39.

 大規模だが堅苦しい宴会だった。季節の旬を取り入れた料理はまだよかったが、その後は趣向を凝らす事もせずお決まりのパターンで、食後は喜劇役者を招いた朗読会。他の元老院議員たちはそれに対する講釈で活発な議論を繰り広げていたが、17歳の少年にとってそれがどれだけ退屈かは特に説明する必要もないだろう。
退屈気味に秋の虫の音に耳を傾けながら、昇り始めた満月で目を慰める。
 こんな時には彼が居てくれると良かったのだが……
 若い人間には若い人間なりに楽しめる催物を用意してくれる、そういう機微に通じる才と気前のよい散財は瞬く間に借金に悩む若年貴族と享楽的な若者たちの間に浸透していた。彼の世話にならない若者など数えるしかいないだろう。
 その彼の不在が参加している若年にある種の白けを漂わせている。いつも従えている、毅然とした美しさで一躍、華となりつつあるアリスが同時に欠席していることも多少は関係しているだろう。
 盛り上がっているのは執政官を経験済みの老人たちばかりだった。
「それにしても、リキヌスは遅いな」
 剛毅な老人が強い口調で言った。ヘリオスの下座に横臥し、ゴブレットを握り、傍らに若い夫人が慎ましく腰を掛けている。名門の一つクラウディウスの首で、強力な貴族意識を持つその氏族の中でも一際大きいそれを持っている御仁だった。
 コルネリウスと権勢を熾烈に争っていて、ヘリオスの後見人だ。妻の祖父でもあり、頑固と傲岸を合わせた性格はどちらかというと調和を重んじるヘリオスとは水と油、いや、そういった相克ですらない。簡単に組み伏されて唯々諾々と従わされているだけだ。
「何か理由があるのでしょう」
「勿論、何かあるのだろう。アルトゥーラもおらんな。彼女は美しいからな」
 立ちどころにその場に卑猥めいた笑いが起こった。
 これだから親父どもは、とヘリオスはうんざりしながら、杯を呷る。まだ幼い妻を同席させなくて良かった。これでは情操教育に障りがでよう。
 ヘリオスの周りは有力者ばかりで、他の者は小さく囲まれた集まりの外側に横臥用の椅子や立食用のテーブルが置いてあり自由に会話や食事をしていた。見える限りの部屋は宴会に使われ、来場者がどれだけ居るかは正確な数はとても見ただけでは計算できない。
 いつの間にか喜劇役者の朗読が終わり、外国から仕入れたのか踊り子の異国情緒溢れる踊りが始まっていた。幾分か格式ばったものが取れ、若者もセレンの不在を忘れつつあるようだ。
 微かに淫靡が漂う音楽をどこか上の空に聞きいていると、入れ替わり立ち代りこのお偉方の集まりに短い会話を交わして去って行く青年たちの中に1人の見知った顔を見つけた。彼の目的もヘリオスだったらしく姿を認めると一直線に近づいてきた。立ち居振る舞いには、品を感じさせたが彼の姿に気付いた良識ある大人たちは眉を顰めた。連れている女性があまり好ましい身分でないように見えたから、というのもあったろう。
「おお、ホルタス。遅かったな」
「申し訳ありません。少々、手間取った用がありまして」
 彼はその高い潜在能力を買われ将来を嘱望されている理知的な人物だった。だが、借金まみれという若年の常もあったし、その借金はかなりの部分が女に消えているというのだから大人たちが彼の存在を惜しむのも分からぬことではなかった。
「リキヌス殿から彼とアルトゥーラは欠席される由を伝えるように言付かっております」
 このようにセレンと近くにあるのは、いい加減首が回らなくなった借金を返すための借金を都合してくれるような物好きはセレンしかおらず、不可避的に被保護者となっている為だ。いくらかのはした金でセレンは将来嘱望されている人間を自派に加えることに成功していて、それはまったく正しい金の使い方と言えるだろう。
「そうか。どうして?」
「アルトゥーラは体調不良だと。実際、姿は見えませんでした。リキヌス殿はとにかく欠席するとしか」
「無礼な」
 盗み聞きか漏れ聞こえたのか、クラウディウスが憤然とゴブレットを台に叩きつけた。ワインが零れ、辺りに散らばると、慌てて奴隷が身体を縮込めながら現れ、零れたワインを拭きとって行った。
「あのような若輩に舐められるとは」
 憤懣やる方ないといった様子で、肩を怒らせる。こんな詰まらない宴会ならば欠席を選択した気分も分かるというものだったが、それは言わぬが花というもの。ヘリオスは取りあえず、怒りを静めようと声を掛けたが、行き場のない怒りが今度は彼の方に向く羽目になった。
「愚弄されているのは貴方もなのですぞ」
 勿論、その事は十分に理解していた。しかし、一体どこの誰であれば彼に意の反する行動を強いられるというのだろう。皆目ヘリオスには見当がつかなかった。
「まぁ、落ち着きなさい。声を荒げても何も変わりません。私がそういうものをお嫌いだという事は貴方もご存知の筈でしょう」
 そんな内心を露とも感じさせずに言い放つ。
 この冷静さと毅然たる態度が、彼の評判を押し上げ俊英だと思わせる要因の一つだ。いかにクラウディウスといえども、そう返されてそれ以上憤慨したままの訳にはいかなくなった。
 とは言っても彼も頑固一徹な偏屈者だったから、分かり易い怒りは消しても、にじみ出るようなそれを消すまではしなかった。 「しかし、これではっきりと旗色を鮮明にしたな。こちらにもいい顔色を見せて置きながら容易く変節するとは流石ルフィヌスめを選ぶ奴は違うな」
「そう極端に考えなくてもいいでしょう。もしかすると、私たちの出方を測っているのかも知れない」
 ヘリオスがそう言うとクラウディウスは憤然とした様子で鼻を鳴らした。
「若造に測られるほど、おれは軽いか。老いたものだな」
「私たちが、彼の動向に注視していたのは、彼を野放しにしていたら脅威になるという判断だったからではありませんか。自らを恃む過信があったとして、不思議はないと思います」
「――別にあれそのものがそう脅威であるわけではない。しかし、コルネリウスに付くとなれば、やつが有する総督が3人に上る。主流かくありきといった具合だな」
 老王は絶対的な君主だったが、病はそれに影を落としていた。  属州は全てで5つあり、既に去就が決まっているのは、南部、北部だ。そして、穀物の供給先の一つの貿易の拠点である西の内海に浮かぶ島の総督は3年前から5年任期で野心的な優秀な人材が配備されている。その全てがコルネリウス派だ。南部は先の戦争で高く老王に評価されたセレン・リキヌス。北部がその頭領コルネリウス・ルフィヌス。そして、ガラッシアの喉元を、若きコルネリウス・スッラ。
 残り2つの内1つは穏健な派閥に関わりのない老人が去年から2年任期で務めているから、今年の議題には上がらないが、残り一つは今年後任を決めねばならなかった。
 クラウディウスが滑り込ませるか、コルネリウスが押し切るかそれとも、全く穏健派が奪い去るかは今のところ、なんの見通しが立てられていない。
 ヘリオスは全くの無力だった。老王は病で臥せり、ヘリオスも地盤がない為に、コルネリウスとクラウディウスの綱引きを眺めているしかできないし、両家とは繋がりも深かったから、ただクラウディウスの顔を立てるということもできないのだ。
 雁字搦めになっている。それは自覚していた。だからと言ってそれを解くということはできない。解くような力をまだ持っていないのだからしかたがない。
「であるなら、尚更、軽挙は慎むべきでしょう。思慮ない行動は後悔しか齎しません」
「馬鹿な。それくらい分かっておる。――最近は若造が元気があり過ぎるな」
「スッラは野心が高く中々ルフィヌスも統御が侭成らないらしいですからね。あちらも一枚岩ではないということでしょう」
 何も、問題を抱えているのは自分たちばかりではない。というよりも、スッラの案件は国家としての問題であった。
食料の輸送経路を押さえていたから、下手に手も出せない。優秀であることがまた対応を難しくしていた。それでも老王には忠誠を誓っていたのだ。だが、その老王の先が殆どないことを見据えて、自分勝手な動きも見せ始めている。
彼を野放しにすれば災厄が訪れるだろう。しかし、対応を誤ると暴走しかねない。
 にわかにこの国は予断を許さない情勢になりつつあった。外敵に際して漸く纏まったのに、過ぎればまた内輪もめだ。このままでは斜陽は衰えないだろう。更にまた別の大きな嵐が一つ来る事は殆ど確定しているし、それまでは老王に生きていて欲しいものだった。
 起こり得ると予測できる全ての事象が既にヘリオスの手には余っている。
「好き勝手に若造がしおるな」
「後進が育っている、ということは国家にまだ元気があるということではありませんか?」
 ヘリオスがそういうと、クラウディウスは磊落と笑った。
「確かに、そうかも知れない。貴方のような方が現れるのもまだ、命運が尽きていないからであろう。先の戦争で、危ない橋を渡りきったことでもあるしな」
「あの、すみません。それに関係することで一つ、お聞きしたいことがあるのですが」
 思い出したようにホルタスが恬淡とした様子で割って入った。  その暴挙にさすがに息を飲んだが、そこにはクラウディウスは眉を上げただけで癇癪を破裂させたりはしなかった。
「講和を最終的確認する使節団ことなのですが。主席が第5皇女であられましたね?」
「そうだ」
 クラウディウスが応える。特に誰も心づいた様子はなかったがヘリオスははっとなり何かまずいことは言いやしないかと目を走らせた。
「何故、皆様があまり話題に上らせないのか不思議に思っていたのですが、彼女は将来こちらの国の人間になるはずの人だったのではありませんか?」
 その場の人間はぽかんとした様子でホルタスを見る。誰もそのことを覚えていないのだ。皆が強いてそれから目を背け、起こってから10年と経っていないのに風化は完璧に進んでいる。
「どういうことだ」
 その場を代表してクラウディウスが尋ねた。至極真面目で落ち着いた様子でホルタスは言葉を重ねた。
「ですから、彼女、第5皇女トゥルキュルティスは、我が国の第1王位継承順位であるセレネス王太孫の許婚だったでしょう?」 いらないことを、と本気でヘリオスは思い、ホルタスを睨みつけた。彼は涼しい顔でヘリオスなど殆ど無視している。次にクラウディウスを見たが、しかし、その過去から未来に繋がる一事を思い返せるチャンスをクラウディウスは笑い飛ばした。
「まさか、あの坊主が生きていると思っているのか。よもやそんなことは在ろう筈もない。仮に、生きていたとして、もう19だ。責任感のある人間であれば戻ってきておろうよ」
 兄は恐れられた人物だった。只々、存在を疎まれた。何を大人たちが兄に見ていたのかははっきりとは分からない。
 しかし、ヘリオスは兄のことが好きだった。両親をヘリオスから幼くして奪った兄だったが、それは兄の所為ではない。両親の暴走だから兄も被害者だった。
優しく強く聡明で、何でも出来た兄は憧れだった。
 それを愚弄されて笑って流せるほど薄情な人間ではなかった。
「太陽がある限り、月はその役目を終えたりしない」
 抑えるより先に言葉が口を突いていた。
「え?」
「貴兄らはお忘れになったようだが、兄がどれほど英邁の誉れ高く陛下の期待が大きかったか。その兄が簡単に幕を下ろしたりするとお思いですか。あの兄が簡単に死んで、それ以上に、義務を忘れるような人間だとでも?」
 滅多に見せない激昂した口調は場をしんとさせた。
「だがしかし、彼は実際にはいない」
 ヘリオスの真面目な様子を見てクラウディウスも真面目に返した。
「ええ、そうです。今、セレネスはいません。セレネスは、いないのです」
 要領を得ない言葉に、返す者はいなかった。ヘリオスは座を見渡し、白けたのを見て取って腰を上げた。
「帰ります。――無知、ということは決して責められる謂れのないものですが、それによって足を掬われてしまうこともあり得るのですよ。努々お忘れなく。高みにいると人間、転び易いものですからね」
 護衛に囲まれて、輿に乗った時には、一時の激情がさっと潮が引くように去った後だったから、自らの行動を振り返る余裕が生まれていて揺られる最中ずっと反芻していた。
 不思議と後悔はなかった。自分は兄に対する義務を果たしたのだ。
 しかし、きっと兄が喜ばないだろうということもはっきりと分かっていた。
 これで強く人々の間に兄の存在が思い出された。王太子一家の不幸な運命は久しく忘れ去られていたが、鮮明なものとなって眼前に突きつけられたのだ。
 これからはやはり色々なことが複雑になっていく。


BACK / INDEX / NEXT
SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ ライブチャット ブログ