49.

 属州都のセレネスの邸宅は再び人で賑わうようになっていた。彼はもう完全に内政をアリスに手放していたから、名士との会合やら縁故を求めてくる伺候者やらとの応対だけが残った彼の仕事で、属州統治を大きく変革しようとしているアリスの奔走を傍目に眺めるだけであった。軍政両方に資質を見せたがやはり彼女は軍人の傾向が強い。専横と内乱によってぼろぼろになっていた統治機構の再編には強力な上意下達の確立を試み、それは実質成功しているといえる。反対するような者は粗方殺したか、そうでない者もセレネスの軍事的成功を背景にした権威には楯突けない。セレネスをトップに彼の決済なくば万事動かないように暫定的な組織を行い、その所為で彼の仕事が一時的に膨大な量になってしまったが、それに不満を述べるのは極力抑えた。彼女が試行錯誤、上げてくる書類のランク付けを行っているのを間近で見ていたし、色々な事を前倒しして、彼女を引っ張りまわしているという負い目も僅かながらも感じていたからだ。本当は軍の指揮を優と判定できる力量を見せただけで満足せねばならない。だが、その簡単にこなした器用さについつい色気が出てしまった。先に関して不安は多く、現状で可能なことは漏らさず行っておきたい。  それとは別に、どれだけの要求に応えられ、どの点で壊れるのか、試してみたい欲求が彼を突く。今のように苦しみながらも余す事無くやり遂げるかも知れないという僅かな戦慄を伴う予感が、彼の中で最も強く真実味を持っていた。それと共に期待もあり、早く確かめたいと彼を急く。まるで子供のようだと一人笑った。好奇心と虚栄心と野心が混じっていてとても綺麗ではないが感覚はそうだ。
 ともかく彼女は非常に優秀だ。それを疑う余地はない。内乱は当初狙った通り、それを外に広める恰好のできごとになっただろう。副官たちは自らの家に報告もしようし、セレネスが執筆している報告書にはアリスが出てこない箇所は殆どない。容色だけの存在とも、王孫の過ぎた贔屓とは誰も思わなくなる。そこで、彼女自身がアリスとして立つ試練に晒されるだろうが、それを切り抜けるかどうかも興味の範疇に入っていた。
 しかし、それは先のことだ。今はただ、多忙に四苦八苦している彼女を眺めて悦に入っていればいい。
 彼は自由な時間を自らの趣味に当てていたが、中庭を望める大きく開いた部屋で劇の脚本を口述していると、中庭を挟んで右手斜めの回廊で副官と立ち話しているアリスが目に入った。
 血走った目を向けて不機嫌そうに話すアリスに副官は多少怯えてさえいて、早く切り上げたそうにそわそわしていたが、中身が拗れているものらしく、アリスが手を振ったり睨めつけたり、話が纏まる素振りが全く感じられなかった。そうこうする内に今度はまた別な用件を持った人間が逍遥柱廊を歩いてきて、それが10分置きくらいに何度も現れ、小さな人だかりが回廊にできた。
 いよいよ彼女の癇癪が破裂しそうと気付いた彼は、適当に口述を切り上げ、助け舟を出そうと部屋を出て、回廊をアリスの下に歩を進めた。
 人だかりはセレネスを認めると挨拶の為に割れ、セレネスは手を上げてそれに応じていると、変化に気付いたアリスが振り返り、彼だと知ると微かに、だが、彼には分かる程度には表情を変えた。
「少し時間をいいかな?」
 その言葉に、彼女は本当に救われたといった表情をした。頷いた彼女に、他の案件を持ち込んできた連中は不満そうな素振りを見せたが、総督に異議を挟めるはずも無く、少しずつ退散していった。
 ようやく、人がいなくなった逍遥柱廊を2人はアリスが使っている執務室に向かう。
「助かったよ。とにかく私、私で馬鹿らしいものばかり持ち込んでくるんだ」
「後は個人的な陳情とか?」
 そう、とアリスは弱りきった表情で頷く。
「私よりお前の方がずっと意味も、やりがいもあると思うけどな」
 いくら長身といっても女性のアリスよりもセレネスは更に上背がある為、自然と彼女は見上げることになるのだが、弱ったような表情でそれをされるとひどく可愛らしかった。
「まぁ、大変だというのも分かるけどね、君の方を買っている人たちもいるのだろう」
「信じられんな」
「そうかな。君と友誼を結びたい人間は君が思っているよりずっと多いよ」
 実感のなさそうにアリスは首を振った。彼女はどれほど自身の地位が強化され他者が好意を求めてくるようになっているのかまるっきり自覚がない。このギャップはひどく彼女を苦しめることになるだろうが、これもどうしようもなかった。自らで助けるしかない。
 子供の騒がしい声が聞こえ、セレネスは足を止めてそちらに視線を動かした。中庭に置かれたテーブルに数人の10代の子供が集まって会話やその周辺で走りまわったりしている。幾分前より数が減ったが、反乱を経たのだからそれも仕方ないだろう。残った彼らはシンパになるように教育され、そして自らの部族に帰りその首長になる。こうして強い繋がりの元に南部属州はセレンの後背地となっていく。
「そういえば、お前を好いていた、名前はなんと言ったかな。――そう、ネルウィだったな。あれはどうしてるの? 姿が見えないけど」
 セレネスと共に歩みを止め、子供たちを望んでいたアリスが思い出したように声を上げた。その時だけアリスに顔を向け、すると、それだけで何を言おうとしているのか察したらしいアリスはすっと仮面を被ったように冷たいものを瞳に宿した。
「人でなし」
 自嘲気味の笑みを残して、セレネスは再び視線を戻す。騒がしかった子供たちは主人が眺めているのに気付いたらしく一様に黙って盗み見るように此方を見ていた。
「彼らは私の恐ろしさと寛容さを身をもって知ったことだろう」
「お前を討つと決然たる意志を固めた奴がいるかも知れない」
 固い言葉を発したアリスをセレネスは肩に手を遣って、中庭へ誘う。子供たちはセレンが近づくと蜘蛛の子を散らすように消えていった。誰も居なくなったテーブルに腰掛けると、萌え始めた草木の匂いが一番立ち上っているのに気が付いた。
「そうだとして、できるのであればやってみれば良い。事の成否は神々だけがご存知だ」
 無言で付き従っていた奴隷に飲料を持ってくるように指示を出しながらセレンがそう言うとアリスは揶揄するように口を開いた。
「女神がお前だけを愛してくれるとは限らないぞ」
「浮気者だという。だからこそか私とは相性がいいのだ」
 その切り返しにアリスは降参を示すように苦笑して首を横に振った。
「精々、嫉妬させないように気を付けるんだな」
 奴隷が冷たい飲み物が入った銀杯とフルーツを盛り合わせたものを持って再び現れ、セレネスとアリスの間に手際よく並べて行く。彼女はその中の杏を手にとって、一口齧ってから顔を顰めると、それ以上、杏には手を出さなかった。奴隷が最上級の物なのですが、とセレネスに向けて目で苦笑するように言っていた。
「嫌いかい?」
 その問いにアリスは肩を竦めて見せる。セレネスは笑み、彼女が諦めた杏に手を伸ばした。
「そういえば、直近のエテルノから手紙に私の報告書が元老院で取り上げられたことが書いてあったよ」
「どうだって?」とアリスは慎重に果物を見極めてから口に運びながら興深げに眼差しをセレネスの方に向ける。
「反応は様々だったらしい。まぁ、当然だろう。私がここで成功することを快く思わない人間も少なくない」
 一度だけとは言え、軍事面で成功は容易に彼を高い位置に押し上げる。他に軍事に優れる者は本当に少ない。僅かに老王とスッラだけだ。その中でもスッラは将来の不安になることがあっても今現在の障害ではない。元老院ではセレネスが大した失敗もせずに騒乱を平定させ侵し難い権威を手に入れたことに多少の不安を覚えているという。それを開けっぴろげにクラウディウスは言及し、元首の権威への挑戦だと言って批判を強めている、とエテルノは記していた。だが、逆に血気盛んな若者たちは徹底的な勝利に酔ってもいるとも。
 綱引きはいよいよ本格的な様相を帯び、対立は抜き差しならない所まで行きつつあるが、 やはり幸いはヘリオスが対立に乗り気ではないところか。エテルノもヘリオスが精力的に妥協に向けて動き回っている、と述べていた。これによってクラウディウスは牽制されているし、逆にセレネスも動きをあまり取れない。バランサーとしての十分な働きは老王に安心感を齎しているだろう。しかし、それも限界が訪れる。今年中には後継は否が応にも決まるのだから。そうなった後に分裂を回避するにはどちらかが完全に折れるしかない。果たしてそれが可能なのか、真面目に考慮することがあるとは思えなかった。
「しかし、成果は認めているようだ。不正は正したわけだしね。それから君の名も多少は知れた」
 着実にアリスは階段を登っている。喜ばしいことであるがアリスの表情にそれらしい色は見えなかった。彼女といえば、また外れを引いたのか、眉を寄せて銀杯に手を伸ばして水で流し込んでいる。
「ロザリアからも来てるよ。ルクセンブルクと会ったようだよ」
アリスは怪訝な眼をセレンに向ける。
「ミーネが妹に? どうして彼女がシオンに居るんだ」と言ったところで、湧き上がった疑問を目の前の男に結びつけたのか、「お前の指図か?」
「いや。多少の便宜は図ったが、これは元々の規定路線だ。マリウス傭兵団はその役目を終えつつある。君が知っていたかどうかは知らないがね、あれはガラッシアの出先機関のようなものだったんだよ。言うなればデルタに打ち込んだ楔だ。情報の収集とパワーバランスの調整を一手に引き受けてもらっていたよ。もう最後の方では機能不全に陥っていたけどね。今や、完全に意義を失ってはいるが、あの兵士たちは使える。補助軍団と正規軍の間、かなり曖昧な地位だが、正規軍として編入することになっている」
 説明を聞きながら指でテーブルを叩く仕草を見せていたアリスは鋭くなった目でセレネスを捉えていた。
「幹部の連中もそのまま?」
 セレネスはそれに否定を示す。
「マリウスは名門とは行かないまでも格式高い平民の出だし、アニタも似たようなもの、他の幹部も大部分がガラッシアの出だから彼らは自らの出自に戻ることになるだろう。その他の幾つかの例外は残ることになる。君が1番心配なルクセンブルクは、残ることを拒否して自由の身になることを選んだ。諸々が終わった暁にどうするかまでは知らないよ。しばらくシオンに滞在するとは聞いているが」
 アリスはそれを聞いて意外そうに目を開いた。
「彼女はすごく官職に拘ってたように見えた。飛び付くと思ったんだけど」
 一体、ルクセンブルクとの間に何かあったのかと疑うようにもっと突っ込んだ質問を投げかけて来たのでセレネスは盛り合わせからラズベリーを拾い上げ、アリスの口元に持っていく。彼女は不承不承と言った様子で小さく口を開け、セレネスの押し売りを受け入れた。はぐらかそうにするセレネスにアリスは責める様な視線を向け、セレンは首を振った。
「彼女の全てを知っているわけじゃない。君と比べても知っていることにそんなに差はないよ」
でも、とそこでアリスの険のある眼差しに違う意味合いが込められたように感じた。
「あいつはお前にも拘ってた。手紙をくれなくなったのを凄く気にしてたぞ」
 彼女が一体何を知りたいのか、――それを彼女自身が気付いているのか曖昧だが、その臆病さが滲み出ていた。奥底ではお互いに通じ合っている。しかしそれに彼女は確証がないのだ。それともいじらしく待っているのかもしれない。
「彼女はあの辺りで評判だったし、私もそれなりに名が通っていた、謂わば名士同士だ。お互いに意識する。当然の成り行きだ」
 アリスはそれ以上の話を拒否するように視線を切り、拗ねたように口を尖らせて髪を弄り始めた。そこで当然、彼の視線も動く指の方に流れ、その黒髪、最も強く彼女を印象付けるそれに目を移す。伸ばし始めたはいいが激務の所為か手入れを怠っているのか、それともその両方か、折角の漆黒が痛んで毛先の色が濃茶になっていた。
 何気なく手を伸ばして彼女の髪に触ると、驚きによってか身を固くしたが、手を払いのけたりはしなかった。セレンは微笑み掛けながら髪を撫でる。アリスはじっと凝視するように視点をセレンに合わせたまま身じろぎ一つしなかった。これ幸いに矛先を逸らそうと別の話題をゆっくりと語りかける。
「ちゃんとベテランの奴隷もいるはずだよ」
 諭すように言うと、アリスが嫌そうに顔を顰めた。
「他人に弄られるのは嫌なんだ」
「じゃあ、自分でちゃんとしなさい。シオンに居た頃はマシだったのに」
「それはテオドラとかいうのが、無理やりするから」
「流石の君も彼女には敵わんか」
 納得いったとセレネスが頷くのを見て、アリスは気に入らなかったらしく言葉に感情的な響きが混じる。
「一体、なんなんだ、あいつは?」
 声を荒げる彼女を宥めるようにセレンは髪を撫でる。感じ入るようにアリスは目を閉じた。穏やかにセレネスは語りかけた。
「私付きの奴隷の1人でね、1番、私と歳が近くて仲が良かった」
 目を閉じたまま、小さくアリスは頷いた。
「なるほど、それは態度が大きくなるわけだ。解放されて、お前の信が最も厚いと確信していればな」
 事実、当時の王孫付きの奴隷でセレネスのみに忠誠を誓っているのは彼女だけで、他は一体どうなっているのか皆目見当も付かない。つまりはセレネスの奴隷の最古参ということにもなり、セレネスの家で頂点に立つのに、何の不思議もなかった。そういう経緯もあってテオドラは元首の孫の解放奴隷であることに強い誇りを持ち、主人が選らんだ下賎な人間をどうにかこうにか上流社会に溶け込めるようにと骨を折るだろう。それにアリスは逆らえる筈もないし、セレンも止めたりしない。
 とは言ってもアリスもこういう性質だから、それを心から受け入れたりは出来ないだろう。
ふとセレネスはそれに思い至って、複雑な心境の彼女をからかってみることにした。きっといい反応が返ってくるだろう。 「私がやってあげてもいいよ」
「はぁ?」と、想像した通りに彼女は素っ頓狂な声を上げた。セレネスはそれを無視して自然に先を進める。
「エテルノの世話をずっとやってたからね。通り一遍はできるよ」
 その誘いにアリスはあからさまに動揺を示してセレンを楽しませた。少し考えなくても冗談の類に過ぎないと分かる筈なのに、気付かないところを見るとあまり冷静ではないらしい。必死に取り繕っていた仮面を剥がす、ちょっとした切っ掛けとなったようだ。
 自分を取り戻したアリスが乱雑に手で振り払うまで、セレネスは指に髪を絡ませて弄んだ。
「話はそれじゃない。ミーネは暫くはシオンにいるのか」
 アリスはもうすっかり全部を忘れることにしたのか話を引き戻して真面目な風を装ったが、それは少しだけ遅い。セレネスは微笑ながら、先に言った事を繰り返した。
「ああ。そうするつもりだと聞いている。私ももうそろそろ帰るし、会う機会もあるだろう、分かったら知らせるよ」
「帰る?」アリスはセレネスが何気なく言った1フレーズに引っかかりを覚えたらしく単純な疑問を浮かべて聞き返した。
うん、とセレネスは頷き、アリスの目を見据えた。
「こちらは安定化への目処がついた。私を留める深刻な理由はない。君もいることだしね。近い内、一週間もしない内に私はシオンに戻るよ」
 何か反芻したい素振りを見せたがそれは感情的なものだったのかアリスは口に出す事を断念し、ただ、そう、とだけ呟いた。
「君の後任も早い段階で派遣できるように手を回そう。その間は自由に属州を統治できる筈だ。短いが出来るだけのことはして欲しい」
「ああ、分かってる」
 少しだけ、声の調子を落としてアリスは答え、「じゃあ、仕事に戻るよ」と席を立った。
 逍遥回廊に向かう彼女を目端に捉えながら、まだ果物が残っている器にセレネスは手を伸ばす。そこで一つのことに気付き、控えていた奴隷に声を掛けた。
「君も食べるか? 1人には多いようだ」
 

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