揮がご存知の通り優秀だったから」
それでマリウスの視線がアリスを向いた。話の中心にいきなり躍り出て急に恥ずかしくなってミーネの方を見てみたが、視線は朗らかなミーネにぶつかっただけだった。
まず以って、どうしてアリスは自分がこの場にいるのか分からなかった。
この中で最も下位であるミーネとの間には11人と隊長が隔てていて、1番経歴の長い隊長との距離よりも最も隊長に近い中隊長の方が限りなく近い。アリスは最も新米の隊長で、どう考えてもこの場には相応しくない。
それでもこの場にいるのが許されたのはミーネが厳命を課したからで、それをアニタもマリウスでさえも何の不満も表さなかった。ミーネの命令を、それも他のトップまでが黙認した命令に逆らえるはずもなく、アリスは針の筵に座っている気分でその場にいたが、よもや会話に引きずり込まれるとは。いや、しかし、ミーネが何の思惑もなく行動するような可愛い人間ではない事はとっくの昔から承知しているはずだったが、そこまではあまり頭は回らなかった。
「私は命令に従っただけです」
やっとの事でいい、これでまた観客に戻れるとほっと一息つこうとした時に、マリウスが口を開いた。
「そういえば、アリス。家族名は何と言う? ――今のままでは不都合も出て来ただろう。それに持っていないというわけではないと聞いた。市民権も持っているらしいが?」
一瞬、何でそんな事を知っているのかといぶかしんだがミーネに視線をやるとウインクをして返して来たので、あれが喋ったのだろう。余計な事をと思ったが、心の内で毒付く前にマリウスに返答しなければいけないと思い当たって取りやめた。
「シオンの出身でしたので。市民権といっても階層は1番下です。両親は資産を持っていませんでしたから」
自分の事を喋るのは初めての気がした。少なくとも仕事の場では。
エテルノ――セレンの庇護下にいた意固地な少女――とは話題をどうしても見つけられなかった時に喋った事があったが、それだけだった。話の中でアリスはシオンのスラム街の事を話したりして、それはエテルノにとっては未知の世界だったらしく大層興深げに聞いていたが、反対に彼女の世界の事は聞いたりはしなかった。きっと彼女は資産が100万以上を越える支配階級の中でも一級の階層に在るであろうし、古代から連綿と続く貴族の一員でアリスが想像も付かない豪奢な生活を送っていた筈だから、それを話してくれたりしたらアリスも、彼女の話を聞いて喜んだエテルノのように喜んだ筈なのだが。それでも、あの思い出は悪いものではなかった。
少なくとも歳の近い、初めての友達だったしエテルノは自身の恩人にさえも歯向かう、嫌われる事を厭わない精神には些か不釣合いとも映る聞き上手であり、時折混ぜる質問も頭の良さを感じさせる知性が光っていた。
「それで、家族名は」
現実に引き戻す琥珀色のマリウスの目がアリスを捉えていた。 無駄な口上はするべきでなかった。そのツケを今払ったわけだが、マリウスは有無を言わさず聞きだそうという心算らしい。 関係のない無駄な話をして誤魔化そうとするアリスの抵抗など微々たるものだ。
一体、組織の長に逆らおうとする愚か者が何処にいるというのだろう。
「……アルトゥーラです」
これで、アリスは次の瞬間から父と同じ名で呼ばれる事が決まった。また別な違う名を名乗る事も頭を過ぎったがそれは亡霊に支配されるよりもずっと愚かしい事だと思って退けた。それは父母との忌まわしい繋がりを示すものでもあったが、反対に妹弟たちとの繋がりを示すものでもあったのだから、完全に捨て去ることなんてできはしない。
結局の所、自分は甘いのだ、と悟った。
どちらかを選べと言われたら捨てない方を選んでしまう。何か差し迫らなければ決断を下せない。
遠く捨ててきた筈の家族の事やガラッシアの国民である事が未だに行動を縛る。ミーネに市民権の事を言わなければ、ずっとアリスでいられたのに、今はもう個人だけではなくなってしまった。 いや、しかし、それが何の問題があると言うんだ。
こんな片田舎で、シオンに伝わることなど稀な外国の地で、アリスだろうがアルトゥーラだろうが何の違いがあるのだろう。ただ、呼び名が変わって、そして、そう呼ばれる度に父を思い出すだけだ。
ただそれだけでしかない。
「アルトゥーラ。聞いた事はないな」
マリウスは暫し何か思案し、ついにそれを終え結果を口に出した。
どうやら自らの記憶にアリスの家名がないか検索をかけたものらしい。しかし当然それに引っかかる者は出ない筈だ。一族から有力者が出るとはとても思えないし、いたとしたらあんなスラム街で生きたりはしない。
「お前は?」
アニタに目を向けたが、アニタも首を振っただけだった。
「私もない。貴方が知らないものを知っているはずがないでしょう」
その言葉には責任を全て押しやる階下の者にありがちな響きと全幅の信頼の響きがない交ぜになっていた。
そのやり取りは2人の仲の深さを窺い知るに容易なものだった。そして、彼らの出自を推測するにも。
「埋もれていた家系の中で、お前が一筋の光明になる事を祈っている」
興味がなくなったのか目的が果たされたのかマリウスはそんな世辞を言い、アリスは恭しく受けた。それでやっと解放されると気付いたからで、そうでなくても他にどんな返答があるだろう。 「いつ、出発しようか」
ちらとマリウスはミーネを見た。それでやっと話題から外されてアリスは緊張を解く。
この中で最も体力のなさそうな、連続の移動に耐えられそうにないミーネに最初に水を向けるのは間違った事ではないだろう。
ミーネは少し考える素振りを見せてから「明日で構わない」と答え、マリウスが頷いたのでそれが決定になった。
もうすっかり用件は済んでしまったと言う様にミーネが腰を上げたので、この談合はそれで終わりになりそうだ。
順々に挨拶を交わしてミーネの後を追って部屋を出る。
「今日は久し振りにお風呂に入れそうね。流石にまだ行水は冷たいもの。できれば金輪際遠慮したい所だわ」
階段を下る途中ミーネは嬉しそうに言った。
もちろん、これくらいの規模の街、それもガラッシアの影響の強い都市ともなれば浴場くらいは揃っているだろうし、傭兵団のものもあるかも知れない。もしかするとアニタあたりが個人用を持っていてそれを使える可能性もある。マリニャーヌ、ミーネが支配していた支部のある都市には私邸に少なくとも個人用を彼女は持っていた。
「ガラッシアの文化はこの点では他の文化を大きく凌いでる。実に有益で楽しみもある」
随分と旅行には懲りたようで、その中でも川から直接汲んで来た水で身体を洗わなければいけないというのが1番堪えたようだ。アリスには温水か冷水かの違いなんて皆目違いなど分からなかったがミーネにとってそれは天と地ほどの差があるらしく、もう二度と経験したくもない事柄の一つになったらしい。
「貴女はどうするの? 今日は」
ふと思い立ったようにミーネは立ち止まり、振り帰った。アリスはその横を通り過ぎながら肩を竦める。
「何も。明日を待つだけだ」
時間を潰せるような趣味も一緒に潰してくれるような友人もいなかったから、ありのままを喋ったのだがどうしてか、ミーネはくすくすと堪りかねたように笑った。
「その仕草、セレンに似てる」
あまりの事にアリスは歩みを止めてミーネの方を振り返る。
3段上に留まったままだったミーネは口元に手を当ててまだ笑っていた。
「誰かに似てると思ってたのよ。そうだわ、彼に似てる。伝染ったのかしらね。そんなに一緒にいたの?」
もう2年も前の話だ。そんな昔の事なんて覚えていない。――それに自覚も全くなかった。
自分の癖なんて相手に言われないと分からないものだし、それにアリスとセレンを同時に知っている人間なんていないし、彼の癖まで知っている人間なんて本当に稀だ。
「――そんなの知らない」
階段を下るのを再開し、ミーネを置いたままずんずんと進んでいく。後ろではミーネがまだ笑っているのが品のいい笑い声で知る事ができた。
「まぁ、いいわ。暇なら今日はずっと相手して貰うから。――その時でもね」


BACK / INDEX / NEXT
SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ ライブチャット ブログ