40.

「あの、待って。姉さん。すっかり言うのを忘れていたのだけど、母さんが死んだわ」
 いよいよ行こうとしたところで、また邪魔が入った。
 屋敷に相応しからぬ垢じみた身体と襤褸の服は豪華壮麗な屋敷と異様な対比があったが、さしあたりそれは重要ではなかった。ちゃんと風呂には入れるようにとテオドラに念を押そうとセレンが心に留めただけであり、残酷なまでの格差に目を遣る人間などここにはいない。
 それにしても、ユリアも平坦と言ったものだった。全く関心のないような素振りで言い、アリスも非情というほどに簡単に答えた。
「そう。どうして?」
「産褥で。お産に失敗したのよ」
 それにアリスは再び、そう、と答えるだけだった。彼女を見ていて気付いたが、心配なのは1人の妹だけで、本当はユリアも他のきょうだいもどうでもいいと思っているらしかった。
 家庭的にそれだけ不幸だったのか、それとも彼女が不幸にしていたかは分からないが、ユリアとの話をみてもこの間でさえあまり仲がいいとは見えない。
 それだから、新しい情報もアリスの行動に何の影響も及ぼさなかった。ユリアが失念していた訳も分かろうというものだ。
警護の人間にはある程度の状況に対応できる準備を施し、屋敷を出る。――外はもう日が落ちかけていた。やや涼しくなり人も疎らになってきた通りを屈強な男たちに周りを固められながら彼女の旧家に向かう。その途中、アリスは硬く口を結び、感情の高ぶった目で数歩先をずっと凝視していた。
「そう、思い詰めるな」
 ともすれば、走り出しそうな調子を抑え、冷静になるよう促してもアリスはセレンのいう事に聞く耳を持たなかった。
 その様は、全く連想する要素がないのに昔の彼女を見ているようだった。余裕がなくどこか弱弱しい。家族との邂逅が彼女を昔に引き戻しているのだろうか。
「そこまで大切なら今年の頭に会いに行ってもよかったんじゃないか」
 少なくとも、セレンは訪うことを勧めていた。あの時ちゃんと行動していれば、ここまで追い詰められるということはなかっただろう。現状を把握できた筈だし、その時に引き取るということはできなくても、ユリアが売りに出される、ということは防げたかもしれない。
 アリスも当然そう感じているらしく、悔しそうに唇を噛んだ。激しく自分を責めているようだったので、それ以上言葉を重ねることは避け、逆に励ます方に舵を切った。
「でも、確かにユリアの言うとおり上手く行きかけている。君はまだなにも失っていないだろう。冷静に事を運ぶべきだ。急いては仕損じる」
「分かってる」
 漸く喋ったがとてもそうだと思える口調ではなかったので、付いてきたのは正解だったと確信を深める結果となった。彼が首を突っ込むようなことでは確かにないが、こんな詰まらないことで彼女がダメになっても困るし、それにそれほど大切な妹がどういう人間なのか興味がある。
 大通りから道をずれ、どんどん薄暗い通りに道をいく。時間帯もあり一歩進めるごとに暗くなっていき、まるで冥府への行進だとセレンは心の内で独りごちた。誰かにとっては楽園へのカウントダウンかも知れず、本来であれば全員にとってそうなるべきだったのに、暗転しているのは逡巡が元凶だ。
 辿り着いた所は無産階級の居住区だった。薄暗く人々に活気もない。シオンという伝統ある都市の暗部に彼女は生まれた。
 人通りは疎らで、小奇麗にしている人間は殆ど見なかった。公衆浴場は無料とはいわずとも限りない廉価で解放されているはずだが、その金額ですら満足に持っていないのかもしれない。
 ふいに、アリスの歩みが止まった。
 その視線の先には1人の少女がいた。軒先で箒を持って身を屈めている黒い髪を乱雑に肩に掛からない程度に切り揃えた襤褸を纏った少女。
 大所帯で押しかけた一団に少女も気付いたようで、振り返る。  怪訝な表情から、驚きに、そして、笑みに変わるのがゆっくりと見えた。
 持っていた掃除道具を放り投げ、アリスに向かって走り寄って来る。警護が柔軟に対応しそうになかったので、態々声を出さなければならなかったのは遺憾だったが、それ以外は感動的な姉妹の再会を邪魔することはなかった。
「姉さん」
 躊躇うことなくアリスに抱きついた。
「ロザリー」
 顔を綻ばせてアリスは愛しい妹の名を呼ぶ。ユリアとは姉妹というほど似ていなかったが、この姉妹は本当に姉妹だった。
 妹は緑と形容できるほどの黒々とした軽いウェーブの掛かった髪の持ち主で、瞳の色と身長以外はアリスによく似ていた。目つきがアリスよりも優しそうだが、意志に満ちているし、全体的な顔立ちもアリスに似ており鼻筋が通っていて大人っぽく、身体の均整もアリスに見紛うほどだが、全体は10pばかり低かった。
 ロザリアはきゅっと1度強く抱いてから顔を離す。その時には嬉しさは心配に表情を譲り、至福の時は不幸に取って代わられていた。
「姉さん。ユリア姉さんが」
 真っ先に、売られた姉のことに触れる彼女の人となり。
 アリスは慈愛を込めたような笑みを見せ、――全く想像のできたものではなかったが、意外と様になっていた。
「知ってる。あいつは無事だよ。ほら、この優男が助けてくれたんだ。偶然だったけれど」
 初めてロザリアはセレンに気付いた様子で見上げ、目を合わせた途端に目を伏せはにかんだような仕草を見せた。
 セレンは優しく丁寧に名を交換し、ますます彼女はセレンを見れなくなってしまったが、笑ってそれを流した。
「実はな、ロザリー。迎えに来たんだ。もう、ここに住む必要はない。怯える必要はないんだ」
 姉の成功にロザリアは気付いている様子だった。もちろん、着ているものが一々違ったたし、警護が付いてもいる。それにセレンのようなどこを見ても富裕層の人間と一緒にいるのだから気付かないはずがない。
 その全てを知っていそうなロザリアの返答はしかし、意外なものだった。
「父さんはどうなるの?」
 アリスが家を出た時に幼かった少女も、敬愛する姉と両親の不和をちゃんと把握していたらしい。そして、アリスが根に持っていることもそれに関してはある種の非情さに支配されていることも。
「私の知ったことじゃない」
 妹に示した親愛などどこにも認められそうにない冷淡とした口調で言い、ロザリアもそれを予期していたのか哀しそうに目を伏せた。
 この姉妹の関係性が少しだけ見えた気がした。アリスは自由に振舞い、それを完全にロザリアは受け入れている。盲従といっていいほどだ。
 それだけ強いものを幼少の頃からアリスは持っていたのだろうか。ロザリアの振る舞いはどう見ても無理やりではないし、明らかに慕っている素振りがある。
 何年か会っていない姉妹の応対には見えなかった。隔たりはなく、あるのは募った思慕だけだ。
「あまり、酷い事はして欲しくないな」
 小さい呟きは拾われない。アリスが意図的に無視したのか、話を先に進めようと話題を転換した。
「で、その彼は。中にいるの」
 ロザリアは頷き、アリスの手を引いて中に誘った。
 セレンは警護の人間にその場に留まるようにいい、一人後を付いて行った。
 家は廃墟同然のうち捨てられた建物の一階の手狭なところで、ロザリアが綺麗好きなのか中は意外と小奇麗にされていた。部屋は3つ、左手の奥に子供部屋、右手に寝室があって、入り口に面しているのが1番大きな部屋だった。
「呼んでくる」
 手を離し、右手の寝室にロザリアは消える。アリスは郷愁に駆られたようにじっと部屋を見詰め、それから自嘲めいた笑みを零した。
しばらく待たされている間に子供部屋から1人出て来た。茶髪の少年で、年の頃は17といった感じだった。人の良さそうな顔立ちをしていて、愛嬌がある。
「珍しいな、うちに客なんて――姉貴?」
 ユリアもこの弟もアリスにすぐ気付いたのは多分、ロザリアの所為だろう。彼女からアリスを連想することは容易く、それが数年、最も成長著しく見目の変わる時期を失っていたきょうだいの橋渡しになっている。
「ああ、久し振りだな、アウルス」
 アリスの対応はユリアに対するものとそう変わらなかった。やはりロザリアだけが特別なのだろう。
「生きてたの。しかも、結構いい生活してるね。――あぁ、ユリア姉さんが」
 随分と残りの3人の仲はよかったようだ。2人が2人共最初に名前を出すなんてユリアはあれで慕われているいい姉なのだろう。 「知ってる。だから来たんだ」
 物分りが良さそうにアウルスの顔が変わった。このきょうだいは聡いのかも知れない。
 アウルスは話の穂を見つけられずに、少しの沈黙の後、確実な話題を選択した。
「ロザリアは?」
 答えるようにアリスは寝室の方に視線を向け、丁度ロザリアが中年の男を連れてくる様を捉えることになった。
 男は髭面で、だらしが無く覇気も薄い。しかし、アリスを見ると目を見開き、明らかにうろたえる様子を見せた。
 アリスは敵意というよりは軽蔑で満たされた目で男を見据え、まさに軍人というか政務官という公職者の威圧的な態度で向かえる。
「や、やぁ、元気にしていたか」
 弱弱しく馬鹿らしい掛け声だったが、アリスは眉をぴくりともさせなかった。
「ええ、お陰さまで。ところで、お話があるの。奥でしましょうか」
 誘う時にちらとアリスはセレンの方を見、その瞳は冷徹さを宿しているように見えたからセレンは彼女に任せることにして頷いて了承を示す。
 寝室に姿を消した二人の後には初対面の3人が残され、微妙な空気が流れた。まず、アウルスはセレンが一体なんなのかと探るような目を向け、明らかに富裕者と見て、関わり合いを持つ事を避けるように、自室に下がった。ロザリアは好奇心と羞恥心に板ばさみになったようにあたふたしていたが、意を決したように動き出すと途端にきびきびとした動作になって
「あの、水ですが。どうぞ、こちらにお掛けになって下さい」
 手際よくこの家での最善のもてなしを供した。
「ありがとう」
 それにセレンが微笑みながら礼を言うとロザリアは顔を真っ赤にして俯いてしまった。外見とのギャップはあったが、可愛らしいものだ。
 高貴なることの明らかなセレンに対してロザリアは強く好奇心を抱いている。勿論、姉に関係しているからだろう。
 手持ち無沙汰になっていたセレンは向かいに彼女が座るのを許し、話をすることにした。
「どうして、このような場所に来られたのですか」
 挨拶も程ほどにロザリアは質問をぶつけてきた。セレンの方から問い掛ける形になると思っていたから、少々驚いたが、悪い驚きではなかった。
彼女の意見は確かに尤もなものだろう。アリスが心配だったとかロザリアを見てみたかったとかそういう理由はあまり説得力のあるものではないし、それだけならセレンもこのような貧民街を僅かな危険を冒してまでも訪れようとは思わない。
 斜陽の中でもガラッシアは貿易の終着点の一つであり、シオンは人が集中する都市だ。50万人都市であり、なんの当てもなく上ってくる者も多い。結局は貧民に落ちぶれたりした外国人や市民権を持っていない者などが作るのがこの貧民街というシオンの影である。
 それを間近でもう一度見てみたいと思ったのもあった。全体は把握できないにしても、いくらかのサンプルを見ることで現状の問題点が幾らか浮き彫りになることも期待できる。そして、少なくともそれはある程度達成された。
 セレンは遠まわしにだが、そう意味することを答え、更にいくつかの質問をして、彼女の視点からも色々確認した。ロザリアは素直な様子で質問に応じてくれ、全部済んだ後には、それの返礼をしろとばかりに物怖じせずに問いを繰り出してきた。
「貴方は何をなさっておられるのですか」
「貴族だけど、それじゃ答えになってないんだろうね。――元老院議員ではあるよ。来年も官職に就く」
 元老院議員と言うにはいくらか若すぎるからか、それとも自身がそんな雲の上の存在と相対しているのを実感したからか改めて驚きが顔に出ていた。アリスは表情の変化が普通か不機嫌しかなかったから、こういうものは新鮮だった。それにしてもよく似ている。
全くもう現実味が希薄になって大胆になってしまったロザリアは、彼女が物語でしか聞いた事のないような話を確認する質問が相次ぎ発し、セレンは時間つぶしにも丁度よかったし無碍に扱う事はせずに一つ一つちゃんと返答した。
 それがいよいよ尽き、今度は話題がアリスのことに移っていった。
「姉とはどういう関係なんですか?」
 いつのまにか随分と気安い言葉遣いに落ち着いてしまっていた。
「上司と部下、勿論、私が上司だけど」
 しばし考えるような間があり、ロザリアは語を継ぐ。
「どうして姉は貴方と一緒に? その、つまり何で知り合ったのか知りたいです」
 空白分の記録を又聞きによって補おうというのか、真剣な面持ちだった。
「彼女は傭兵をしていたんだ」セレンは何気なく言ったのだがロザリアは息を飲んだ。「とても令名高かった。私はその能力に惚れ込んだんだよ。お誂え向きに市民権を持ってるっていうからね、強奪した」
 ロザリアが目を丸くしたので、セレンはくすくすと笑った。
 ルクセンブルクを脅したと言っても差し支えはないが、ちゃんと彼女にも利益誘導はしてあり、それで彼女は未だマリウス傭兵団に留まっている。彼女はかの組織の屋台骨で欠くと一気に瓦解すること必然の人材だったから、それは都合が悪かった。自らの為にもルクセンブルクにはまだあそこで働いて貰わねばならない。
「強奪って――無茶苦茶なんですね」
 嘆息まじりにロザリアは零した。
「誉めてもなにもでないよ」
「褒めてません」
 軽口には軽口で返してきて、言った後で久し振りに口を聞いている人間がどれだけの貴賓だったのかを思い出して恥ずかしさに頬を染め俯いた。
 一気に空気が冷めてしまい、今度はセレンが問い掛けねばならない順番だったが、粗方のことをは聞いてしまっていたし、仕方がなかったので、未来の事を肴にした。
「ところで、君は文字を読めるかな」
 急な話の転換にロザリアはびっくり眼な様子で首を傾けた。
「はい?――ええ、読めますが」
「算術は?」
「はい。難しいものでなければ。」
「素晴らしい。誰に教わったの」
「姉に、アリーチェの方に」
 すると、幼かったアリスは妹に初等教育を施していたらしい。全くそこまでくれば呆れたものだったが、それで目の前の少女は人生を広げられたかも知れない。
「中々、見識を持っていたお姉さんだったね」
「ええ、勿論です」
 自信を持ってロザリアは断言する。その態度にはアリスに対する好意の深さがありありと表れていた。
 このように、セレンとロザリアは意外なほど打ち解けることができたが、その最中、パリンと陶器が割れるくぐもった音が耳に入った。
 その元が寝室だったから、それまで和気藹々と喋っていた二人も示し合わせたように張り詰めたものに変わった。セレンは席を立ち、寝室の方に歩を進めると、ロザリアは心配そうにその後を恐る恐るとした様子でついてきた。
「ふざけるな!! そんなものを飲めるわけがないだろう」
 一際、怒号が響き、それで男が杯をたたきつけたのだと知れた。寝室を覗き込むとアリスは平静に、手前の壁際に立ってベッドの端に腰掛けている父親を見下ろしていた。
「なんだ、貴様は?」
 男が激昂した調子そのままセレンに矛先を向ける。
 セレンはそれを無視し、アリスに声を掛けた。 「どうなってるの」
「知らん。連れて行くと言ったらこうなった」
「大方直裁に言い過ぎたんだろう」
 アリスはそっぽを向き、意図的にそうしたと思わせるような後ろめたさを感じた。
「おい、貴様、誰の許しでこの家にいるのだ」
 無視されたのが腹に据えかねたのか、本格的に矛先をこちらに向けたが、それに対してセレンが
「黙れ」
とつい反射的に命令し、その後で誰か気付き
「ああ、おとうさん。これは失礼な言葉をぶつけてしまいましたね。ですが、あまり侮辱なさると安全を保障し切れませんよ。貴方には仇を取ってくれるような友誼心の強い友人がいそうにありませんから」
丁寧に言ったのだが、中身の過激さに完全に気圧されて、打たれ弱い薄弱な本性を現した。
 「何もこれはそんなに難しい話ではないだろう。ご両所。アリスはアウルスとロザリアの親権が欲しい。それで、貴方は、――とても家父長の義務を果たしているとは思えないが、差し当たり自由に権限を行使できるとして、子女を家長父権から解放する気は?」
「ありえん」
 意気を取り戻し、憤然と地面を踏み鳴らした。
「二人も売っておきながらか」
 冷ややかにアリスが言い、セレンもそう思ったが表に出すのは控えた。どうせ、思い通りに進められるはずでアリスみたいに要らぬ波風を立たせる悪戯心は持ち合わせていなかった。
「そんなのは関係ない。大体、お前は何を自由におれに意見しているのだ。誰がそれを許した。おれはお前を自由にした覚えはないぞ」
 怒鳴り散らした声に入り口で推移を覗っていたロザリアは泣き出してしまい、沈黙の時、すすり泣く声だけが部屋に響いた。アリスは顔を青白く染め、頬のあたりが引き攣り、あまりのことに怒りで思考が散らばってそれの回収が捗っていなかった。このまま彼女に喋らせても言葉にならないだろうと判断しセレンが代弁した。
「彼女は新しい家の創始者という扱いです。貴方の家長父権はもう届かない。戸籍上はそうなっています」
「そんな馬鹿な」
「身分を変えるというのは結構骨が折れましてね。前例もあまりないことですので。証明は容易いですよ。何せそう命令を下したのが私です。先日まで法務官職にあったので」
 正確には法務官として遇されただけの正式な官職に就いていたわけではないが、ここではその厳密さを区別しても意味はなかった。
「おとうさん、わたしは穏便に済ませたいのだ。手荒な真似はしたくない。しかし、貴方が強情だと能う手段の全てを考慮に入れなければならなくなってしまう」
愚かな父親はどういう仕組みで権力が動くかまったく予想が付いていない。貧民であれば当然かも知れないが市民には相応しくない。ところで、セレンの風貌は明らかに有力者の子息の恰好であるし、自身の地位も厳命したから、セレンの台詞には真実味が篭っていた。
怯んだ様子の父親が居心地の悪そうに目を逸らす。
これで、主導権を握ったと確信した。セレンは声に阿るような調子を響かせる。
「何も我々は貴方を脅して子供たちを奪おうというのではない。子供によりよい環境を提供したいと思っているだけだ。しかし、結果的に貴方は家族を失うことになる。勿論、補償を考えなければならないでしょう」
男の目が卑しく光った。アリスはひどく心外そうに異議を端的に表す目を向けてきたがそれを無視した。彼女が考えていることは容易に分かったがそれを汲むつもりはない。どうしても金で買っているように思えるのだろうし、勿論父親もそうだろうが、売買とは違う。法的には全く違うのだ。それを分からせようとしても無駄で、意味もない。
その意図を理解したのは、隅で泣いていたロザリアだった。彼女はアリスより冷静で、自らが案件だからか家族が好きだからか、セレンの提案の意図を完全に理解した様子で、不意に泣き止みセレンを見詰めた。
「具体的にここで決めてしまいましょう。私が証人になります。フォルムに出向いて正式にしてもよろしいですが――」
「いや、必要ない。あんたを信用する……では、早速、その補償のことだが……」
父親は強欲を隠す術を知らないようだ。思っていることが顔を出過ぎ、売ろうという熱意が明白なため、これではユリアを売った時も散々買い叩かれただろう。
とりあえず、交渉はアリスに任せ、セレンは双方に助言を与える役に回った。証人になるといった手前積極的に関わるのは避けなければならない。
アリスは嫌々といった様子でそれに臨み、父親の方は心弾むといった、見るからに卑しい部分を恥ずかしげもなく露出させており、本当に彼がアリスやそのきょうだいの父親だとは俄かには信じられなかった。
軽蔑に支配された雰囲気に露とも気付く素振りなどみせず父親は自らの経験を元に実の子供二人の値段を嬉々とした様子で算定した。
「どうだろう。1万というのは」
 卑屈で大分値を吊り上げたといったような表情で、笑いをかみ殺すのが必死といわんばかりだった。
 アリスは一瞬、理解に手間取ったように困惑を示し、それを理解した時には呆れ顔でセレンを見た。無論その時のセレンの気持ちも同様で馬鹿さ加減にもういっそ殺してしまった方が楽なのではないかという考えに取り付かれたが、ロザリアの手前それを実行に移すのはなんとか思い留まった。
呈示された金額は明らかに過少評価で、ロザリアだけで4万程度付けられても可笑しくはない商品価値がある。逆にアウルスの方は1万行かない可能性もあるが、それでも二人での買値の相場が1万であり得ることはないだろう。
流石にそれまで関係してもいなかった筈のロザリアも父親の愚かしさに頭を抱え、この場はそれに合わせていくしかなかった。
ここで二つ返事をしても良かったが、金額が金額の為にどうかとセレンは思った。これは商談ではなく、ロザリアが気付いたようにこの愚かな父親の扶助という面を持たせているのだ。これはアリスやユリアの為というよりはこれから売られる二人の兄妹の意向が絡んでいる。それを汲んでやる必要をセレンは感じていた。 ロザリアは明らかに父親も慕っていた。奥底ではどう思っているかはとても分かったものではないが、アリスのように許されれば殺しそうだと目に見えるほど憎んでいる様子も割り切っているとも思えない。
勿論、ロザリアはアリスに引き取って欲しい筈だし、それが父親との別れだとは承知しているだろうが、父親のことは心配なのだ。それを少しだけでも軽くしてやることに、躊躇う必要もない。どうせこの金はアリスに全部貸しだし、アリスとてロザリアの為とあればそれくらい喜んで出すだろう。親を見捨てるという不面目を犯さずにもすむ。
ともかく、セレンは金額の調整に動いた。1万では困る。
「それでは、我々の狭量が笑われてしまいますな」
 まさかの上乗せの可能性に父親は有頂天だった。それから上の空の彼と簡単に折衝して、5万ということに決まった。
「ですが、一つだけ条件が。――残念ながら一括ではお支払いしません。毎年5000。払い終えるのは10年後となります。それも月割りにしましょう。毎月人を遣ります」
 一瞬、考える素振りを父親は見せたが、直ぐにそれでよいと返答した。今もらえる額が予想の半分だとしても、それが毎年入ってくるほうが利益になると判断するだけの頭はあるらしい。
 5000でも相当の金額であることには間違いない。何も望まなければ十分に生活できる金額なのだ。
「では、とりあえず今月の分は今渡しておきましょうか。――ロザリア、外で待っている人間に私が呼んでいる、と伝えておくれ」
 すっかり涙も乾いていたロザリアはいじらしく一礼をしてから役に向かい5分も掛からずに警護の頭を連れてきた。男はセレンの元に寄り、彼が目配せをするとよく教育されたという風に父親の前に財布から銀貨をじゃらじゃらと財布をふって落とした。
 5000やら1万やらの日常的な通貨単位は真鍮貨で、今ここに取り出したる銀貨は真鍮貨一枚の4倍の価値があり、大きな商取引には必須だった。その上にはさらに金貨があってそれは真鍮貨の100倍の価値だ。
 100枚程度取り出した後もまだ十分に体積を残していた袋を見て、男は驚いていたがどうでもいいことだった。
「確認を」
 夢心地で男は数える。ちゃんとあることを確かめると未だ信じられない様子で頷いた。
「この者が毎月、届けます」
 それで、全てが終わりだった。
 アリスはロザリアに準備するようにいい、ロザリアはことの次第をアウルスに伝えに過ぎに子供部屋に姿を消し、それからたっぷり1時間以上は掛かって二人の準備を終えた。アウルスは劇的な人生の変化をさほど動じた素振りも無く受け入れ、身の回りのものにも頓着することもなく唯々諾々とアリスに従った。準備に時間の掛かったのはロザリアで、なるたけの物を持っていこうと結局荷物持ちに1人護衛を割かなければならないほどだった。
 準備ができた頃には空はすっかり暗くなってしまっていて、護衛の者たちは松明を用意していた。
 大通りに出るまでが長く、酔っ払いの姿も見えたりし、大通りになると日中の規制から解放された馬車がけたたましい音を立てて、通行していた。
 道すがら会話は殆どなかった。少しロザリアがアリスと話したりアウルスと話したり、セレンにも声を掛けたりした程度で、他の3人は能動的に口を開こうとはしなかった。
 輿の一団と鉢合わせたのは、屋敷にごく近くに迫ったところだった。
 輿の主は幕を降ろしておらず、誰かと視認できたから言葉を交わす時間を得た。
「欠席しておきながら堂々とお二人で外出とは、見上げたものですね」
 皮肉っぽくその貴族は言い、輿を降ろさせて、態々立ち上がった。
「私にも先送りにできない問題はあります」
 抱擁と握手を交わし、気安い会話を続ける。
 アリスはその相手に心当たりがないようで、あまり長居はしたくないとセレンを責めるような目配せをしたが、その意志には従うつもりはなかった。
 こうして、ちゃんと話すのは久しくないことであり、また、他の時では面倒が多すぎた。
「ご結婚されたようで、お祝い申し上げます」
「ありがとう。貴方はどうなのですか? 彼女とは、それにコルネリウスの娘とも」
 恋多き男というわけではないが、浮名は流れていた。その相手が相手だったもので特例的な昇進よりもそちら方面での名の通りの方がよいという有様だった。
 セレンの対外的な評判は金にだらしなく、また女にもだらしないというもので、その所為で厳格な老人たちからはとかく白い目で見られているが、若年層と民衆には親しみを持たれていた。
 その程度は伺候によって測ることができ、殆どがくだらないものだったりセレンに上げるまでもない些末事だったが、ないよりはマシというものだった。それに訴えられた以上はその解決に公正峻厳で臨み、その評判は悪くは無い。
「まぁ、程ほどにしておかれた方がいいでしょうね。女の人は恐ろしいです」
 どこかで同じような忠告を受けた気がするが、同じ事でも忠言は耳に痛いものだ。渋面を見せたのか貴族は朗らかに笑った。
「ところで、アエテルヌムからの使節団が後10日ほどで到着するという話です。歓迎の饗宴を開くのですが、今度ばかりは断らないでしょうね」
 冗談めかした言い方に流石に苦笑した。それが通り過ぎると真面目な色を宿す。
「主席はトゥルキュルティスだそうです」
 セレンにとってその言葉は少し衝撃があった。
「彼女が表舞台に?」
 真剣味を帯びてきた話にアリスも不審気な視線を送ってきた。
「はい。時は進んでいますよ」
「私も留まってはいない」
「ええ、そうですね」
 そこで時間を気にする素振りを彼が見せたので、話は腰を折られるように終わり、親しい挨拶を交わした後に別れた。
「なんのことだったんだ?」
 戻るとアリスが眉を上げたが、セレンはそれに曖昧な笑みを返しただけだった。


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