45.

「どう対応なさるのですか」
 申し合わせたような冷静さでアリスが適当な話題を選んだことは、彼女の落ち着き払った態度も相まってセレネスを感心させた。いよいよ彼の片腕であることに慣れてきたことを示しているし現状において他の軍団副官と司令官との鎹となる重要性に気付いた知性は至極満足のいくものだ。
「ホルタスから連絡があるはずだ。兵を向けた旨の報が」
 何も知らない副官たちもそれで全てを悟ったようだった。ホルタスが自由に兵を動かせるということは既に司令官の命があったことを示すし、司令官が前もって手を打っていることは何よりの安心を齎す。
 だが、司令官の泰然は外面を取り繕う仮面に過ぎない。心の内ではセレネスは状況を楽観視してはいなかった。手を打っていたとはいえ、可能なら避けたかった事態であることには変わりなく、もしホルタスが何かミスして鎮圧に手間取れば更なる反乱を誘発させる可能性もあって、そうなれば属州全土にこの反乱が広がるようなことになりかねない。セレネスは能力を疑われるだけでは済まないだろう。
 その最悪の事態を避ける為にも、一刻も早く根拠地を落とさねばならない。根拠地を落とし首謀者を殺すか捕えれるかすれば、その他の反乱は何の価値のないものに成り下がる。
 セレンは指針に修正を心の中で入れた。
「ですが、我々はそれで納得しますが、兵たちはどうでしょう」
 アリスが再び水を向ける。
 兵が情勢に憂慮するなど許されざる越権であるが、人間である以上内に抱くものまでに干渉できたりはしない。士気の増減はいつも指揮官を悩ませるがご他聞に漏れずセレネスの身にも降りかかってきそうだった。しかし、兵には正確な情報は中々伝わらずに断片的な情報が荒唐無稽な噂話に育つのは極めて自然なことであり、その帰趨は百人隊長によった。大概の兵士は直接の上司に指嗾されるものだからだ。
「百人隊長が出席資格のある幕僚会議を催した方が良いかな」
 その場で叱るにしろ励ますにしろ、不都合な噂が広まったとしたら放置しておくことはできない。
「状況によっては」
 セレンは頷いた。公開すべき情報と秘匿しておくべき情報の選別は難しいものがあるが、この件に関しては疑心暗鬼に陥らせる可能性もあったし、迫られれば公開すべきだろう。
「さて、酔いが醒めてしまったようだが、飲み直すかね?」
 先ほどまでの真剣さは一瞬で霧散し、私人の顔を見せると副官たちは困惑したのか情けない顔になった。それに強いて相手をさせてもよかったが、セレネスは慈悲の心を見せて彼らを解放することにし、下がるように命令した時の彼らの一様に救われた表情は印象的だった。
 翌日から、第8軍団は本格的な攻勢を見せた。手負いの客人から齎された縁起でもない噂を一蹴するように。
 まず城壁と背後の山に護られた街を歩塁半円状に築いた歩塁で囲み、外界から遮断して心理的な圧迫を与える。もし、反乱軍が更に何かの計画があるにしても連携を取れなくすればよいことだ。状況が分からないとなれば不安は嫌が応にも増すものでもある。それに決死で通信を取ろうとする敵兵を補足する機会にも恵まれるかもしれず、何か益ある情報を得られるかもしれない。セレネスは情報を集める為に騎兵を四方八方に派遣していた。
 数度、歩塁の建設を妨害することを目指した攻撃があったが、その度にアリス以下の副官の適切な指揮によって撃退していた。敵の錬度は付け焼きの正規軍より劣るといった様子で、相手の指揮官も大変だろう。
 歩塁が完成すると、第8軍団も攻め落とそうと攻城を試みた。石で作られた城壁は堅牢で、悪戯に兵の命を散らせただけだったが、久しく戦闘の経験がないこの街は普請を怠っていたのか古くなっている箇所も目に付いた。至急に普請している最中と思しき場所もあり、その中での相手の反攻で探れることは幾らでもあった。
士気は相手も今のところ旺盛で、この状況にまだ絶望を抱いていない。籠城を初手から選んでいることといい、つまらない策謀を張り巡らせている気配はあった。しかし、セレネスが最初の攻撃先を根拠地そのものに選択したことによる多少の混乱の所為か、散発に終わりそうな背後の反乱で幾つかの策謀は潰えただろう。
 そう、セレネスは根拠地以外の反乱軍を放っていた。戦力の分散をしてまでの危険のある敵はいないと判断したこともあるし、敵と渡り合えると思える信頼できる副官もいなかった。そして、この根拠地を最初の攻略地に選んだことにより、相手にしなかった反乱軍がこの地に結集して二重の包囲戦になったとしても、一つの軍団なら自分の指揮で或いはアリスの指揮で十分に渡りあえるとセレネスは考えていた。
 実際には、放置した反乱軍に属すると思われる諸部族は一つの反乱を除き、表だった行動を避けていた。仮に首領が討伐された場合の身の振り方でも考えているのだろう。
 兎も角、反乱軍の首領はセレネスの選択で揺らいでいるような様子はなかったから、まだこの状況をひっくり返せる策を持っているのだろうか。外部との連絡はほぼ遮断された状態で。
 注意深く行動を見守っていく必要がある、とセレンは心に留めた。
 彼は状況を冷静、というよりも俯瞰的な心証で眺めていた。この戦争は自らの名誉と栄誉が掛かっているが、指揮はアリスに丸投げしているところがあるので、実感しにくいのだと分析していたが、それはあまり正しいものではないと心の奥底では気付いていた。だが、それを認めるには少々恐ろしい。
 攻囲を始めて15日程経ったある日、彼は執務とプライベートの兼用で使用している天幕で、諸事をこなしていた。天幕の中心の机には大きな地図と兵力を表す駒、それに報告書が散乱している。そこではアリスがじっと地図を眺め、髪の1本、眼差しすら一振もせずにじっと地図を見下ろしていた。
 アリスはセレネスの怠慢に愚痴も零さずに第8軍団を統御し作戦を立案し、攻略に当たっている。今の所、成功してはいないが、敗北に繋がるような大きな失敗もしてない。戦争全体の趨勢を握る地位にまだ慣れていない様子であるし、無論、責任は全てセレネスが負っているからその点では気楽だろうが、彼女は変にプライドが高かったからこの状況には満足してはいないだろう。ホルタスの反乱鎮圧もまだ終わっておらず状況は日に日に悪くなっている中で、効果的な作戦を見つけられずにいる事は、彼女のプライドを傷つけるには足ると容易に想像が付く。
 セレネスはシリアスな雰囲気を纏うアリスから視線を外し、書類の整理を続けた。手紙の類が山と詰まれて場所を圧迫しているので整理しなければならない。手紙魔というわけではなかったが、元首の地位が見えている人間としての交友は自然と拡がっていた。不穏な噂の絶えないスッラとも、セレンの時から手紙のやり取りは続けていたし、正体を元老院で知らせる前に前もって告げていたことも良かった。他人より尊重されたとして彼の自尊心を満たしたらしく、好意的な目を向けられている。他には、元老院議員やら騎士階級の人間やら、その妻やら妹やらとの繋がりを示すものばかりだ。特に女性関係は多かった。セレネスの容姿は女性受けしたし、社交性も高く親しくなることは難しいことではなかった。彼女らから兄や夫の行動を知ることは彼らに直接聞くよりずっと容易い。
 手紙を纏めている作業の途中で、束の中からエテルノからの最新のものが目に入ったので拾い上げる。
 彼の軍事行動に対しての首都の反応は、一々エテルノが書き送ってきていた。この手紙にもそれは時季の挨拶の直ぐ後に記されていて、元老院は賛否両論で論じられているらしい。今の時期に戦闘を起こしたことに関する是非とセレネスが実績を挙げることへの警戒、それ以前に戦争に勝てるのかということも取り上げられているそうだ。
 しかし、仮に勝利を収めると様々な問題点から市民の目を逸らすことができるということでの期待は一定の支持を受けているということだった。
北部の復興は進んでいるが地味。西部のスッラの動きが不透明。アエテルヌムはその牙を研いでいる。元老院はヘリオス派とセレネス派が抗争を始める勢い。
その中での明るい話題は何でも利用する腹積もりなのだろう。元老院は愚か者の集まりではない。
 それからエテルノは、水面下の話も書き添え(ご丁寧にこれは文学に通じた洒落のある暗号で認められていた)セレネスが首都の情勢に疎くならないようにとの配慮がされてある。尤もセレネスも情報網は持っていて万が一にもシオンを知らないことは在りえないが別の角度から齎せられる情報にも一定の価値はあった。
 重要なのはそれだけで、残りは近況や日常的な話題が独占した。その中で彼女自身の近況を触れた件で、ロザリアと話すようになったという文言には思わず笑みが零れた。エテルノは主不在の屋敷の運営をしているので、その時にロザリアとはあったものらしい。外見はアリスと似ているが中身は別物だと楽しそうに書き連ねていた。
 彼女が少しずつ成長している様を見るのは父親か兄のような気分で少し寂しいものがあったが悪いものではない。
 手紙を折りたたむと、未だにじっと地図に見入っているアリスの姿が目に入る。口元に手をやって考え込んでいる姿は絵になっていた。
「東側の城壁の普請はまだ終わっていない。だが、敵もそこには兵力を多く割いている。それに、一日一日補修は進む」
 ぶつぶつと現状を振り返る言葉を呟き、どうやら頭を整理しているようだ。
「どうにかして、不意を突かないと。混乱……予想外の場所……」
 思索に耽りながら指で唇を撫でる仕草はいやに扇情的。
「山が邪魔だ。防衛線は狭まって攻撃箇所が絞られる。――なぁ、セレン、ここには弱点があるんじゃないの?」
 不意に彼女は顔を上げて視線を地図から引き離し、セレネスの方に滑らせた。
「何物にも弱点はある。物理的なものでも精神的なものでもね。籠城は精神を病むし、彼らにそれほどの精神力があるとは思っていなかったが」
 普通、囲まれると攻勢に出たくなるものだ。理性の問題ではない。飢えた人間が水を求めるようにそれは避けがたい欲求だ。攻囲され精神的な逼迫を感じない人間はいないだろう。刹那的で破滅的な選択を選びそうになる人間は多い。
「何が、彼らを支えているんだろう」
 アリスはいぶかしむが、自分の範疇でないと判断したのか、早々にそれの探求は切り上げて、話を戻した。
「それはそれとして、ここがお前の長い手から零れ落ちたのは防御が完璧じゃなかったからじゃないのか?」
 彼女はセレネスのことを魔法使いか奇術師の類と思っているのか、平気でそんなことを言った。セレネスはそれに苦笑しながら首を振る。
「いや、ここは元々、退役兵と近い部族の土地だったんだよ。私の手の及ぶところではなかった。ここを根拠地に選んだのは私も些か予想外だったんだ。――しかし、総じて1番の長所は1番の欠点となり得るものだよ」
 謎掛けのような言葉が気に食わなかったのか、じっとセレンの瞳を不服そうに見詰めてから彼女はまた地図に視線を落とした。 「長所ね……」
 攻囲戦に取り組む姿勢と今までの用兵と見ていて気付いたのだが、彼女はどちらかというと野戦を好むようだ。不安定要素を味方にする天性の感覚があるらしく、タイミングといったような目に見えないものを掴むのは抜群に上手いが、攻城戦のように不特定要素が少なく理詰めで相手を追い詰めていく戦闘を得意にするにはまだ知識と経験が足りていなかった。だが、軍事に関しては全般に及ぶ素質は感じさせる。今は苦しんでいるが解法を見つけ出すのは遠くないだろう。
 頭を働かせているアリスを教師のような気持ちで眺めていると、天幕の外が騒がしくなったのに気付いた。それとほぼ同時に副官の1人が面会を求めてきたので、許可を与えると、真剣な面持ちで入ってきてこの騒がしさの源を告げた。
「敵が攻囲を破ろうと、西の歩塁に攻撃を仕掛けています」
 この報でアリスの思索は一端中断することになった。
 1度、大きく溜息を吐いた彼女は、報告に出向いた副官を連れて反撃の指揮に向かった。
 攻囲に破ろうとする攻撃にガラッシア軍は既に慣れようとしていた。それは怖い事だ。慣れに身を委ねると人間の判断能力は硬直する。そこでルーチンと違うことが起きれば途端に混乱に繋がって取り返しのつかない状況に陥るだろう。それを防ぐのは司令官の能力と直結する。現状のアリスの対応は及第点を付けられるものだった。
 彼女が敵を蹴散らしている間に、セレネスは副官の1人の訪問を受けていた。彼はコルネリウス一門の若者で、マルクスと言い偵察の指揮官で、その定時報告だった。
 微かな異変も取りこぼすことなく知らせろとの司令官の厳命に若い副官はあまり面白そうではなかったが、任務には愚直に取り組んでいる。
「何の異常もありませんでしたと報告したい所ではありますが、今日は、糧秣の徴発の帰りに見慣れぬ装束の2人組の男と遭遇しました。霧が掛かっていたのでかなり近づかなければお互い気付きませんでしたが、彼らはわれ等の姿を見ると1度逃げ出そうとしました」
 それは、庶民であれば当然の反応かもしれない。物々しい軍装を見て畏怖を覚えない人間は中々いないだろう。しかし、この地域の今の状況で、しかも霧の日に動き回っている平凡な庶民が存在するとは俄かには信じ難い。
 そう言った疑念は一先ず置いておきセレネスはマルクスに先を促した。
「尋問しようとしたのですが、言葉が通じませんでした。それでとりあえず、拘束して身を改めると、書簡を発見しました。これです」
 副官が粗末な作りの書簡を取り出しセレネスに渡す。中身はアルファベットで書かれていて、恐らくガラッシアのファラミル語と語系は一緒だろうが、変化し過ぎていて読解は不可能だった。
「どこのものか分かるか?」
「全く見当がつきません。ですが、土着の民との多少の共通性があります。おそらくそれの延長ではないでしょうか」
 副官の考えは妥当なものだった。黒い森の中か更に向こう側の民。存在は確認されているし細々と交易もある。まず疑うべきはそこだ。属州内でセレネスが全く不可知の出来事はそうそうあるものではない。しかし、一体、何の理由があってその民が手紙を持った男を今この地域を通行させる必要があるというのか。セレネスは感じるものがあったが、まだ確証のない内に拙速な対応をしないようにと自戒し、挙措を乱すことのないように心がけた。 「援軍の中に解読できる者がいないか当たらせろ」
 どちらにしろ、この文面を解読しないことには何も始まらない。
「はい。男たちはいかが致しましょう」
「拘留しておけ」
  一礼し、天幕を去ったマルクスが2人の援軍の人間を連れて慌しく戻ってきたのは、アリスが敵を蹴散らして帰還してから、あまり時間も経っていない頃だった。
「解読できました。司令官。――こちらが今回従事してくれた兵士です」
 2人の援軍の内、1人は司令官で、マルクスは彼を仲介して通訳を探したのだろう。その横でセレネスと相対して緊張しているのが、今回の功労者の士官だった。セレネスは彼を労い褒賞を与えてから、マルクスに対した。
「ご苦労だった。――それで文面は」
 逸る気持ちを押さえつけ、何気ない調子で言うと、マルクスははっとして慌てた様子で紙をセレネスに差し出した。
「文字に起こしました。内容はこの2人しか知りません」
「よくやった」セレネスはそれを受け取りながら彼を誉める。気の利く副官だ。
 セレンは翻訳された文に目を走らせる。逐次訳と速さを優先させた所為でおかしな箇所がないわけではなかったが、全体的には意味の取り違えもないように思える文だった。しかし、それによってセレネスの反応はより深刻にならざるをえなかった。
「どうした?」
 アリスが彼の挙措に違和感を持ったのか問い掛けてくる。その書簡が悪い報せであることを薄々と感じているのだろう。
「いや――これは。俄かには信じられん」
 アリスを無視する形になったが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。最後の行まで目を通すと、また1番最初に戻る。二度目をこなしている間に彼は善後策を考えた。
 彼が顔を上げると、副官が命令を促すように頭を垂れた。
「ご命令を」
 やるべきことを彼も心得ているのだろう。才気走ったことをするものだが、ここで小言を言うのは適当ではないと考えた。この状況の憂さを晴らしているだけにしか見えないだろう。
「まず捕らえた2人に真偽を確かめねばならんな。お前に任せる」
 マルクスは敬礼をしてから、連れて来た2人を伴って天幕を辞した。
 天幕には奴隷の他にアリスとセレネスしかいなくなり、時機を得たと思ったのか、再びアリスが口を開いた。
「何がどうなっているのか、聞いてもいいか?」
 アリスの問いに、セレンは手紙を差し出した。「読んでも?」との声に彼は頷く。目を走らすアリスの顔は徐々に強張って行き、手紙を握る手が微かに震えていた。
「これは――追い詰められたな。籠城する意味があったというものだ。まんまとあいつらの意図に乗っかってたというわけか。この私が」
 吐き出すように言い、手紙を投げ捨てるようにセレネスに突き帰して来た。そして、それでも気持ちが収まらなかったのか、地面を1度踏み鳴らした。
 文面には、食料の窮状の訴えが記されていた。一族を引き連れてきたので、慢性的に不足している。荷獣も全部食べてしまった。このままでは合流する前に飢え果ててしまうと。
 誓約に従い、救援に赴くのであるから、この右も左も分からぬ土地で光明になって欲しいと。
 一体、これはどういうことだ。国境を遥か彼方のどこの系統か分からぬ部族が反乱軍の味方をする為に国境に迫っている。いや、彼らには彼らの利益があるのだ。それを知っていた反乱軍の首領が利用したに過ぎない。長年、この属州で権勢を振るっていた実力をこんな風に見せられるとは。
 アリスのように感情を露にしたかったが、腹の中にしまい込んだ。飲み込んで、状況を分析しようと努める。
 総勢は分からないが、食料の不足が起こるくらいなら、かなりの大人数だと見なければならない。この思わぬ援軍の出現によって今まで様子見をしていた属州内の部族も動きを見せるかも知れない。そうなれば対応は不可能だ。敗北である。
 であるなら、完全に嵌り込む前に知ることのできたこの幸運を最大に利用して、事態を動かしていく必要があった。
「私が、もっと早く攻略してさえいれば」
 アリスが許しを請うような眼差しを見せるので、セレネスは首を振った。
「まだ、終わったわけではない。君はこの街の攻略に傾注するんだ。ここさえ落とせばいくらでも勝機は見える」
「でも、私はまだ」攻略法を見つけていない、と泣き言を言いそうなアリスを見据えて黙らせる。
「考えろ。それしかない」
 腹の底に沈んだ感情で瞳が揺らいだのか、アリスは怯えるよう目を伏せ黙り込んでしまった。発奮したかは分からないがともかく右往左往されるよりはマシだ。
 アリスは追い詰められたようにじっと虚空を見詰める。暫く、無音の幕が下りた。
「……山」
 アリスの呟きが静寂を追い払った。霊感に導かれた一言が生まれると続々と次の言葉が流れ出し、進むごとに語調が強くなっていった。
「そうだ。山だ。どうして気付かなかったんだろう。山は完全な境界線にはなり得ない。河じゃないんだから。――セレン、偵察を借りるぞ。登れる場所を見つけなきゃ」
 ああ、とセレンは頷いた。これでこちらの目処は立ったかもしれない。アリスは何かに憑かれたように、奴隷に語調強く、副官を呼び出すように指示し、それが現れたら細かな指示を与えていた。
「気付かれないように装備は軽装で、雨が音を吸収してくれるかも知れないが細心の注意を払えよ。後、測量もしてくれ。10×20メートル程度の平地があるかどうか。できれば、見通しがよく、街を望めるところが良いが。なければ後者の条件で平らに出来そう箇所も調べておいてくれ」
 その指示にセレンは首を傾げた。彼女が何を考えているのかその指示だけでは計りかねた。少し考えれば分かったかも知れないが、彼にも心を向かせなければならない問題が突如として湧き出てきたので、信頼できる副官に任せた事項に心を奪われたままでいることはできなかった。
 マルクスは出て行ってから1時間ほどで軍装に返り血を浴びて戻ってきた。一体、どんな拷問をしたものだろうか。
 彼はセレネスの前まで歩を進めると敬礼して、報告を始める。
「内容は確かかと思います。彼ら、アラマニ族と名乗りましたが、どうやら別の部族に圧迫されて身の振り方を考えてしていた時に、反乱軍の話が舞い込んできたそうです。土地をやるから移住してこないかと。その際に我等を蹴散らして欲しいと」
「理由など、後からでも良い。敵であることは分かっている」
 セレネスは不機嫌そうに言うとマルクスは司令官の望む方向に話を変えた。
「すみません。それで、今駐屯しているのは、まだガラッシアの勢力圏外です。15日から20日の距離かと。これは確認した方が良さそうですが。総勢は4万だそうです。尤も女子供、老人を合わせた数らしいなので、戦闘要員は2万を上回らないと思います」
 それでも反乱軍と合わせれば、正規軍の遥か上を行くことになる。これは一刻の猶予もない。
セレネスは奴隷を呼び、口述を書き留めさせた。
「まず、ホルタスに。1個軍団の編成を命じる。まず、指揮下の1個大隊を送り、その後は1個大隊を編成する度に送れ、割いた1個大隊は最後に補充するように。次は陛下宛だ。反乱軍の行動に呼応して異民族が襲来する気配を見せております。1個軍団での行動では鎮圧に多大な懸念を生じさせ得るので、2個軍団以上の指揮権を賜りたく思い、一筆啓上致しました。危急存亡の時であり、寛大なる処置を切に望みます」
 その書簡を何通かに複製してから、一通ずつ騎兵に持たせた。  そして、マルクスの方に向き直り、偵察を派遣ように指令を下す。相手から姿を認められないようにと厳命して。
 現状で終えておかねばならない事はそれで終わりだった。
4万をどう追い払うのかは状況を見て決めるしかないように思われた。とりあえず、地形の把握をせねばならない。ここ数百年来で南部の国境が戦争に巻き込まれたことはなかったから、地図があるのかどうかも怪しいが、当たらねばならないだろう。分かっていることはこの属州に4万の糊を満たすような大きな農場はないということだ。点在する農地へのアプローチが可能な場所となればどこに陣営を作るかはある程度予想できる気がした。
「幕僚会議を招集する。マルクス、残りの副官と百人隊長を呼ぶように」
 セレネスの言葉にマルクスは敬礼で了承を示し、天幕から辞した。


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