42.

 アエテルヌムの使節団はガラッシアの状況をかなり正確に把握していた。北方の状態が想像以上に悪いこと、そもそものその原因となった焦土作戦を選んだ老王に対する反感と彼の病により権威の低下が著しいこと。
 それらの要因で講和条約に強気で臨めることを彼らは感知していた。遠征での敗北は軍兵と物資を失っただけで、アエテルヌムを傾ける程のものではない。冷静に見れば、未だ戦力はガラッシアに圧倒的に不利なのが見て取れた。それを万全に利用した交渉でアエテルヌム優位に進んでいた講和の情勢を一変させたのは俄かに姿を現した王孫セレネスの存在であった。彼の存在は使節団主席の帝妹トゥルキュルティスにこれ以上ない衝撃をもたらし、講和条約に対する変心を促した。帝妹であった彼女は臣民の義務から妻への義務に容易に従うものを変え、立場を翻したが、それでも物事の大きな流れを根本から変えるまでには至らなかった。それは左右するには余りにも大きく、セレネスはあまりにも小さかった。
ガラッシアにとって最大の懸案はデルタ三国におけるアエテルヌムの覇権の決定だったが、それを思い留まらせるほどの価値は彼にはなく、精々がお互いにそれを触れることを回避させ、その代わりに捕虜に関する代償を幾らばかりか増額させることを飲ませるのに成功しただけだった。これは別に彼の成果ではなかったが、存在が弾みになったのは確かかもしれない。
 あまり、目立つものでもガラッシアに利するものでもなかったが、この条約は是が非でもガラッシアは結ばねばならなかった。被害以外の目に見える成果であり、幾らかの先の短い老王への反感を和らげる効果を見込めるのだから。
 条項は大きく分けると、賠償金という名目ではなく捕虜の返還に伴うと記された僅かばかりの金額をガラッシアはアエテルヌムから受け取る、という一項と、王孫であるセレネスと帝妹トゥルキュルティスの婚約の確認の二項、その他の戦争を終わらせる細かい項があったが、重要なのはこのふたつだけだった。勝利には相応しくなかったが、最悪を回避するには致し方のないことではあった。
 講和条約の可否を付託したのと同時に、元老院には王孫の帰還が告げられた。これは大きな衝撃をもって受け入れられた。特にクラウディウス一派に与えたものは他の群を抜いており、王位継承に絡んだ問題であることを気付かない人間はいなかった。
 当然、正当性を疑う声もあがったが、コルネリウス・ルフィヌス、ファビウス・リキヌスの大貴族が保証し、神事を司る女祭司長も証言したから、それは殆ど黙殺された。しかし、反対に今度は非難の声があがった。
 身分を偽る必要はなかった。あるのならそれは後ろめたいことがあるからだ、と。
 微妙な政争を繰り広げているから、という訳にも言わず、これは甘んじて耐えるしかなかった。
 それでも、渦中の若い王孫は、鋭い反撃を吐いたりし、それで認められたところもあった。
 元老院の攻撃と彼の存在が齎した混乱が、彼が戦前に身分を偽った正当性を与えていたがそれを心得えていたのは声無き多数派で、元老院は暫くの間、騒乱に包まれた。彼のリキヌス時代の行状もそれに拍車を掛けたが、一枚岩が崩れ、刹那的な反応と過剰な反応の中でセレンは逃げも隠れせず、最も愛された後継者の名に相応しい切り抜け方で渡り切った。
そんな馬鹿らしいまでも存在を認めさせるには好都合だった一連の論争で冬はあっという間に過ぎ去った。
 年が明けると、すぐにセレンとアリスは理性を取り戻した元老院を後にして任地に出立していた。
 それから一月余り、寒さも大分緩んでいた午後、属州総督邸の訓練場に二人が対峙していた。鎧などは装備しない軽装備で剣も木剣。習慣となっている訓練だった。
互いの頬には汗が伝っている。彼女はそれを無視し、瞳は前方から全く動かさなかった。半身でリズムを取りながら様子を覗う。  セレンの射抜くような眼差しはそれだけで人を殺しそうだ。迷いは一瞬たりとも見出せない。息をするのも躊躇う間に耐え切れず、アリスは意を決し打ちかかった。
 牽制の一撃を彼は簡単に盾でいなすように防ぎ、それに呼応して空いた右脇に突きを見舞う。アリスは刀を返し剣筋を邪魔して身体の外に逸らせた。伸びた身体目掛けて盾で身体を押し、態勢が崩れたところに突き刺そうと振るったが、押しが弱かったのか、それを待っていたのかセレンはアリスの予想より早く体勢を立て直して盾で弾いた。そこで運が悪かったのかアリスはバランスを崩し、一瞬の間が生じ、それに付いたセレンはアリスの膝裏に剣を当て引き込み態勢を完全に崩させて膝を突いた上から剣を突きつける。こうなっては降参するしかなかった。
「また、私の負けか」
「君にばかりいい気持ちさせるのは納得いかないからね」
 口惜しく吐いた台詞に、セレンは得意そうに答えた。ボードゲームの借りを彼はここで思う存分返し、反対にアリスのストレスは溜まる一方だった。
 セレンが手を取って起こした後、剣と盾は小間使いに放り投げ、修練場の外れに置いてあるボウルの水で顔を洗う。従者が差し出すタオルを受け取って顔を拭っていると、公僕が一秒でも惜しむように書類を抱えて近づいてきた。
 その内の一つを拾い上げ、目を通す。
「やはり、合っていないな」
 属州付き財務官は、属州全体の財政を担う。属州総督のセレンは上に悠然と構っているだけ、白鳥のような水面下の足掻きはその下で動くアリスに全て押し付けている。
 それに反感はなかった。日常は目が回るほどの多忙を極めていたが暇を飽かすよりずっといい。それにセレンの目や態度が、能力を測っていることに気が付いていた。つまり能力を示す場所が与えられているのだ。
その意識を持ってアリスは自らを厳しく律し逸らないように注意したし、反対に怠惰に見られないようにとも注意を払った。
 南部属州は最も平和だった属州の一つであり、国境に面してはいるがそれは黒き森という未知の大森林で直接の外敵はいない。遠く狩猟民族が住んでいることは知られているが細々とした交易だけの関係があり、敵ではなかった。
 その為、というわけでは必ずしもないが、政治的には腐敗している気配があった。総督と財務官の任期は半年と一年と決められているが、更に下の人間は決められていない。この属州ではその人間が不自然なほど長く居座っていた。
 そこに目が行ったのは全くの偶然だった。引継ぎの際の財政状況の細目に僅かな引っかかりを覚え、その後にあった担当者との会談で、引っかかりは疑念に変わった。それは全く合理的なものではなくただの勘だったが、逆に六感を拘ることにして、自らの従者に徹底的な調査を命じた。その結果が示されていた金額と大きな隔たりだった。そして、誰がそれを行っているかと糸を手繰っていくとその人間が浮かび上がってくるのに大した労力は必要なかった。
 前任の財務官は1年の任期をつつがなく過ごすことの方に重きを置いていたようで、それが代々の慣習となっていたのだろう。
「平和だからと言って問題がないというわけではないか」
 アリスの背から書類を覗きこんだセレンが問い掛けるように眉を上げた。いかにも他人事と言ったような様子だったが全責任は彼に掛かる。それを認識した上で彼は悠々と委任しているのだから、彼の胆力というものには驚嘆すら覚えた。
「疑わしい人間がいるのだけど」
 しかし、そういう感情はおくびにも出さない。どう思われているか知られたところで益になることは何もない。
 アリスがにらんでいる人物だけではなく、その取り巻きが幾人か兵役満了と共に騎士階級に迎えられ、そのまま留まっている。いわば現地の名士というわけで、軍に対する影響力も大きい。ある意味属州の統治を円滑に進める潤滑油のような働きを担っているが弊害が大きいとなれば排除することも検討しなければならないだろう。一人ひとり名前を挙げていくとセレンの顔が一瞬、曇った。
「また大物ばかりだな。彼らにも当然、引き上げ、後ろ盾になっている者がいる。事を構えるとなると多少なりとも問題を抱えることになる」記憶を辿るようにセレンは目を閉じた。「――確か、フラウィウスだ。彼らはコルネリウスと近いな」
「お前が厭うほどか?」
「いや、私を妨げるものは最早ないが――成る程。これが放置されている訳か」
 得心がいったというように頷いた。こういう所にもコルネリウスの権勢が影響しているのだと知って、アリスは些か驚きを隠せなかった。国の権勢を握っているものの影響力は計り知れない。 「私の方でも調べてみよう。事態がこうまで表にならなかったことには訳がありそうだ。正義感の強い者が属州の中で1人も居ないというわけはないだろうからな」
 それまでは慎重に動いたほうがいい、と言っているようだった。ことを悪戯に荒立てると面倒なことになるかもしれない。そうなるのはアリスも本意ではなかった。
 了承を示すとセレンは冗談めかして軽口を叩いた。
「君がその1人であった可能性もあることにはあるが」
「まさか。私がどういう人間か、お前だって知ってるだろ」
 そういうとセレンは笑った。そして、次の瞬間には真面目な色を取り戻す。
「恐らくこれはプブリウスの怠慢だ。彼もこちらに数年前に赴任しているはずだから、何も気付いていない、ということはあるまい。処置を誤ったと見て間違いないだろう」
 琥珀色の目がアリスを見詰める。ただの横領や横流しには留まらないと見ているらしかった。古参兵の汚職には軍団自体も絡んでいると考えなければならない。関わり方がどういう類のものにしろ、対応はより難しくなるだろう。間違えば、属州自体が揺れる事態になりかねない。
 南は平和でさえいてくれればよい。それが代々の権力者の考えであることはセレンもアリスも承知していた。それがまんまと利用され助長させていた結果が現状なのだから、毅然たる姿勢を見せる必要があるのを認めているのも共通している。
 これからの動きを思い描いてアリスは生唾を飲み込んだ。セレンも少しばかり気が高ぶっているようだ。この事態を嘆くほどセレンもアリスも、義憤に篤くも清い人間でもなかった。2人の胸のうちに過ぎったのは揃いも揃って、機会に恵まれた、という完全に利己的なもので、お互いの気持ちは目を合わせただけで容易に知れた。
 苦笑が漏れたが、どうしようもないことだった。互いに功に焦っている。王太孫として復帰したセレンは、経歴の点でヘリオスに大きく劣り、軍歴も1度単独で軍を率いてアエテルヌムを罠に嵌めただけだ。その意義は意義どおりに評価されれば大きいものだったが、理解しているものは皆無に近い。だからこそセレンに役目が回ってきたのだったが、能力は顕在しない限り存在しないのと同じだった。後継争いの不利は簡単に跳ね返せるほど軽くはなく一つずつ地道に重ねていくしかない。
アリスに至ってはただのセレネスのお気に入りで、ただ容色だけの存在としか思われていなかった。社交界の華と煽てられるのに悪い気はしなかったが、それだけに見られるのは自尊心が許さない。チャンスがあればそれに飛び掛るのも当然だった。
 完全にセレンのアリスの利害は一致していた。
 他愛もない田舎の汚職事件だが、王孫が絡むことで重要事に祭り上げられてしまいそうな気配がその時に既に漂っていた。
 セレンが何度か北部属州と書簡のやり取りをしている間、アリスは広範囲に浅く人をやり情報の収集に努め、いよいよ準備が整った頃、彼はアリスを執務室に呼びつけた。
長いすに尊大にもたれ掛かっていて、アリスが入って来たのをみると、目を通していた手紙を彼女の方にぞんざいに投げた。
「プブリウスと調整ができた。阻むものはなくなったよ。では、鼠を追い詰めようか」


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