27.

「あ……」
まず持った感想というのはそれだった。
久し振りの故郷。世界で最も古い首都。ここに人間が住んでからというもの優に1000年は経過しているその街の絢爛さは故郷であるはずなのに、裏しか見ていなかった人生と4年に及ぶ外国生活の所為で真新しかった。
50万人都市。最盛期には100万人を越えていたとされる街並みは巨大で大通りだけでも、それだけで何千人と人が集っている筈なのにそこまでの混雑を見て取れない事が栄盛の時を感じさせる。
建築物は一つ一つが大きい。歴代の王、更に前身の帝国の皇帝たちが立てたフォルム、公衆浴場、集会所、見たことがある筈なのに、その大きさは他の都市では見た事がなかった所為か一際大きく感じられた。それに連続した王朝、間断ない300年の統一された指針で北から1本、東から2本、南から1本と国中を縦横して敷かれ維持されてきた水道橋がシオンの枕詞になっている“永遠の街”“水の街”を端的に表している。
長い間大型の建造物を建築する事はしていないが、アリスがこの4年生活してきた地方との悲しいまでの技術力の差は歴代のそれを維持してきただけでも示して余りあるものだった。
その、最も歴史が深く、衰勢になって久しくも何とか踏み留まっていたこの国がまた再び、大舞台に引っ張り出されようとしている。
そう思うと、目に入ってくる光景は途端に硝子細工のような脆さを内包しているように見えた。どうしようもない空しさが遅々としかし確実に胸の奥に広がってくる。
「どうしたの?」
もう一緒にいるのが普通の事になってきているミーネが楽しそうな表情を崩さずに聞いてくる。何故わざわざ街に足を伸ばしたのかの全ての原因はミーネに見出せた。
マリウス、アニタ他は今日、ガラッシアは王都シオンに到着して郊外に天幕を張り、続々と到着してくる部隊を回収している。
だというのにミーネは実戦部隊を指揮しないという事もあり、――率いる部隊がないとはいっても諸事雑務を一手に引き受けている筈だから暇ではあり得ない筈なのだが、好奇心には勝てなかったらしい。それで、今現在、ミーネと同じ様に明確な指揮権を持たないアリスがまた連れ出されてしまったわけである。しかし、アリスの内情はミーネのように浮かれているわけではなく、寧ろまったく反対で久し振りに底辺をさ迷っていた。それの原因は自明すぎるくらい自明で、認めたくはなかったが祖国が存亡の瀬戸際にあるのだろうという現状が我が事のように心配なのだ。そんな自分は想像もしていなかったし、今でもその思いには戸惑いを覚えなくはなかったが、しかし、確実に今のアリスの中ではその問題は上席を保持している。
「貴女が心を痛めたところで何も解決しないわよ」
ミーネはある種の気楽さを持ってこの状況を楽しんでいるように見えた。仕事を通じてだけの関係でガラッシアとは元より何もない。彼女にとってはこの仕事も今までの他の仕事と一片の変わりはないのだ。
もし、ウァレンシュタインがこんな目に会おうとしていたらそんな如才なく振舞えるものだろうかとアリスは思った。
「あ、そうそう。貴女、服はあるの?」
「服?」
いきなりおかしな方向に話を持って行ったので何のことか理解するのに時間を要した。
「ええ、そう。服よ。服。今日はパーティがあるでしょう」
怪訝な顔を向けると露骨な溜息を吐く。
「態々マリウスにアニタに私に、そして貴女まで雇ったのだから歓待くらいはするでしょう。まず私たちは普通依頼主が同じになる事はないわ。それだけ莫大な金額を用意できる領主なんて限られている。ということはつまり、それだけの金額を失う事に見合う大きな事が起きるだろうと思うのが普通だし、そうであれば私たちの歓心を買っておいて不都合にならないわ」
「それでパーティ?」
アリスの声が固かったからだろう、ミーネは苦笑して頷く。
「残念だけど、相場はそんなものだわ。貴女がそういうのを嫌いなのは知っているけど、避けられないわ。お酒も騒がしい場もね」
翳っていた気持ちに更に影が差すのをどうしようもなくアリスは感じた。そんなただ知遇を得る為か変わりやすい人間の一時の歓心を買う為に、貴重な時間を無駄にするなんてどうかしている。こんな非常時に、と苦々しく思って、しかしその饗宴の存在を強力に補佐する一事に心づいた。まだ、マリウス傭兵団は全隊が揃っていない。それには幾許の時間が掛かる。今日、それで無駄にした所で何も変わらない。
つまり、饗宴は適宜に適っているといえば適っていた。だからといってそれを快く受け入れることなどできはしないが。
「私は――」
隊長クラスまでそれに動員されようと1人か2人くらいは当直で残らねばならないだろう。それを願い出て譲らない隊長はいない。普通なら何を犠牲にしても出たい筈だ。しかし、ミーネはアリスの思惑など簡単に捻り潰してした。
「貴女も出るの。私と同じ様にね。残念だけど、貴女は列席を求められる一人だから」
冷淡な響きを覗かせてそう言い放った。
「まぁ、服はなんとかします、じゃあ行きましょう」
目の前の楽しみは放棄するつもりが更々ないようでそれからたっぷり3時間は彼女のご機嫌取りに付き合わされた。
 天幕に戻ると準備に早々に掛かった。ミーネは手馴れたもので1人てきぱきと衣装を準備する所から化粧道具を引っ張り出したり、髪を一々梳り綺麗に纏め上げるまでこなす姿は何となくそれ自体を楽しんでいる節もあった。
「ほら、終わったわよ」
結局ミーネのなすがままでアリスは深い青の地味なドレスに化粧をして、髪を結っていて、ミーネが確認の為に見せた鏡の中には誰か別の人間がいたようで少しびっくりした。
ミーネも綺麗に整えていて、しかし彼女には相応しかろうが、自分には全く似合わないなとそう思いもした。会場の宮殿には向かうらしく、馬車が用意されていて、それに正装したマリウスとアニタと4人で乗り込んだ。馬車は街の中を石畳の上を颯爽と駆け抜け、ものの数分で宮殿の玄関口に到着し、従僕が戸を開け階級の順に降りた。先導に従い大理石の階段を登り、控えの間に通された。そこでしばしの時間があり、アリスは周りに目を向ける暇を得る事ができた。
 豪華絢爛とはそれの為だけにあるような言葉で、まったく王宮は贅の限りを尽くしていた。音楽がどこから伴なく流れ、床は総大理石でかつかつと靴の音が響く。四隅には胸像が並び、明りは夜とは思えぬ程明るく採られている。それにばかり気を取られ、マリウスたちが案内されて行くのに気付かなかったアリスは慌てて気を取り戻してマリウスの後に続かなければいけなかった。しばらく進んだ後、明らかに高級政務官と思しき人間とマリウスは言葉を交わし、そこでまた幾許か時間を潰したがその後は何もなくメイン会場へと入った。今回は形式は軽く、ビュッフェで行われているようだ。一定の間隔でテーブルが備え付けられていてそこには様々な料理が並んでいる。
特に食に知識も欲も持っていなかったから、それに喜ばされるという事はなかった。ただ、これが何時間も続くのかと思うと少しばかり気が重くなるだけだった。
人は多く、ちらほらと今日の主賓に対して目を向ける者もいたが、大半は近くの者との会話に花を咲かせているか、この饗宴の雰囲気に酔っている。
 マリウスはまだ場所に落ち着かず先導を受けていたのでそれに従うしかなかったがどんどん進む先が年配の、簡単に言えば支配階級の、それも現役の人々が集っている場所に入りつつあった。ふと、この場にアリスがいる必要性は強くないのだと彼女は気付いた。偶々ミーネに付いていたからここまで付いてきただけでパーティに出さえすればどこにいようが問題はない筈だ。それで彼女はどさくさに紛れてこの荷の重い実りの少ない仕事から逃げる事にした。
後からミーネにどやされる事は簡単に想像が付いたが、それはあまりアリスを押し留める要因にはなりそうになかった。元々パーティなどというものは好かないし、それに一応は出席した。これで義務は果たした筈だ。それ以上の命令は受けていない。
心赴くまま間を縫って進むと、若い貴族の子弟たちが集まっている箇所に辿り着いた。
ちらと辺りを覗っただけに2人ほど、傭兵団の隊長を見分ける事ができた。顔に似合わず彼らもおめかしをしている。
改めて自分を見てみても、彼らと似たようなものだと気付き、自嘲した。まるで道化で、田舎者と後ろ指を指されるのがお似合いだ。
彼らに声でも掛けてみようかと思い、途端に自分は彼らより普段と違っているので、これを曝け出すのは余りに恥ずかしいだろうと思い留まった。きっと傭兵団の中でも笑い者にされてしまう。 声を掛ける事を諦め、する事がなくなったのでまた辺りを覗ってみると何故か人とよく目が合った。はてなと思ったが、それは簡単に意味が分かった。というのも直ぐに声を掛けてくる人間が現れたからだった。
「お嬢さんもマリウス傭兵団の方ですか?」
声を掛けてきたのは20歳そこらのいかにも洒落者といった感じの男だった。自分に自信のあるような物言いで、遊び人でもありそうだ。
「ええ、まあ」
アリスはぞんざいに返した。礼儀作法はまったく無知の分野だったからそれ以外どうしようもない。
「貴女みたいな可憐な方が何をなさっているのです?」
意味のない修飾を重ねるその態度には
「傭兵です。傭兵団ですから」
当たり前の事を手短に当てる。早く終わって欲しいと思ったが、ちらとその男から視線を外して周りの様子を見てみると何人かがこちらを興深そうに覗っていた。これではこの男を片付けても次々と声を掛けて着そうだ。アリスは自分の何が彼らを刺激したのか分からなかったが、刺激してしまったものは仕方がない。どうにかして切り抜けなければ。
しかし、その心配杞憂に終わったようだ。全く想像していなかったものがその場に介入してきた。
「申し訳ありませんが、彼女はわたくしの連れなのです。マメルクス様」
冷え冷えとした声が掛かったかと思うと、彼女はアリスの前に姿を現した。小さく会釈をしてまた男を向く。
「どうぞ、また別の女性にお声を掛けになったらいかがですか?――貴方たちも」
ぐるりと周囲を見渡して、そしてアリスを向いてにこりと笑った。煌びやかだったが端々に冷淡さを含ませた笑みで。
言葉の裏に滲ませた脅迫に男たちは誰も逆らえないようで波が攫っていくように姿を消した。注目がなくなって初めてアリスは彼女に声を掛けた。
「――こんな所で会うとはな。エテルノ」
「ご無沙しておりました」
軽やかに微笑みながらスカートの端を持ち上げて彼女は礼を取る。暫く見ない間に彼女は劇的に変わっていた。幼さはもうどこにも残していない。可愛さと美しさを完璧な配分で湛えていた容貌は怜悧な美しさが全てに及んでおり、マリンブルーの瞳も銀の髪もそれを引き立てるだけだ。身長もあの時より20cm近く伸びたようだ。女性の中では一際高いアリスよりほんの7cmばかり低いだけで彼女も長身の部類に入るだろう。その立ち居振る舞いは威圧感がなきにしもあらずで、相手に敬意を要求する姿は何の不自然さもなかった。
「こちらに居られると聞いて、足を運んでみたのですが、お会いできて良かった。ご健勝そうで何よりです。それに、とてもお綺麗ですね」
「ありがとう。お前も元気か?――そうか、戻って来ていたんだな」
当然、話題といえばまず最初に聞かねばならない事で、これをなしに話を進めるわけにはいかない。彼女は、というよりセレンは姿をくらませていてとんと便りもなかった。
はい、とエテルノは典雅に頷く。そして俄かに神妙そうに
「逃げてばかりいるのはダメだと思ったんです。あのままでいいはずなんてありませんから。――そんな事は最初から分かり切っていたことだったのですけれど」
そう、とだけしかアリスは答えられなかった。抱えていた問題をろくに知らない以上差し出がましい事はやらないに限る。
「貴女にはまたお会いしたかった。――ちゃんとしたお礼もしたいですし、もっと一杯話したい。でも、そんな事をする余裕なんてないですよね」
後半の方は哀切な響きがあり、これから起こる事を覚悟しているのがすぐに分かった。
彼女らは完全な当事者な訳だから持っている不安や危機感はアリスとは比べ物にならない。この国の最後の戦争らしい戦争は35年程前まで遡らなければ経験していないし対外戦争に至っては更に遡らなければならないくらいで体験者はそう多くない。
ふと、アリスは心に浮かぶものがあった
「セレンは? 帰って来たのは1人だったのか?」
いえ、と彼女は頭を振り、心づいた様子で言葉を付け加えた。
「帰ると言い出したのはセレンで、私はそれを受け入れただけです。――今は、軍におります。やっぱり命を危険に晒さないと満足できないようで」
やはり軍人で留めおく事は反対だからだろうが、しかし苦言は消極的だった。それに何か不自然さを感じ、見詰めてみると、その意を察したエテルノに自嘲の笑みが浮かんだ。
「傭兵ならともかく、正規軍の、それもわたくしたちに取って義務に近い役を果たしていますから。それをその上に立っているわたくしが非難できる筈がありません。本心でどう思っていても」
蔭のある表情で首を振るエテルノを見て、戻ってくるという判断が本当に彼女にとって益するものなのかと疑問に思った。自分と向き合ったかも知れないがその自分を殺す事も求められるのだ。そういう世界がエテルノに向いているのかと言えば、少ない交流からの推察だとしてもとても合っているとは言いがたい。
「あ、お会いになられますか? きっと喜ばれると思います」
その誘いはエテルノの境遇を心配していた自分を簡単に利己的にする抗いがたい響きがあった。自分の中で澱となって横たわっているものをもしかしたら彼なら解き明かしてくれるかも知れないと本能的に感じたからかも知れないし、いや、もしくは、それを認めるのは些か骨の折れる仕事だったが、ただ単に彼に会いたいのだ。
アリスが頷くと、エテルノが先立って歩き始めたからそれについて行くだけだった。人を縫って進む時、某かの視線を感じたがそれはきっとエテルノの所為だ。エテルノの進む所全て道が開け、当然のように彼女は受け入れていた。それは触らぬ神に祟りなしといわんばかりで少し異様な気がしたが、アリスとしては何も言えなかった。問題があった事は知っていたからこれがそれの波及結果なのだろう。
ふと、エテルノが立ち止まった。纏っていた雰囲気が一瞬で氷のようになったのをつぶさにアリスは感じた。
なんだろうと思い、彼女が邪魔で前が見えなかったのでずれてみると、セレンがそこに立っていた。ただ、若い女と談笑していて、それがエテルノの穏やかならぬ感情を呼び起こしてしまったらしい。
見れば女はどうみてもエテルノより容色が優れてるとは言えなかったし、いやそれだけで価値が決まるとは限らないからきっと好かれた理由があるのだろうが、些か不自然ではあった。
一頻り談笑していたセレンは漸くエテルノとアリスの姿を認めたらしくこちらを向いた。
「すみません。またの機会に」
あっさりと彼女とは別れ、こちらに歩み寄ってくる。
「久し振りだね、エティ。健勝かい?」
「はい」
返答は纏っている雰囲気にそぐわない柔らかさだった。セレンはアリスの方を向く。
「こんな所で会うとは奇遇だね。――それに随分と美人になった」
記憶の中にあるセレンとはもう影も形も一致するものはなかった。あるとすれば髪の色と瞳の色くらいでそれ以外はすっかり様変わりしていた。
身長はエテルノがあれだけ伸びているのが不思議だったがセレンは更に伸びていた。多分180cmはある。均等の取れた体格をしていてそれだけで人目を引きそうだったが長くなった髪に少しばかり隠れている紅色のショールが印象を事の他強めていた。
それの持つ意味をアリスは知っている。何で知ったかは近頃、教養の源泉が多岐に及ぶようになったから思い出せなかったが、それは軍の中でも出世コースに乗っている若い貴族の子弟が往々に就く紅章付き大隊長の証だ。やはり彼は貴族の出らしい。いや、平民かも知れないがどちらにしても支配階級に属する人種である事は間違いない。
アリスの問い気な視線に気付いたのかセレンは自身の地位を証明するそれに目を遣った。
「今は、セレン・ファビウス・リキヌスと名乗ってる」
「それでその地位か」
ファビウス氏族といえばコルネリウス氏族やクラウディウス氏族に並ぶ権勢を誇る一門だった。そして10程度しか残っていない貴族の中で指折りの名門でもある。リキヌスというのは知らないから主流派ではないのかも知れないがそれは枝葉というだけで木である事には何ら変わりはない。
「こんなものは飾りに過ぎない。大隊長といっても特定の部隊を指揮するわけじゃない。まだ存在を認められたわけじゃないよ。誰でも通る所にたっただけ」
それでも将来が約束されている。紅章付きは猶予期間だとしてもそれから名誉ある階層を登っていく事が決まっているのだ。頂点の執政官には毎年2名しかなれないが、それに挑戦はできるのだ。尤もその前には法務官、造営官、財務官とあってこれに勝ち残らなければいけないが。しかし、やはり何といっても挑戦できるというだけでも羨ましかった。アリスにはそんなチャンスは訪れない。何とか国立の士官学校や大学に入れないかと夢想した事もあったが今ではそれは夢でしかない。一介の傭兵隊長で場合によっては祖国に弓引く事も現実味を帯び始め、それ以前に祖国は今滅亡の危機に瀕している。それを外から眺めるだけなのはどうしようもない空しさを感じるだけだった。
数年前に馬を並べた事もあった人間が、そうも簡単に権力者への道を歩いていくのを見るとやはり人の世など公正ではあり得ないのだと思い知らされた。
「では、わたくしはこれで失礼します」
エテルノの声が割り込んできて小さな反感はそこで成長を止めた。
「もう戻るの?」
セレンが言ったが、エテルノははい、と頷くだけだった。
「また、お会いしたいです。次は家に招待します。でも無分別な事は申しません。落ち着いたらまた。その時を楽しみにしております」
アリスに向かって言い、彼女が頷くと嬉しそうに笑って別れの挨拶をした。
「では、おやすみなさい」
くるりと振り返って歩いて行くのを見送り、人が彼女に道を譲る様をしばし目に収め見えなくなってから、またセレンの方を向いた。
「エテルノとは話した? 多分、君が来ていると踏んで出て来たんだろうね」
「ああ。大きくなった。色んなとこが」
「君がそう仕向けたんだ。ありがとう」
セレンにお礼を言われるとなんだが落ち着かなかった。それにそれはもうずっと前に終わった事だ。
「昔の話だ。いつまでもそう言われると困る」
そう言うとセレンも認め、話を別な方向へと持っていく。
「そう言えば、君はこういう場が嫌いだったんじゃないのか」
丁度、手に届く位置にテーブルがありそこにはワイングラスがあった。セレンはそれを取りアリスの目の前で小刻みに回した。
「そうだ。今も変わらない」
憤然と返すとセレンは苦笑を漏らした。
「その割には気合が入ってるようだけど?」
アリスの姿を見ればそう思うのも無理のない事で、なるほどさっきに男たちはこれに釣られたのかも知れない。
「自分でしたわけじゃない」
「うん、ミーネがやったんでしょ、嬉々として。でも君も抵抗しなかったんでしょ」
そう言われればどうしようもなかった。だが、あの状態のミーネに逆らえる術があるのなら教えて貰いたい。
「どうせ、似合わないさ」
アリスが言うとセレンはまた苦笑を向けた。
「そうは言ってない。とても綺麗だよ。やっつけ仕事を霞ませるくらいにね」
ちょっとした冗談で、それでようやくアリスも笑った。
「また、君に会えて嬉しいよ。幸いな事に敵でもないし」
敵――
その言葉は意外なほどにアリスの奥底に届いた。物思いに耽りかけ、それに咄嗟に気が付いて自制しなければならないほどだった。そんな事はこの場ではとても相応しくない。
それに自分らしくもないと思った。きっと久しかった帰郷がこんな可笑しな感傷を呼んでいるのだ。
「あまり悩みすぎるのは良くないよ。こんな時にね」
セレンはアリスの僅かな表情の揺れを目敏く見つけ、すぐに原因に思い当たり、優しい口調で諭すように言ったのだった。
「もし、君の悩みが現実になるとしてもそれは今じゃない。あとで。――また別の日に、だ」
「分かってる」
どうしてかアリスは救われる思いがした。それは口調がもたらしたものなのかそれともセレンの持っている雰囲気によるものかは判然としなかったがそんな事はどうでもよく、安堵させてくれるセレンの存在が嬉しかった。澱はますます募ってしまったが、今はそれを見ない事を強いるような強引さで目を背けるのではなく全部を棚上げする余裕が生まれた。
今はその諸々が雁字搦めになった先に付いている問題に心を砕くべきだ、とある種の客観を保ちながら理性的に判断することもできる。
「もし、何かして欲しかったらやってあげるよ。全部終わった後にね。――根は深そうだ。それまでは時間も取れないし、君は多分忙しいだろう。あの陛下が単に数合わせに君たちを雇ったとは思えないからね」
何気なく出て来た陛下、という言葉にアリスは改めてセレンの地位というものと自らの存在が昔と比べて(仮初ではあるものの)遥かに重みのある場所に登っている事を自覚した。雲の上の存在の最たるもの。神聖にして高貴なる全ガラッシアの国王。そのような人物の描く戦略の中の僅かな任務とはいえアリスもそれに関わるというのは御伽話を聞くようなものでとても信じられない。そこで思い当たった。マリウスたちが挨拶に行ったのは国王の許ではなかっただろうか。依頼主は直接国王だった筈だから多分そうだ。もし付いて行っていれば、拝謁できたかも知れない。そう思うと残念な思いがしたが、それではエテルノともセレンとも会えなかっただろうから、どちらが良かったとは言えない気がした。
それにまだチャンスはあるだろう。当然あるべきだ。今日はただの饗宴で他に何をするわけでもないのだから。
「アリー」
間が空いたのでセレンは声を掛けたのだったが、それに可笑しな響きが混じっていたのをアリスは聞き漏らさなかった。
「アリー……?」
「嫌なら、呼んであげようか。アリーチェって」
悪戯っぽく人の悪い笑みを浮かべていた。
「やめろ。それで呼ぶな」
疑念が確信に変わる事をセレンは気に留めていない仕草だった。もはや、それは3年前に終わった話とでも言いたげで何の含みもない。
「どうして。可愛らしいのに」
「それが嫌なんだ。私には似合わない」
「アリスもあんまり変わらないと思うけど。――なら、アリーでいいじゃない」
「どうしてそこで“アリス”を捨てる」
睨めつけたがセレンも図太いもので簡単にそれを無視した。
「偽名は嫌いだよ」
「お前が言うな、お前が。今名乗ってるどこにお前の本名があるんだ」
「別に、私だって呼んでくれてもいいよ。覚えてるだろう」
挑戦的に言い放ち、答えを待つようにアリスを見詰めた。その自信たっぷりな尊大な眼差しにはとてもじゃないが反論はできなかった。――多分、やっと上向きになった精神も彼に太刀打ちするほどには回復していなかったからだろう。結局、アリスは口を噤み彼の意のままになった。
それにその名を口にして必然的に起こりそうなどうしようもないものに引き込まれるのを甘受するような覚悟もない。彼は深淵で不用意に近づけば底なし沼に掴まりそうだった。
 満足そうにセレンは頷き、それからは少しテーブルに乗っている料理にも手を出しながら、(当然の如くセレンはワインを飲み始めた)他愛のない雑談が繰り広げられ、いつのまにやら大分遅い時間になって、ちらほらと人数も減り始めた。
「もうこんな時間か。君は1人で?」
「ああ。他の連中がどうしているか知らないから」
そう、とセレンは傾けていたグラスを空けテーブルに置いた。
「送ろう」
そんなものは必要ない、と固辞する姿勢を見せると
「その恰好で?」
と半分本気のような顔で言われたから、アリスも今の自分の状態を改めて思い出し、とても安全を確保できないだろう事は容易に気付いたのでこの場はその言葉に甘える事にした。


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