36.

 8月も終わり近くになれど、マリウス傭兵団はガラッシア国内に留まっていた。荒廃した北部にいくらかの土地を与えられ、そこに軍営地を建築して居座る素振りさえ見せている。
 契約期間は丸々2年であり、更に延長すらも想定されていた所を見ると最初からこれも予定に入っているのかも知れなかった。ガラッシアはアエテルヌムをデルタ三国まで押し返したが、まだデルタ三国自体はアエテルヌムの勢力圏内だ。その地に敵対したマリウス傭兵団が帰れるはずもなく、また、これでこの戦争が完全には終結していないことも考えて、3000程度の兵力を保持しておくとした判断は確かに間違ってはいないだろう。
 しかし、目下のところ、停戦に向けた協議に入っているのは事実で、それはガラッシア有利に進んでいるらしかった。
 そういうことはアリスにはやっぱり関係のないことであり、風に運ばれてくる噂と多少の交遊関係から又聞き程度に聞いているだけだった。彼女の生活する場とは戦場であり、高度な政治の場ではない。と自分では決め付けていた。とはいっても、既に傭兵団内で第四位の地位を占めているアリスが傭兵団の運営から逃れられるわけもなかった。第二位の実力者であるアニタが全くやる気がなく実力がないのと違い、アリスは任せれば人並み以上にそれをこなした。
そして、今回はミーネの動きが消極的でアリスやバルナバに万事丸投げしたような感じだったから、衣料や食料を調達したりその地の自治体との折衝の中で中心的な人物として活動することを強いられ、その為にガラッシア側の当局者だったセレンと幾度となく顔を合わせた。
敗走したアエテルヌムを執拗に追撃したのはセレンの第10軍団とアリスが率いた騎馬隊だった。戦果の拡大は非常に大きな意味を生み、軍をろくに立て直す暇を与えずに殆ど無抵抗のまま国土を回復させるのに成功したのであった。その後、セレンは北部に留まり、その戦後処理の一切を担っている。これも戦時中に与えられた特例の法務官級という指揮権のおかげで、この大権は彼を非常に大きいものにしていた。北部属州の総督は数多く戦死した司令官の内の一人で、今はまだその空席を埋められていなかったから、法務官という地位を揺るがす者はいない。
十全の地位を得た彼は、現地人や自らの手足を動員して、北部属州の情勢を事細かに纏めている。人口、破壊された都市の正確な状況、産業の復興に掛かる金額の概算。人々の精神状態まで考慮に入れた報告書を読ませて貰った時は、この未だ底の見えない人物に些かの恐怖を覚えたがその手腕は見事としか言い様がなく、これを叩き台にすれば、復興の目処も容易に立てられるだろうと思える出来栄えだった。
彼が留まった為に個人的な交流は続いていて、というより寧ろ強く繋がるようになっていた。セレンも同年代で比較的楽な関係を築いていた人間をそうそう手放すはずもなかったし、アリスとしてもセレンのような話し相手がいることは不利益になることはなく、寧ろ、セレンの側にいるということはマリウス傭兵団のナンバー4としてふんぞり返っているより多くのものをアリスに齎した。
 それが彼女の望みか、セレンの思惑だったかは誰にも分からなかったが、少しずつ彼女の居場所を傭兵団とガラッシアという明確な境界から曖昧にし始めていた。
 セレンが首都に戻ることになったのは戦後のごたごたが去り、ようやく平常通りの生活を仮初の上に営めるようになった初秋の頃だった。
「タッラコネンシス属州の総督は来年からコルネリウス・ルフィヌスになる」
 ある残暑の酷い午後、タッラコネンシス属州の州都アルシウムの執務室に繋がるテラスでセレンはそう言った。執務室は荷物が纏められ始め、少しずつ主人の色が消え去ろうとしていたが、テラスから見える風景はそんなものを露とも感じさせず、平凡な平日の昼下がりだった。二人はその執務室から出たテラスでテーブルを挟んで座り、テーブルの上には余興の為の盤が置かれている。暑さを凌ぐ為に奴隷が扇を持って彼らを仰いでいる中、セレンは薄い緑の踝ほどまでチュニカという比較的ラフな恰好で、アリスもガラッシア人風の髪も編んだ女性らしい恰好をしていて貴人に見えなくもなかった。
 しかし、二人はとくにお互いを観察するわけでもなくただ、テーブルの上に置いてある白黒の駒が置いてある盤を真剣に眺めていた。
「そう」
 アリスは、相槌を打ちながら、戦術を彼が打ってきたのを加えて修正し駒を動かす。
「彼の任地を決める法律が通ったよ。任期は3年だ。ここの復興の全権は彼が握ることになる」
 セレンが駒を取って動かす指には来期前執政官総督の愛娘から送られたお呪いの指輪で飾られていた。
 アリスはそれから知らず目を背け、視線を落とした。
 プブリウス・ルフィヌスの印象は良かった。それが政治に反映される保証はないが、人望の厚い人であることは確からしい。勿論、この人事は老王が定めたものであろうから間違いはないだろうが、大概属州総督というものは評判のいいものではなかった。
「将来を見据えて?」
 駒を一段とセレンの陣地に進める。セレンが眉を顰めたのをアリスは捉えたが無表情を装った。意外にセレンはこういうゲームがからっきしダメで、それとは反対に相当な強さを示したアリスに敗北を重ねていた。その受け入れ難い現実は彼の負けず嫌いに火を点けてしまったらしく、事ある毎にこれに付き合わされていたが、セレンの手に進歩はなくその殆どを返り討ちにしている。  今回もアリスの勝利に収まりそうだ。
「そうだね、もう二度と焦土作戦は採れない。この地は前線になるか、兵站基地として働くだろう。しかし、この地の役目はそれだけではない。元々、人材を配する任地だったから、責任も大きい。それで今回を期に、属州を再編して上部と下部に分けようという話もあった。上部には軍事面を下部には統治を司らせるというものだったが、結局人材がいないことで流れてしまったよ。それよりはプブリウス一人に任せた方が確実だろうという事でね」
 状況が少しずつ悪くなって来ていてもセレンは足掻き続ける。幾許かの時間口元に手をやって考えを巡らす仕草を見せた。
「それで、お前はどう思うんだ」
 アリスはそれを袋の緒を締めるように追い詰めていった。
「私も悪くはない選択だと思うよ。少なくとも停戦は2年以上に及ぶはずだ。仕掛けるにはこちらの体力もないし、アエテルヌムは今年動かなかったウァレンシュタインの動きが怖いはずだ。まぁ、その為に今年こちらを叩いておいたと考える事も可能だが、どちらにしろ、2方面を同時に相手するだけの体力は未だあの国にはない。そう考えた時、いまこの地に必要なのは統治に優れている者だ。プブリウスはそれに適う人材だよ」
 アリスとセレンが二人でする会話は大概、こういう深い話になることが最近は多かった。セレンがガラッシアの宮廷で深い地位を占めていることはそれを促進させたが、本当のところは若い同い年の二人が国家の行く末を無責任にただ論じ合うだけに過ぎないとアリスは思っていた。しかし、その片方がその国の重職に就いている点が、確かに他の有り触れた大学生の議論とは全く違っている点であることには間違いない。
 もしかすると、彼はこう議論している当の地位に就くかもしれないという可能性がアリスの目に薄暗いものが過ぎらせるとしてもそれは不思議なことではないだろう。
「そうじゃなくて、もっと根本的な話」
 明確なグランドデザインを彼が持っているということに気付いたのは最近、こうして以前よりも親しく交わるようになってからだった。
 それがこの若者を一段高い人物に仕上げているのだろう。一つの確固たる信念のある男、情熱に彩られた男だから、こうも魅力的に映ったりするのだ。
 セレンはこういう話を喜んでする人間ではなかったが、アリスにはよく話した。そう、彼の意図するところを丹念に、因と果の繋がりを明確に、そうやってまるでアリスが同じ考えを抱くよう導くように。
 彼の話は明瞭であり、簡潔であった。本質的に聡いところを持っていたアリスには十分に意は通じ、まだ、そういう問題を考えていなかった彼女の指針となることにはある程度の成功を収めていた。
「その点でも、この判断は間違っていないと思う。ある程度、国王陛下とは考えを共有しているからね。特に私がいうことはないよ」
 セレンは何か喜色を隠すようにろくに考えずに駒を進めた。それが最終的な一撃となってセレンを敗北に追い込んだが、今回ばかりは少しも悔しがる素振りも見せずに投了し、リラックスするように椅子の背に寄りかかった。
「気になるかい? 君には関係のないことなのに」
 右肘を付き、足を組んで悠然と構えるセレンの顔には微笑が張り付いていた。
 アリスはその問いに、つい答えが詰まりしばし沈黙が降りた。駒を遊びながら、彼女は多少物を考え、セレンが意図していた結果の実現を認めなければならなかった。
「――そうかも。やっぱり祖国のことだし、私もその末端には関わってるし。それに、お前が」
 そう、目の前の男は、アリスが焦がれた国家の要職を軽々と手に入れ、今のその手に握っている。彼とそういう話をするということは間接的にか国家に関わるということになるのだ。
「では、例えば、君に国家への奉仕を開く道があるとしたら、どうする?」
 アリスを見る目が真面目な色を帯びていた。これは冗談ではないのか。いきなり、セレンが仕事用の仮面を被ったのにアリスは驚きを隠せなく状態を把握するのにいくらか手間取った。だから、全く会話が進まない言葉を発したとしても責められるいわれはないだろう。
「どういうこと?」
「実はね。今度、私は南属州総督の椅子を貰ったんだ。そこの財務官に君をと思ったんだが――」
 その言葉を理解するのに幾らばかりかの時間を要した。そして理解して初めて生まれた感情は抑えるのに苦労するほど大きいものだった。
「財務官!? 私が!?」
 興奮が声に表れ、表情に浮き出、その反応をセレンが楽しんだとしてもそれに反撥するほどアリスは冷静ではなかった。
 財務官はガラッシアの国政の登竜門だ。それを経れば元老院階級に属することが出来る。そう支配階級に属することができるのだ。ただ数年前までは貧民の少女でしかなかった人間が。
 とても冷静に受け止められる事実ではなかった。そこでふと、我に帰った。親が元老院階級でない人間をそこに引き上げるには元首の推薦権、監察官職権と呼ばれる二つの権利の内、どちらかを発動して貰う必要がある。セレンが国王にアリスはそれに足ると説得できるのか疑問だった。たとえ、セレンが特例の出世を認められた寵愛を受けている人間とは言え、アリスも法定年齢を下回り、その上ただの傭兵に過ぎない。普段その権利が使われる騎士階級ですらないのだ。殆ど先史に例を求められない特例を飲ませるだけの事実を一体どこに見出すというのだろう。
 しかし、セレンは淡々と外堀を埋めていった。
「前例がないわけではない。陛下の説得も難しくはない。何しろ、コルネリウスが支援してくれるというからね」
「コルネリウスが? 何で」
 あの優しそうな風貌が目の前に蘇る。しかし、交友があったわけではない。彼が行動を起こすとは不自然すぎた。
 セレンは肘杖を突いて泰然としている、非常に細かいことなのだが、その右手に飾られている髪の毛の指輪がどうしても気になった。綺麗な銀色のそれが――
「彼女が、君がひどく気にしていたプブリウスの娘さんが君を熱心に売り込んでね。父上を泣き落とされたのだよ」
「娘――」
 あまり考えないようにしていたが、関連していると知っては考えないわけにはいかなかった。そして、事実、もしアリスを売り込んでくれるような可能性のある人間がいるとすればその心当たりなんてガラッシアの社交界には一人しかいない。
「エテルノ」
「そう。彼女はプブリウスの長女だよ。今まで気付かなかった? 本当に熱心に君を推薦していてね。それと多少なりとも私の口添えも彼を動かしただろう。ああ、名簿登録に必要な財産は私と彼が折半して融資するよ」
 なんのつもりで彼女がそんなことをしたのかは分からない。もしかしたら好意をそれで示そうとしたのかも知れないし、本当にただたんに、こうであっても嬉しいことには違いないが能力を認めて引き止めておこうと思ったのかも知れない。
 そして、ただのこんな小娘のために神々から連なると謂われる名門貴族たちから100万指から零すことを許させたのだ。
 ガラッシアは一種の財産政治を採っており、元老院に足るには100万の保有財産が必要だった。アリスは当然そんな莫大な額は持っていない(今持っているものを全て換金しても1万に届かないだろう)ので、誰かから融資を受けなければならないが、それも全部セレンは用意しているという。
「話が随分と具体的だな」
 努めて冷静にアリスは言い、内心を表に出すことを抑えようとしたが、あまり意味はなかっただろう。多分自己満足に過ぎない。セレンは例えどう振舞っていようと冷静だった。
「そうだね、後は君が首を振るだけだ」
 大きな選択が突きつけられていることをこの瞬間にはっきりと自覚した。
 片方には、今までの生活。そして片方には昔夢で思い描いたこともあった生活。
 事の重大さを思い知ってアリスは身が竦むのを感じた。
 申し出を断れば、友情を2、3なけなしの友情を失うだろうが、平穏に暮らせる。国家なんて大それたものに関わることはなければ、自尊心を満たす事もなく憂鬱に将来を悲観しながらもつまらない命を一つ懸けながら生きていくことになるだろう。
申し出を受ければ、その時は事態が一変する。彼女は名誉あるコースにのり、ガラッシアという歴史ある国を動かしうる地位に就くかも知れない。だが決して平穏な生活は送れない。政争と戦争が生涯を彩るだろう。セレンがそれを運んでくるだろう。しかし、彼女は生きることができる。
 ここが、人生で最大の分岐点だ。これから先にも似たようなものは幾つかあるだろうが、今ここ以上の岐路はない。只人で終わるか、政治家になって自らの運を試すかはここで決めねばならない。
「――返事はいつまでに」
 もっとゆっくり考えたかった。今までのものも振り返り、そうだ、ミーネにだって相談したい。だが、セレンの返答は残酷なまでに短かった。
「今」
 冷ややかにアリスを臨んでいる。
「時間はやれない。君が、今ここで決めるんだ」
 測られていると、即座にアリスは悟った。所詮人間は一人ということなのだ。自らの人生を自らの手で決済できない人間をセレンは必要としていない。
 そして、彼から決断を突きつけられると答えがとっくに定まっていることにもアリスは気付かざるを得なかった。当たり前だ。彼女は運を試す事はせども逃す事を肯ずる性格ではない。ただ、この大きな決断から少しだけ逃げたかったのかも知れない。
 アリスは張り詰めていた空気を少しでも壊そうと1度、息を吐いて、それから頷いた。
「受ける」
 

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