38.

「ああ、うう…… 」
 品の良い装飾で飾られた食堂で主人として席に突っ伏していたアリスが、奴隷が気を利かせて水と一緒に供していた二日酔い用の諸々すら目に入らないのか、青い顔で地を這うような擦れた呻き声を発している。
セレンは入り口で、ワインを蜂蜜で割ったもののゴブレットを持ちながら、冷笑めいた視線を送っていた。それが目に入り癇に障ったアリスが恨めしそうな視線を寄越しても、二日酔いの目には何の威力もなかった。
「私だって、好きでこうなったわけじゃない」
 当選が確約されている人間とはいえ、寧ろそれは始まりに過ぎないことだったから新たな繋がりを作っておくことは重要だった。
その為にアリスは日夜宴会に駆り出され、そして、相手はその全てがアリスよりもずっと年配で威風の点でも遥か上級の人間で、その勧めを断るわけにはいかなかった。よもや彼らも酒が嫌いな人間がいるとは思っていなかっただろう。ワインを飲むのを強要され、それの成れの果てがこの有様だ。
毅然と断って、その意気を見せ付けてもよかったものだが、上流階級に放り出されたアリスは最初から最後まで上がりっぱなしでまともな思考能力を有してなかった。
 そこをセレンは非難しているわけだが、どうもアリスは慰めて欲しかったらしい。確かに、そこら20歳程度のつい最近まで田舎暮らしだった人間を、いきなり上流階級に入れ、更にそこで繋がりを作れというのは少々酷なのかもしれない。
 それが政治家の変哲のない日常だったにしても、最下層の人間にとっては大きな冒険であることも違いないのだ。
「それにしても、弱いだけだったら、まだマシだったのにね。全くよく饗宴では押さえたものだ。あの場であんな風になられるとスキャンダルも良いところだ」
 素直に慰められないのは彼女の御しがたい酒癖の所為かも知れない。なるほど、彼女があれほどまでに酒類を徹底的に忌避するのも全て自らを自らの支配下に置いておくには必要なことだったわけだ。
「忘れろ。あれを記憶の一辺にも留めておくことは許さん」
 しかも彼女もそれは酷く気にしているらしく、話題に登るのすら拒否する構えだ。しかし、非難の声もやっぱり覇気は薄く強制力は乏しい。そしてセレンのからかいを浴びるのだった。
「介抱したのも俺だし、君のその忌むべき習慣に時間を浪費させられたのも俺だ。まぁ、口外しないだけの良心はある」
 幾ら人を従えさせる能力に長じているとは言え、流石にそれが国家の要職を占める人間までに及ぶほど彼女は大きくなかった。諦めたように呻くのをセレンは優越感に浸って眺めた。
「今日は休むといい。身体が壊れてしまっては元も子もないからね」
 力なく頷くと、手入れの暇が増え、艶やかさと深みがます亜麻色の髪が揺れる。
「くそ、暇が中々、取れないな……」
 その呟きは誰にも聞こえなかった。
 そんな風に時間を潰していると家を統括している女性が姿を現して、彼に耳打ちをした。
「ホルタス様がお見えです」
そして、ちらりと彼女はアリスに目をやる。
「本日も晩餐の招待がありますが」
「欠席すると伝えておいてくれ」
 テオドラというオレンジに近い赤髪の女は意味ありげにセレンを仰ぎ見た。
「アルトゥーラ様ですか?」
「休日は必要だろう」
「別に、貴方まで欠席する必要はないと思うのだけれど」
「私にも休日は必要だ」
「……先方に説明する理由は何と」
「必要ない」
 真意を覗うような目を向けてきた彼女に彼は気心の知れた笑みを返した。
「私の意志を通すのに言い訳が必要な相手じゃないよ」
「ですが、この時期に疑念を与えるような行動をとるのはどうかと。尊重していないと取られると禍根を残します」
「じゃあ何か、君は俺に他人を窺えというのか」
 気安い会話が一瞬にして主従のそれに取って変わった。
強く言った言葉に慌てた様子で彼女は頭を下げる。
「い、いえ。そのようなつもりは。申し訳ありません、出過ぎた真似を」
「さて、ホルタスは何の用だろう」
 彼女の殊勝な態度に満足して、セレンは話を大きく変え、彼女もそれに乗った。
 結局貧乏な若年貴族の借金の無心だったが、その中で本線とは関係のない話にずるずると脱線していき、自由な時間を得たのは平日と同じ午後になってからだった。
 シオンという格式高い伝統ある都市に戻ってきてからというもの人との付き合いは煩わしさが増すばかりで、傭兵の頃のなんの打算のない朴訥な付き合いが懐かしく感じる時もあった。まさにあの時はセレンしか存在しなかったが、今はそうも言っていられない。
 複雑な地位は、まわりに混乱を齎し、有力者たちは様子見をしているが、それもこれも何もかも彼の存在自体が引き起こしたのだからどうしようもないことで、寧ろ人の動きを卑近に感じることができたから、好都合だった。
 しかし、と雑踏の中を歩きながら、壁にある落書や人の好奇な視線に目をやりながら、考える。
 こうとばかりはしていられない。
老王は会戦で力を使い果たしたかの如く病床に臥せってしまっていた。摂政太孫としてヘリオスが今は中心にいる。それがここ数年の通常のガラッシアの姿でもあった。しかし、ヘリオスは経験不足を露呈し、威信に傷が付いている。闊達であり人好きのする才能を使い、様々な有力者の後見によって成り立っていた今の体制は、権威者の実力が白日の元になったせいで、傀儡としか見られていない。糸を繰っているのはプブリウスであり、他の名門貴族の長たちだった。
 老王はそう長くは望めないだろう。そして、このままで行くと尊厳者の地位そのものが大きく揺さぶられる。それを元老院議員たちも知覚し様々な動きが生まれつつあった。一人の統治には反感が根強い。貴族たちは覇権を自らの手にとも思っているだろう。特に土地を荒らされた有力者たちはそうだ。その動きの中で、活路を見出していかなければいけない。酷い時代に生まれたものだ、とセレンは思った。
でも、これくらいの方が面白いかも知れない。元々、出生からが波乱なのだ。徹底的に混乱しても、それで勝ち残れば悪いことではない。ともかく、今は来る将来に向けて素地を整えておくべきだろう。
 そんな考えごとをしながら、歩を進めている内に、やっと今日の目的地に着いた。彼の人間が訪れるには不道徳と一般では不道徳と思われる場所であるのだが、彼は気を払う素振りすら見せたことはなかった。喧騒と悪臭がその場を支配している。
 奴隷市場だ。
 新しく買った屋敷には数十人の奴隷が付いてきたが、幾人か入れ替えようと彼は思っていた。そして、新しく入れる奴隷は自分で品定めをしようとも。
 木で編まれた大きな牢のような馬車の荷台には汚れた人間たちが怯えた表情で固まったり喚いたりし、その外で奴隷商人と買い手が値段を交渉している。
 ぐるりと一通り目を走らせると、甲高い声で喚いている少女と30ばかりの青年の姿が目に止まった。少女の抵抗が人目を引いたのと、それを買っていた男に見覚えがあったからだった。
「やぁ、順調かい」
 男に声を掛け、少女に手古摺っていたのかイラついた調子で振り向いた男はセレンと認めると途端に破顔した。
「これはこれは、リキヌス殿。このような所で何を」
「ここでやることなど一つしかあるまい」
 セレンは肩越しに彼をして手古摺らせている少女を見た。年の頃は17、8で、そういうのに一から仕込むにはやや遅いかもしれない。しかし、これは、と思わせる美貌はあった。襤褸をまとい、顔は泥や垢で汚れているが、それでもはっきりと美人と認められる容姿、髪はぼさぼさで痛みが酷いが、セレンと似たような色をしている。
少しだけそれに惹かれた。
 気の強そうな瞳は誰かを連想させる気がしたが、はっきりと誰かは思い至らなかった。セレンと目が合い、彼女はその瞳に微かに恐れが過ぎった気がした。よほど、セレンが感情のない目だったか、自分を追い詰める男が一人増えたとでも理解したのだろう。
「手古摺っているようだね?」
 セレンが軽く言うと男は自嘲ぎみに笑った。
「ええ、気が強くて。殴るわけにもいかんですしね、商品ですからね」
 大方の少女は娼婦になることを、拒否するだろう。自ら進んでなる時か、貧困に喘いでそれ以外取る道がない場合を除いて。  最近の奴隷の供給源は戦争捕虜がなくなってしまった為に親に売られた人間か攫われた人間というのが相場で、価格も高い。  彼女もそのどちらかで、なおかつ非常に娼婦には嫌悪感を持っているらしい。
 そして、自分を持っている人格なのだろう。だから、大男相手でも怯まない。もしかすると、元市民という可能性もある。生まれた時からの奴隷でこうまで気が強いことはそうそうない。
「君は――」
 セレンが話し掛けると、今までのものが嘘のように身じろいだ。
 動物は本能的に逆らってはいけないものを知っているものだ。そして、恐怖の本質すらも分かっている。
彼は取り繕って軽薄な笑みを浮かべた。逆に警戒を強めたかも知れないが、少なくとも怯えは消えた。次に浮かんできたものは、探る目と不信感だ。
それが一つのきっかけかも知れなかった。行動を起こすには何かタイミングのよい出来事が必要だ。それを感じたら、感覚に従って動いてみるのも悪くはないだろう。セレンは男に再び視線を戻し、
「ねぇ」
 優しく呼びかけ、肩を抱いて、奴隷たちが詰め込まれている檻に背を向けさせて思っていたことを実行に移した。
「君と私の友情に訴えての相談なんだが、彼女を譲ってくれないかな」
 唐突で我侭な頼みを聞いても男はその反応をあまり顔には出さなかった。高貴な人間の傍若無人さは彼もよく知っているし、その一つに過ぎないと思ったのだろう。
 しかし、断ろうにも面倒な事に言葉を尽くす必要があった。
「ですが、うちが購入したものです」
「分かっている。だが、是非とも欲しいのだ」
「そう言われましても」
「このままでは、苦労するのではないのか?」
 最悪、商品にならないこともあるかも知れない。仕込むのにも時間と金が掛かるのだ。これほどの美貌なら大枚を叩いたはずだ。その商品がこれではそれを無下にする可能性も十分にあろう。
 男はなんともなしに彼女の方に首を曲げる。気持ちがぐらついたのを見てセレンはそれを突くように畳み掛けた。
「君が購入した代金は丸々払うし、何割かは上増ししてもいい。そして君は彼女を知らないし、見てもいない。――私は厄介を肩代わりして、君は――」
 ちら、と仄めかす。男とは多少知り合いと言った程度で若く、娼館では中堅といったところだ。セレンの言った言葉の意味はよく理解し、そしてセレンほどの富豪ならどれだけ得るものがあるのかという貪欲な目を向けてきた。
 暫く、思案する様子を見せ、意を決したのか、ぼそりと男は呟いた。
「……倍なら」
「いいだろう」
 セレンは即断だった。もっとふっかければよかったと男は微かに後悔した様子を見せたが後の祭りだ。それでも、きっと彼女は15000〜20000の間くらいの値段だったろうから、10000は得した事になる。
 望外の小遣いに彼は満足すべきなのだ。
「支払いは屋敷に取りに? ああ、それで」
 交渉を纏め、セレンは奴隷商に彼女を連れ出すよう命じ、彼女は大分抵抗した上で、漸くセレンの前に引き出された。
 反抗的な目は変わっていないが、弱くはなっている。
「おいで」彼は手を出したが、彼女は動かなかった。
「私の屋敷で働いてもらうよ。それなら文句もあるまい?」
 瞳が揺れたがそれでも何も喋らない彼女に、逆に男の方が心配になったのか、何か喋る様にと急かした。
「お前は幸運なのだぞ。彼はいずれ執政官になられる方なのだ。うちに来るよりずっとマシな生活が送れる」
 彼女には選択肢など端から存在しない。それでも娼婦から貴族の屋敷の奴隷へ変わるならば、それは本来ならば奇蹟に近く、よほどの道楽者が偶々巡り合わせないと無理なものだった。彼女もそれくらいは分かっているだろう。
男は貴族たるセレンが奴隷に無下にされて不機嫌になるのを恐れたのか、それともその所為でこの取引が無効にされるのを恐れたのか、ともかくこの場の空気を和らげようと努めていた。
 それでも彼女は動かなかったから、セレンは仕方なく、腿の横にぶらりとしたままだった汚れた腕を取った。何の抵抗もないのを見て、彼はもう一度微笑みかけたが梨の礫だった。苦笑して、とりあえず、連れて帰ろうとセレンは翻ろうとしたが、その時、この気まぐれですっかり忘れ去っていた、今日の目的を思い出して奴隷商に声を掛けた。
「後、2人ほど女の奴隷と、学識のある奴隷が一人欲しい。後日、買いに来るから、適当にリストアップしておいてくれ」
 上得意に卑屈な態度で奴隷商は了承を伝えた。
 目的を果たしたとなってはもはやここに居る理由などなかった。
 屋敷に戻ると、出迎えたテオドラが目を丸くして、次に軽蔑したような目を送ってきた。それを無視して、セレンは女奴隷の手を渡す。
「まず、風呂と。着物の用意を」
「……畏まりました」
 不服そうにしながらも僕の鑑らしく何も言わずに従った彼女は、来なさい、と新しい奴隷に強い口調で言い、彼女を屋敷に相応しい恰好へと――垢まみれと襤褸纏いだった――変える為に屋敷の奥へと連れて行く素振りを見せた時に、玄関の騒ぎに目が覚めてそれから行動したら丁度この時に姿を現すのだろう、アリスが寝巻き姿のまま寝室から出て来た。
「なんだ、どこか行っていたのか?」
 眠気眼を眩しそうにしていたが、その声に応えたはセレンではなく、さっき買ってきたばかりの奴隷だった。
「姉さん?」
 まったく予期しない、唐突なこの場に相応しくない言葉だった。しかし、初めてまともに喋った声は微かにアリスに似ているところはあった。
 アリスは、その声の主を見やって、途端に表情が変わる。初めて、見るような驚いた表情で、声を絞り出すのも大変そうだった。
「――ユ、ユリア?」
 反対にユリアと呼ばれた少女は、先ほどまでは想像の出来ない気安く、感じやすい人格を見せていた。
「ええ、ええ。――驚きだわ! まさか、もう一度会えるなんて。何してたの? どうしてこんなところに?」
 ユリアと呼ばれた少女は、矢継ぎ早に言葉を繰り出し、アリスは返答に困っていた。そういう所を見るのも初めてだったから、肉親というものとその他の繋がりの違いを、セレンはまじまじと感じ取っていた。あまり好ましい感情ではなかったが。
「あ、ああ。色々あって。お前は――」
 ユリアは皮肉な笑みを浮かべる。
「とうとう私も売られたわ。そこの、やさ、親切なドミナスに買っていただいたのだけど。そうじゃなかったら、娼婦だったわ」 「ロザリアは?」
 切迫した声で、そういうところも初めてだ。ユリアは自分のことを棚上げされたからと言って不機嫌になったりはせずに、しかし、皮肉的な笑みはそのままで答えた。
「あの子はまだ大丈夫。もっとも、姉さんに似てきたから後どれくらい大丈夫かは分からないけど。――そんなに心配なのに、ずっと放っておいたの? 私たちを。ここでこんな生活をしておきながら?」
アリスは痛いところを突かれたのか目を逸らす。そのままだと、何もユリアを納得させるような事を言いそうになかったのでセレンは助け舟を出した。
「アリスがガラッシアに来たのは今月だよ。それまではずっと北に居た。今年は戦争に従軍し、それまではイウェールで傭兵をしていた。君たちを好きで放っていたわけじゃない」
 ユリアはセレンを見、そしてどうすれば良いのか困惑したようだったが、それが長く続く前にアリスが口を開いた。
「でも、放って置いたのは事実だ。言い訳はできない。ごめん。許してとは言わないよ。だけど、やっと恒産を得たんだ。お前たちを養えるくらいは、今の私だったら出来る」
 ユリアはそれ以上アリスを責めるようなことはしなかった。
「――いいわ、結果的には上手くいったのだから。ええ、その点では本当に感謝しております。ドミナス」
 そこで、初めてユリアはセレンに向かって口を利き、頭を下げた。アリスという存在が大きく彼女の心を解したのかも知れない。それとも市民の生活に戻れるという希望がそうさせたのか。
ユリアはセレンの返答も待たず、再びアリスを向く。
「迎えにいってくれる? 私たちは毎日が惨めだった。はやくそれを終わらせてよ」
うん、とアリスは頷き、二日酔いなど何処かにいった様子だった。
そうしたやり取りを見て、家が動くことを予期したテオドラがセレンに指示を仰ぐように目配せをしたので彼はそれに頷く。それを確認すると彼女はさらに彼女に控える奴隷たちに指示を送った。こうして家は滞りなく動いていく。
 アリスが正装し、誰にも侮られないように細心の注意を払って準備を完了したのを鏡で確認していよいよ行こうとしたところで、セレンは待っていたというように能天気な声を掛けた。
「ねぇ、私も見学していいかな?」
 真面目な調子だったアリスはセレンの軽さにイラついたようだった。
「これは私の家の問題だ」
「そうは言っても、証人が必要になるかも知れない。私は法務官級の人間だよ。居て損になることはないと思うが」
 今のアリスは感情的になっていたから、それでは纏まるものも纏まらない可能性も十分にある。彼女も自分の状態を把握していたのか、いくらか逡巡をした後、彼が手助けをする必要を認めたのだった。
「余計なことはするなよ」
「勿論。君に不利になるようなことは」


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