37.

 敗北の報は多少なりとも帝宮に動揺をもたらした。よもやの一報に混乱した宮廷の収攬により強権的な態度で臨まねばならなかったが、それ自体は己の力の強さを推し量る恰好の機会になり、唯一敗北が彼に微笑んだものだった。
元老院の老骨たちはこの敗戦をこの世の終わりのように喚き立てたができるのはそれだけだ。
元老院はガラッシアに格別の拘りを持っていて、かの国の元老院が本流、自分たちが傍流だと見られているのが、全く経済規模や軍事力など実を見ようとしないで名だけに執着しているから、何にも増して我慢できないのだ。敗北でここ数百年営々と築き上げた優越感が完璧打ち砕かれたと思っている。それを招いた皇帝に矛先が向こうとしているが国政の中心だった頃などもう遠い昔だ。脅威はない。だが、その名誉職の奴らが別の人間と結ぶと途端に厄介になってくる。元老議員でも個々では使える人間は多く、そして宮廷は様々な権力が複雑に絡み合っている。
皇帝が何にも増して、警戒しているのは宦官たちだった。皇帝の近くに侍り身の回り一切を取り仕切る不具者の集まりは、先帝の優遇の為にあまりに強大な権力を持ち過ぎている。絶対権力者として専制を執りたい若い皇帝にとっては目障りこの上なかった。彼らはその特殊な身体的特徴で同種の人間と非常に強く結びつき――望んでなった者ほどそうだ――表には中々出ないが隠然たる影響力を持っている。
そして、他に向かうところのない欲望が富と権力に集中し、謀略に明け暮れている。大方において彼らに国家戦略が欠いていることは、その行動を見ていれば容易に理解することができた。自らの脅威になるものは優秀な者でも消していく。たとえ外敵と手を結んだとしてもだ。彼らが力を持ちすぎると国は停滞を始めるというのは歴史が証明している。今覇権を争っている全てが領土だった古代帝国が滅びた一因にも、僅かな遠因にしか過ぎないだろうが、求めることができる。 だから自分が、父の後を襲ったのは良かったのだと皇帝は思っていた。兄では国を傾けるだけだ。父と同じように。
そして、宦官たちは即位に際して、情報のない新帝に手を内を悟られないように潜めていた本性を敗北の報によって少しずつ見せ始めていた。皇帝に心証の良くない者を纏め始めている気配がある。元老院議員の中にも宦官を嫌っている者は多いから今はまだ、大きな動きにはなっていないが時間を掛ければ掛けるほど確固たる勢力になっていくだろう。
皇帝は一先ずそれを放っておいた。事が一朝一夕に片付くとは考えていない。有力な将軍の影がちらほらと見えるやつらを潰すには時間が掛かる。ガラッシア討伐はそういうものを断行する為の威信を高める機会であったが失敗してしまっては仕方がない。まだ、時間は多く残されている、と前向きに考え直すしかなかった。
今成すべきは敗北の痛手を少しでも減じることと宮廷に自らの勢力を伸ばすことだ。皇帝は絶対的な権力を持つ筈だが、中々自由に行っていなかった。これもそれも全部が父のしがらみだ。 まずは全て自分が主導した為に自由の利く、対ガラッシアだった。
老王が焦土作戦を用いてきたのは意外だったが、その代償としてガラッシアは手痛い傷を負っている。アエテルヌムは新兵で組織した遠征軍の7割を失ったが、兵力の補充はまだ利くし、それを除くと今度の遠征ではデルタ三国を丸々手に入れたことになった。つまり、情勢は未だ圧倒的に有利だ。来年、と早い時期の行動は流石に不可能だが、少し時間をおき、デルタをしっかりこちらのものにすれば次の遠征ではずっと有利に立てる。それだけでも、今年戦争を起こしたことに意味を見出すことはできた。しかし、デルタを支配することはそう簡単には行きそうにない。侵攻時には第一位の地位を占めていたシャルトルが目障りだ。 そこまで、海の見える一面が大きく開いた私室で満月と波のさざめきを長椅子に凭れ、じっと見詰めながら考えに耽った後で、皇帝はスカルウォラを呼び出した。
幸運にも生き逃れていたが意気消沈し、処罰が下るのではないかとびくびくしてした様子で皇帝の前に現れた。
「ワインは?」
 皇帝はそれを意図的に無視し、控えている奴隷にグラスを二つ用意させた。スカルウォラは恐々といった感じで、皇帝が勧めるままに彼の横にあったもう一つの椅子に改まった様子で腰を下ろした。
「運が良かったな。生きて帰ってこられるとは」
 益々、縮こまってしまったが、意に関せず漸く奴隷が持ってきた杯を呷る。
「報告によれば、殿の働きがよかったようだな。――シャルトルという話だが」
 通常、殿は死地だ。しかし、シャルトルは上手く動き、全滅は免れている。それに彼女の働きがなければ、スカルウォラはガラッシアの若き獅子と狼にその命を狩られていただろう。 「――はい、忌々しいことではありますが、最も信頼できる軍でした。私は彼女に救われました。」
「頭の痛い問題だな」
 彼女は協力的でありつつも最も敵対的だった。まだ、ほんの小娘に過ぎないが、ひどく聡い。それか優秀な頭脳を持っている。 明らかに排除する目的で置いた殿を利用して、随分な賭けに勝つという幸運すらも手に入れてアエテルヌムに大きな恩を売ってさえいることは驚嘆に値した。
 全く反抗的な態度は取っていないし、むしろ積極的な協力を行いデルタの統治を円滑に進めようと振舞う都合の良い一面を持ちながら、反アエテルヌムの声の糾合先としても絶大な声望を誇っていた。そして、きっとガラッシアと繋がっているとみて間違いないのだが尻尾を掴ませない強かさもある。
 デルタは矛を出さず一斉に降伏した為、処遇の違いを設けることができず一律に地位の保証を与えている以上、それを安々と除くことできない。短期決戦を急いだ為の失政の一つだった。
 彼女も時間を掛けて衣を剥がしていくしかないのか。デルタで第一位の権力を持つ人間が反対派ではガラッシアとの戦争の行方が分からなくなりかねない。二度と焦土作戦は取れないだろうから、次はガラッシアが攻め上ってくるというシナリオも想定しなければならなかった。その時、シャルトルが反抗すれば一気に形勢が傾くだろう。その為には楔を打ち込んでおく必要がある。
「それで、結局、敗北に繋がった要因はなんだ?」
 彼を態々呼び出した理由はこれだ。今までは報告書を読むだけ済ますことができる。この答え次第で、目の前の哀れな男の去就を決めるつもりだった。
 スカルウォラは躊躇い勝ちに目を伏せ、ぼそぼそと喋った。
「おそらく、時間を掛けなさ過ぎた、拙攻が大きな敗因かと思います。侵攻したはいいが面の制圧を疎かにしたために容易に線を絶たれました。それと駒の不足。軍を分けられませんでした。何個かに分けられれば、凌ぐ道もあったかも知れません」
 ふむ、と皇帝は頷く。駒不足は全く皇帝の責任だった。確かに幕僚も心許ない人間ばかりだった。時間も元々一年と伝えていたからそこで焦った面もあるだろう。スカルウォラに全ての責任を負わすことはできないかもしれない。それに総括したことは彼が幾らかでも使える人間である証左だった。
「よろしい。来年は南に行け。総督の資格を与える。デルタとの同盟をもう少し効率的にせねばならない」
 スカルウォラは瞬いた。敗戦の責任を一切負わされなかったことがそんなにも意外なことだったのか。もしかすると彼は再び左遷暮らしすら幸運で、死刑すらも念頭において置いたのかも知れない。
「戦争である以上、敗北もあり得る。過失がないとは言わんが、罰するまではない。この恥はこれからの働きによって雪げ」
 敗北の責任を死によって償わせると思われていたことは甚だ心外だったが、伝統的に確かに皇帝は理由もなくよく人を殺した。そういう残虐な皇帝が少なくなかったことも確かで、まだその治世の浅い若い皇帝が、それも兄から帝位を簒奪したと思われている皇帝が、同じように思われていても不思議はなかったが、自らが引き上げ側近にしようと思っていた人間にすらその認識だったことは、それなりの傷を彼に与えた。それを外に出すほど彼は若くはなかったが、抱かないというほど大人ではなかった。
「よくシャルトルを監視しろ。報告も逐次するように。――さぁ、グラスを空けろ」
 皇帝の顔には笑みが漂い、スカルウォラはほっとした様子で杯を呷った。
 それから少し、話題を逸らし、言葉を交わしてから皇帝は彼を下がらせた。
 臣との交わりの仕方を見直さねばならないかも知れない。退出する姿を視界の端に捉えながらそんなことを思った。好きになられる必要はないが、信頼されるようにならねばこの先は何もできない。少しずつ勢力を伸ばそうと考えていたがその手足が主人を信用しなければそれは全く硝子で作ったようなものになってしまう。
「ドミネ、キリキア公がお見えになりました」
 スカルウォラと入れ違いに、奴隷の一人がそう報告した。皇帝は妹を呼んだことを忘れていたが、すぐに思い出した。勝ち誇っている彼女と顔を突き合せなければならない重大な理由はある。 「ごきげん麗しゅう。陛下」
 姿を現した妹は、余裕のある仕草で礼を取る。精神的な優位は妹の方に移っていると彼女は思っていた。
「早速だが、本題に入ろう。意味のない挨拶を交わしていたところでお互いに益はない」
 皇帝も態度を崩すことはなく、状況としては大体五分になったという所だ。それも実は妹の精神一つに過ぎないのだが。
少しだけ、妹の目に真剣さが帯びた。兄のどんな無茶な命令が飛び出すというのかそればかりは彼女を恐れさせる。
「全権委任大使として、ガラッシアに渡れ」
「――どういうことですか?」
 驚いた様子で聞き返す妹に、冷たい視線を返すとそれきり彼女も押し黙った。
「知っての通り、失敗した戦争を終結させねばならん、その為に使者がいる。皇族であるお前には資格は十分だろう。それに元々、お前の存在意義はこちらとあちらとの橋渡しだ。これほどお前に適う役目はそうそうないだろう」
 そして皇族が主導するという形も作れる。その場でこの妹が国を売る可能性もないことはなかったが公的な立場でそのようなことをすることは難しい。そこまで政治家向きの性格をではないし、それに使節団は数十人の規模で多く元老たちも名を連ねる。不用意なことはできないはずだ。裏切りを心配するよりも老王と面識があり義理の孫になるはずだった人間を寄越すことの方が利益が大きいだろうそれに何か別の反応を見られるかも知れない。
「――わ、分かりました。謹んでお受けします」
 流石に混乱を来たしているのか、声に覇気がなくどこか上の空だった。
「よい、下がれ。出立の日時は追って知らせる」
 結局再び、優位に皇帝に移ってきた。自分の世界に行ったきり戻ってこない妹がおざなりな礼をして出て行く音を聞きならが、皇帝は考えを切り替えた。
 これでまず必要な手は打った。デルタの支配とガラッシアとの講和。南の懸案事項には答えを出したから、後はそれが正しいか審判を待つだけだ。次に回答が必要なのは北だ。恒例のお家騒動が終結し、また外征に目を向ける余裕が生まれている。これには有力な将軍を当てなければならないだろう。しかし、あまりにも多くの人材を割いているようにも見える。組織を再編することも視野においておかねばなるまい。そうなると、宮廷の勢力図が関係してくるから……
「ドミネ、お話は終わりましたか?」
 暫く、空を睨みながら考えに耽っていた彼に、軽やかな甘ったるい声が掛けられた。姿を現したのは薄衣を纏っただけの彼より2歳ばかり年下の女で、妹たちのような美貌は持っていないが愛嬌があり、頭の回転も速い。そこを気に入っていた。
 彼女を認めると皇帝の顔は綻んだ。
手を引いて、自分の膝の上に乗せる。
「ああ、すっかり」
 ある種の気休めがそこにはあった。皇帝の責務から逃れる術はいくらでもあったが、例えば文学や哲学、音楽があるが、彼が選んだのは彼女だった。
「それはよう御座います」
 女は腕を皇帝の後ろに回し、密着を強める。
 一時の気の迷い、きっとそんな類のものだ。しかし、何か安らぎがあるということは皇帝の責務の重圧をいくらか和らげることができた。
 彼女は身体を屈めて皇帝にキスをする。甘い香水が一瞬で彼を包み、刺戟し、束の間彼は現世を忘れ去った。


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