32.

 ウェクティスに着くまではセレンに同道した。彼は正規軍の指揮官で彼女は傭兵の指揮官と、前に馬を並べた時とは全く変わってしまっていたが、関係に大きな変化はなく感じられた。ただ地位に僅かながらの決定的な差が生まれただけだ。
 彼は伝統的な権威あるガラッシアの軍装に身を包み、その装いは自腹で作った二つとない隊長用のものだったから、つまり、彼はガラッシアの支配階級の一員だとその装いだけで誇示している。そして彼は有能だった。セレンは、問題なくその職責を果たしている。敗軍の軍団の撤退で兵たちへの統制を緩ませずに、しかも指揮官が変わって間もないのに、取れていることは特筆に値するものだとアリスは思った。それを改めて目の当たりにして、彼女の劣等感が刺戟されなくはなかったが、それよりも何故彼が以前と同じ様に彼女を尊重しているのかということが比重の大きい疑問だった。数日の出来事だったが、明らかに彼は彼女を重んじていた。夕食に呼んだり、情勢について論じ合ったり、確かに同属の人間とはできないような内容の対話だったが、それにしても不可思議なことであることに変わりはない。
 戦友だから、とはとても思えない。彼はそんな人情家ではない。それくらいシャルトルでの付き合いで分かっている。
 彼の行動には疑問符ばかりが付いていたが、それでもその行動自体はとても嬉しかった。彼女が憧れていた良い社会の一員に優しくされるのは彼女の自尊心を満たしてあまりある。しかし本当はそんなことは些末事に過ぎなかった。全くそれには気付いていなかったが。
  そして、そんな風に彼を見ている時には、彼の言った大言が決して彼女の頭から離れることがなかった。興味は尽きない。彼は一体どんな手品を使ってそんな大仕事を手に入れるというのだろう。たかが20歳前後の若者が。
 でも、望む物を手に入れても全く不思議じゃなかった。何故か納得してしまう。それは彼が持っている雰囲気というものなのか、よく分からないが、仮に正式に軍を率いていたとしても全く驚かないだろう。
「ん? 何?」
 じっと見詰めていたらしくセレンは不思議そうにアリスの方を向いた。
「いや、別に」
 反対にアリスは視線を何事もなかったように切り、前を向く。
 行軍は意外とヒマなものだった。
「明日には着く」
 こちらも向かず、前を見たままセレンが言う。
「そうだな」
 何の懸念もなかった。強いて上げるとすれば、報告書を提出した際に必ずあるであろう叱責くらいだったが、それももはやどうでもいい。傭兵団の出来事などほんの小さな大海の永遠に生まれ続ける波の一つにもなりはしない。
「最近は暑くなったね。毎年それで思い出すんだけど、そろそろ誕生日なんだよ」
 こちらを向きもせずに恬淡と喋り続けるセレンにアリスも平坦に返事をした。
「へえ、いつ?」
 彼が僅かでもプライベートに触れるのは珍しかったが、それを嬉しがっているような真似などできはしないのであるし。
「7月13日」
 ふと懐かしい記憶が蘇った気がした。その日は確か色々な思い出が詰まっていたような。行動が止まったアリスをセレンは満足そうに小さく笑っていた。
 予定通り、その一日後にはウェクティスの軍営地に辿り着いた。敗走してきた分も合わせると総勢で5万になる軍を収容するそれはとても長大で布陣している丘が全て人で埋まっていた。軍営地は二つに分かれており、一つは補助軍団の2万でもう一つが正規軍の3万のものらしい。マリウス傭兵団は一応後者の方に吸収されているらしく、そこまではセレンと一緒だった。
 彼と別れ、マリウス傭兵団の天幕に報告書を持って赴くとマリウスは居らず、かわりにミーネが取り仕切っているようだった。
 当然の如く、その後は叱責を食らった。指揮権を彼女に返し、それから数日は気楽なものだったが、ある日に突然、召喚を受けた。一先ず、ミーネの天幕に行くと彼女も困り顔で、その場にいた一人のガラッシアの兵を紹介し、その兵士は「ただ、お連れするように」と言われたとしか言わなかったので、何の説明もないまま、彼女はどこかに連れ去られた。
 使いの後をついて行くと結構な距離を歩かされ、一つの天幕に通された。その天幕の入り口には軍装の立派な衛兵が居て、明らかに場違いでありそうなアリスに一瞥を寄越したが、伝達使の後についていることを認めると何も言わなかった。
 通された天幕は調度品が整っていて、一つ一つが明らかに上流階級に属していることを表している。
 そこには、先ほどのミーネと同じ様な困惑顔のマリウスがいて、アリスはその隣に大人しく収まると可哀相なものを見るような目で見詰められたが俄かに緊張してきていたアリスはそれを無視した。
正面にはテーブルが置いてあって、その上には地図が拡げられている。それを一人の老人と一人の壮年が見入っていた。老人はあまり健康そうにはみえなかった。しかし、その表情は威厳がありながらも穏やかさを内包している。明らかに雰囲気が常人のものではなく、地図をなぞる仕草も一々大業そうだった。それに小さな意見を挟んでいる壮年――壮年か青年かの微妙な狭間にいる男性は銀髪をした美男子だった。貴族特有の矜持の高そうな雰囲気を纏っていたが不思議なことに全体的な印象は柔和そうだった。 そして、右手には兜を脇に抱えたセレンがその2人に全く劣らない存在感で控えている。
「大体、思った通りに事は運んでいるな」
「はい。順調です。被害も想定の内。いくらか執政官級の指揮官を失っていますが、問題はありません」
「そうだな。あぁ、同僚を決めておかねばならなかったな。ルフィヌス。推薦を許すぞ」
 銀髪の貴公子は優雅に頭を下げる。
「つきましてはコンミウスをと思います。陛下」
 ガラッシアの国王陛下! この老人が? アリスはまじまじと国王陛下を眺めた。無礼であるということも忘れ、大きな感銘を受け、それと同時に礼儀というものを思い出して気付かれない内にまた傍観者へと戻った。
「あの大食漢をか。まぁ、よい。推薦しよう。元老院を早晩召集する」
 国王と人事を相談し、しかもそれが相談者の同僚と言う事は、これは執政官人事か。そしてこの銀髪の麗人は欠けなかった方の栄誉ある執政官なのだろう。
 ルフィヌスと呼ばれた執政官との話は終わったのか、陛下はセレンに話しかけた。
「さて、後は袋を閉じてしまわねばな。だろう、ファビウス・リキヌス?」
 セレンに話が振られ、彼は深く礼をした。
「騎兵隊を望んでいたな。希望は叶えられた」
 老王は初めてアリスとマリウスの方に目を向けた。騎兵隊というのはマリウス傭兵団のものなのだろう。彼は値踏みするような、しかし、穏やかで冷厳とした目でアリスを見つめた。
「これがお前の肝いりか。随分と若いな。歳はいくつだ?」
 目と似たような静かな声色だった。
「今年で19になります」
 震える声でアリスは答えた。
その答えに老人はセレンの方を向いて薄く笑った。それがどことなくどこかで見たような気がした。
「同い年か」
「そのようです。陛下」
 彼らの会話に引きつられてアリスはセレンをのぞき見る。今、彼女にとってこの場で頼れる人間は彼だけだ。マリウスなど最初から恐縮し通しで全くあてにならない。
 彼はアリスの視線に気付いて、ウインクでそれを返してきた。彼は国王陛下の御前であることを意に介している様子はない。
それで少しばかり勇気付けられた。
「それにまた、随分な美人を捕まえてくるものだな、貴様は」
「悪いよりは良い方がいいでしょう」
 全く悪びれた様子はなかった。彼の応対は寧ろ昔見たラシェルに対したものの方がより丁寧だったかも知れない。仮にも国王陛下にその応対は明らかに不遜だったが、老王も先ほどまで彼と声を交えていた銀髪も冒涜と捉えている様子はなかった。
 不可思議な思いもよらない力が働いているのを見る気分だった。
「ガラッシア人だな?」
「はい、陛下」
 声が震えは止まる様子がない。当たり前だ。本来であれば一生関わり合いにならない人物。一国の統治者に声を掛けられるなんて彼女の存在からは全く想像できたものではない。この戦争のおかげで、もしかすると何かの機会で拝謁する可能性があることは頭の隅にはあったが、実際にそれが叶えられると何もかもがままならなかった。
「どうして、傭兵団などを――いや、理由など幾らでもあるな。名は?」
「アリス・アルトゥーラです。少なくとも今の所は」
 セレンが横から答えた。助け舟か判断に迷う言い方だった。
 陛下はふと笑う。
「なるほど。よい。上手く使ってみよ」
 アリスを呼びつけておきながら、陛下はセレンと喋っていた。セレンは頭を軽く下げそれで彼から視線を切った国王陛下は漸くアリスに言葉を掛けた。
「アルトゥーラよ。よく仕えよ。さすればそちにも神々の恩寵があろう」
 多分、これで面会は終わりだ。セレンが一礼をして退出する素振りを見せたので、彼に習って外に出た。
 今度は紅章付き大隊長と出て来た彼女に再び不審げな視線を寄越したが、そんなものに気を払っている余裕なんてなかった。
「ねえ」
 先を歩くセレンに呼びかける。少しばかり言葉に棘があったのは気のせいだ。そんなアリスの問いかけになんて全く無視して歩くのをやめなかったから、イラついていた感情は簡単に爆発した。
 アリスは歩調を速めてセレンの腕を取り、強引に自分の方に身体を向けさせた。
「おい、これは一体どういうことなんだ!?」
 大概の傭兵団員が震え上がる彼女の怒号にも、当然ながら彼には柳に風だった。
「なに、私の言った通りになっただけだ」
 少しはピンときたアリスが即座に返す。
「任されたのか? 別働隊の指揮を?」
 それだけで驚きだった。彼が完全に軍団を統御しているのは知っていたし、軍略も縦横に駆使したシャルトルで見ていたがそれとは規模も質も全く違うのだ。あの地方の戦績など数えられもしないのだから無いものと同然で、そんなに実績のない彼をどう陛下は信頼したのだろう。
「いや、待て。それはいい」
 アリスは少々の混乱と戦いながら考えを纏める。彼のことと自分のことを選り分けなければならない。
「だが、なんで私は呼ばれた? 全然意味が分かんない」
「騎兵隊の指揮官が要る。君たちの騎兵隊のだ」
 マリウス傭兵団は微妙に使い所がない騎兵隊を800騎も抱えている。それに目を付けるのは当然といえば当然で、セレンは抜け目ない。
「他にも、資格のある人間がいる。マリウスやアニタが」
 だが、アリスもそう言いはしたが出て来た二人と比べて自らが特別劣るかというとそうでもない気がした。客観的な情報だけであれば彼らは遥か上位だろうが、セレンの目には見えない何かが見えているのかも知れない。それに両名の名を出すとセレンは急に冷ややかになった。
「彼らは使い辛い。当たり前だろう。彼らはベテランだ。それに君より彼らを知っているわけではない。知っている方がやり易いよ。それに彼らは私たちを裏切っていることだしね」
 マリウス傭兵団が起こしたシラー傭兵団への背信を彼は根に持っているのかもしれない。
 そうであれば、確かに唯一彼の側で戦い、その所為で随分と自らの居場所に禍根を残したアリスをより信頼するのも分からないことではなかった。
 アリスが答えに窮していると、冷酷さを幾分か減少させたセレンが再び口を開いた。
「それにこれはチャンスでもある。未来の多い若者に与えるのも間違ってはいないさ」
「チャンス?」
 この状況下、負ければ破滅という瀬戸際で不自然な程余裕がある素振りだった。
 この安々と国王陛下の信任を得て、雄飛しようとしている男は全く普通の尺度では測れそうにない。
「良かった。まだ、そこに居られましたか」
 アリスは更に尋ねようとしたのだが、どこからかの声で会話は阻害された。丁度、アリスの背中の方から声が聞こえてきたので彼女は振り向かなければならなかったが、その誰かを視認した途端にそれまでは爆発的だった感情が固まった。それも全く不自然なことではない。警護吏を従えた現職執政官が声を掛けたのだと気付いたら、普通の少女だったら固まる。
「閣下。何かありましたか?」
 国王陛下とすら平常のように喋っていたセレンだったから、動じる素振りも見せず簡単に返した。そんな風に返された執政官は少しばかり困惑したようだったが、彼とセレンの間に居たアリスのことに漸く気付いたのかそれで合点がいったようだった。
「なるほど、陛下はよく見られておるものですね」
 セレンを振り向かせたまま、ずっと手を取っていたことに今更ながら気付いたが、離した時には時既に遅く、誤解を残したままそれを解く術も与えられないまま、二人は話を続けた。
「それはそうと、娘から頼まれ物を渡すのを忘れていまして、これを」
 そう言って彼は何かをセレンに渡そうと手を伸ばす。この国の最も栄誉ある顕職に就きながら彼は子煩悩であるらしく年頃の娘にいい顔をしておきたいのか、体のいい運び屋のようなものをしていても全く矜持を揺さぶられることなどないらしい。
 しかし、セレンは色々な女性にちょっかいを出しているようだ。全くその容貌を笠にして……
「何?」
「いや、別に」
「恋人でもない君に、そんな非難がましい目を向けられる義理はないんだけど」
 かぁっと顔が蒸気立ったのが悲しいくらいに分かった。
 セレンはそれに小さく笑い、また執政官との会話に戻った。
「ありがとうございます。あの娘には私が喜んでいたとお伝え下さい」
 差し出されていたものを受け取り、その時に微かに見えた感じだと、何かに編まれたリングのようなものだった。銀色にきらきらとしている。
「確かに、渡したからな。覚えのないもので非難されるのは辛い。特にあの娘は容赦がないからな。――しかし、程ほどにしておかねば必ず返ってくるぞ。女は怖い」
 最後の方で執政官はちらりとアリスの方を向いた気がした。
「分は弁えているつもりです」
「どうだかな」
 ちょっとした軽口になって、もしかするとこの2人は相当親密なのかも知れなかった。セレンが誰かと親しげに喋るのを初めて見た。この執政官の前では彼も歳相応に変わっていて、とても不思議な感じがする。
「それでは私はこれで失礼するよ。――アルトゥーラといったか、頑張り給え。もしかすると君は人生の岐路に立っているのかも知れない。私も君には興味がある」
 優しい人だった。訓示はアリスも心の何処かで思っていたことをはっきりとしただけに過ぎなかったがそれを出来る人間なんてそういない。
「あの方は?」
 興味を持ったので、完全に姿が見えなくなってからセレンに聞いてみると、簡単に説明してくれた。
「プブリウス・コルネリウス・ルフィヌス。43歳で執政官になった人だよ。権勢を誇るコルネリウス一門のリーダーだ」
 43歳は法定年齢上で最年少だったから、1度の躓きもなく生きてきたエリートということだ。それも貴族中の貴族のコルネリウス一門。多分、最も王族に近き一門だ。それは今でも変わっていないのだろう。
「そんなとこの娘を……」
 また非難がましい目を向けていたらしく、セレンは苦笑した。
「いや、娘っていうのは――いや、まぁいいか。それより」
 そこで、1度、言葉を切ると、もう雑談はやめることにしたのか俄かにお仕事モードに切り替わり、話を完全に変えた。
「騎兵隊の準備にどれだけ要る?」
 その早業に虚を突かれたアリスだったが、すぐに彼女も仮面を被った。
「即応できる。騎兵隊は私のだ」
 満足そうにセレンは頷く。
「よろしい、今日中に出発する」


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