50.

「無謀か遠謀なのか、俺にもよく分からんな」
 か細く、そのまま魂まで抜けるのではないかと思うほどの弱い息が漏れる。それを気に留める風でもなく、老人は愉快そうに笑おうとしたが上手くできずに咳のようなものになった。
 瀟洒な寝室は、風が横たわる老人に直接当たらないように用心深く調度品が配置されていた。元首の邸宅は大部分の街より高い場所にあり、窓の奥には治世の結果の心臓部を臨むことができ、老王の心を慰める。
 その老王は見舞いに訪れた孫からもう一人の孫の行跡を聞かされていた。
「怯懦を知らない人ですから。きっとあの人はその利点がはっきりと見えているんだと思います」
 そうかも知れん、と嬉しそうに言った所で痰の絡まった咳をする。死が、どうしようもないほど彼を掻き抱いていた。大きな寂寥感を感じながら、ヘリオスはそれを表に出さないように努めた。祖父はとっくの昔に受け入れている。家族である自分がそれに水を差すようなことは慎むべきだ。安らかに逝こうとしているのだから、悲しんでいることを見せてはいけない。
「それがセレネスの強みであり弱みだ。若い頃の俺もそうだった。だが、後を襲う奴が同じ轍は踏むまいな」
 兄に関することだけは祖父を喜ばせるようで病で頑固と偏執に囚われている祖父を解した。
「歴史は、兄さんの得意分野ですよ。昔、諳んじていたものを聞かせてくれたのをよく覚えています。ああいう人にとって今に生きることはそれだけで先人たちよりも成功する可能性を得るのだと思います。――正直、おれはホッとしていますよ。この国難の時、この国はおれに重過ぎる」
 ヘリオスがそう零すと、老王は微かに視線を外の方に揺らした。
「お前が得られなかったものも既に揃えておるな」
 後見人は同程度の人間がいる。官職では今はまだヘリオスの方が先んじている。だが、ヘリオスは執政官職だった時には軍団を掌握し、影響下に置き続けるようにする芸当なんて出来なかった。軍団の有無は決定的だ。政権は様々なもので権威付けされているが、それを実質的に正当化しているのは他ならぬ軍隊である。元首たる者は全10軍団全てを統御しておかねばならない。統帥が緩む時、それは動乱となって現れる。事実、老王の統御が失われつつある中で不穏な動きがないわけではなかった。
 ヘリオスとて、その意義を理解できないわけではなかったが、だからといって、セレネスのように強引に軍団指揮の機会を得ようと思ったことはなかった。
 このことが一つヘリオスの自信を奪ったし、祖父が持つセレネスへの期待の高さが決して虚像でないことも感じられた。
 そのセレネスは現在、正式な連番を与えられた軍団を一つ、指揮権の昇格で編成を認められた即席の軍団を一つに降兵で編成された軍団を一つ、計3個軍団をその支配下に置いている。彼はシオンに戻ってくるが、優秀な財務官であるアリス・アルトゥーラがセレネスと変わらずに統御し続けるだろう。兄はアルトゥーラを右腕に使うことによってより大きな選択肢を得ていた。これもヘリオスが持っていないものだ。美しく若い才能はセレネスの副官として元老院議員の間ですら知名度を誇るようになっていた。だが、「彼女の生まれは賤し過ぎる。元首の副官には相応しくない」
 過去に例がないわけではない。解放奴隷が執政を担ったこともある。いい時代も悪い時代もあった。それでも当時で評判が良かった試しはない。元老院のプライドを傷つけるし、慣例を知らない成り上がり者の言動は一々癇に障ったりもする。ただでさえ、セレネスが元老院との仲は良くないのだから副官がそれに輪をかけて不仲だと困るものだ。
 いや、尤もらしく理由を並べても、結局は高位の人間に相応しい背景がないというただ一点だけが懸念になるのだった。
「それは直接セレネスに言うのだな。簡単に意志を変えるとは思わないが」
「分かりますが、みすみす不和を助長させる要因を傍観するわけには」
「他にも候補が居た中でアルトゥーラを選んだのだ。その長短は承知の上だろう」
「それも疑問です。ホルタス、マメルクス、とセレネスと友誼のある嘱望されている若手の才能は豊富です」
「その内の誰が、今、1個軍団を指揮できる? 属州を統治しながらだ」
 結果的にアルトゥーラはそれが出来た。副官に相応しいことを彼女自らで示した。だが、可能性は全員にあるように思える。例えば、ホルタスは今度の戦乱では単独軍を率いたし、マメルクスは従軍しなかったが、首都付きの財務官としてエリートコースに乗っている。アルトゥーラの才能が飛びぬけているようには見えない。少なくとも兄が完全に信頼して自らの職権全てを委任状態に置くような程ではない。
 ヘリオスにはそう見えるのだが、きっとセレネスには別のものが見えているのだろう。だから、この結果を生んでいる。
 ヘリオスが黙り込むと老王はこの答えの出ない不毛の話から離れたがり、唐突に話題を変えた。
「クラウディアはまだ戻らないのか?」
 部屋の入り口に視線をやって義孫の再訪に心奪われているように振舞う。妻は最初、挨拶を済ませて、夫と義祖父が対話を始めると気を利かせて理由を適当につけて席を外していた。細やかな心遣いができる女の子で、情緒豊かな自分には過ぎた妻だと折りある毎に思う。
「そろそろ戻ると思います」
 言ったところで、奴隷が入ってきたので彼女が戻ってきたのかと体を開いたら、そこには先導に案内された兄が旅装のままに立っていた。奴隷にマントを外させた後に遠慮もなくずんずんと進み出、ヘリオスが席を譲ろうと腰を浮かせ掛けたのを押し留めて、ヘリオスの隣、祖父の枕元に立った。
「いつ戻って来られたのですか?」ヘリオスが問うと兄は簡単に答える。
「今し方。直接こちらに来た」
 奴隷が持ってきた水を受け取り一気に流し込んでから杯を返す。それを持って奴隷は直ぐに姿を消した。
「随分と属州では暴れたようだな」老王はしゃがれた声で言う。
「ああ、南部は俺にお誂え向きだったよ。こちらでどう評価されているかは知らないが」
 それはウソだと思った。そういった情報を収集していない筈がない。シオンにはエテルノもおり、彼女は詳細な情勢を送っている筈だし、彼の恋人たちは夫や兄弟の話を送り、息の掛かった騎士や議員も書き送っている筈だ。
「お加減は如何ですか? 随分と痩せられたようだ」
 神妙な顔で気遣う姿には多少、慰められる。祖父はその言葉を額面通りに受け取りはしなかったが。
「今年は保つまいな。喜べ、お前はその治世初期に汚名を被らずに済んだ」
「まさか」セレネスはぞっとする程冷たい声色でその言葉を発すると眼差しまで老王を射ないようにか視線をヘリオスの方に向けた。その視線はあまりに冷厳としていてヘリオスを反射的に席から身を離させた。すると今度は当然のように空いた椅子に悠然と腰掛け、余裕を見せ付けるように足を組む。ヘリオスはただ従者のようにそのまま突っ立ったままに、祖父とセレネスの会話に自分は相応しくない邪魔者なのだと痛感させられた。そんな内省を他所に祖父はセレネスに半死の人間には思えぬ重みのある言葉を吐いた。
「生き急ぐなよ、セレネス。なるほど、お前には時がある。人もいる。急く気持ちは分からぬでもないが、それでは女神の寵が離れかねん。彼女は意地が悪く残酷だ。しつこく求めると嫌われる」
「心に留めておきます」
「それと、目先のことに惑わされるな。何も自分で苦しい方へ進まなくても良い。例え正しかったりしても、避けたからといって誰も責めたりはしない」
 哀訴の響きが微かに篭っており、セレネスは応えられず目を伏せた。
「ところで、婚礼の儀の段取りはどうなっている?」
 セレネスが急に発した脈絡のない言葉がヘリオスに問い掛けたのだと気付いたのは兄が伏せた視線をこちらに寄越したからだ。出来る弟を体現すべく、大急ぎでそれについての記憶を探った。 「使節のやり取りをしている段階です。来年の6月になるかと思います」
「買った和平は何年だったか? ともかく1年は過ぎるな」
 セレネスは触れたがらない素振りを感じさせながらも端的に言った。自身の価値が端的に表れた結果に自尊心を大分傷つけられたらしく、その色が未だに顔に見えたがそれを見ない振りはできないらしい。プライドの強い人で、それがこの瞬間にも現れた。 「はい。それまでにこれまでの諸々を清算なさった方がよろしいかと」
 浮名は数多く、どれが噂でどれが真実かも定かではないが、恋人が何人か居ることは事実だ。ヘリオスは結婚を控えて、その清算は当然だと思っていたが、どうも兄の考えは違うらしい。
「どうして? 私は帝妹と結婚するのだ。テュルキルティスとする訳じゃない」
 この人は当の彼女が婚姻を望んでいたことを知っているのか。それでもこんな不実なことをするのか。いや、この兄はそれでもするだろうと確信できた。元々、なんの愛着もないのだし、それも自然だろう。
 だが、兄の結婚に対する態度はヘリオスにとって新鮮だった。彼自身、深く妻を愛していたのは勿論、父も母を愛していた。目の前の死に抱かれている老人も、早世した祖母1人だけしか妻に迎えておらず他に妾がいたという話も聞かない。珍しく潔癖な人間ばかりだったから、反対にセレネスのような人間が出てきたのだろうか。
「それでも妻を愛する努力はするべきです。そうでないと彼女が可哀相です」
 ヘリオスがそう言うと祖父もその意見に同調して、楽しそうにセレネスを責める。
「優しくして、誰かが悲しむようなことはないだろう」
 2人を相手にしてヘリオスは苦笑を漏らした。
「別に辛く当るとは言ってませんよ。ただ、私でいることを止めるつもりはないと言っているだけです。私は彼女を受け入れるし、彼女にも受け入れてもらう。それだけのことです」
 彼が言った所で、妻が飾った花を持たせた女奴隷を連れて現れた。彼女はセレネスを認めるとすぐに夫に視線を投げて、誰と問うた。ヘリオスはすかさず、まず妹を兄に紹介した。
「会えて嬉しく思う。弟から話は聞いているよ、過ぎた妻だと」
 兄がそう言うとクラウディアは恐縮しきりに頭を下げた。
「そんな。ヘリオス様こそ私には勿体無い方で。とてもよくして下さいます」
 それから、兄は巧みに言葉を選び、妻と世間話を繰り広げた。今までの顔とは全く別の面を見せて女性が好みそうな話題を選びながら、反応を見てその都度クラウディアの好みに話題を合わせていく。態度も女心を擽るような微妙な陰影を覗かせていて少しだけひやりとした。
「ああところで、君には頼みたいことがあったんだ」
 一段落会話が落ち着いた所でセレネスが何気ない様子で切り出した。怪訝な表情を浮かべてヘリオスを見た妻に向かって彼が頷くと、兄は先を進めた。
「誰に頼もうかと考えたのだが、やはり君に頼むべきだろう。家族である君に。実はアエテルヌムの姫の受け入れる準備を整えて貰いたい。本来なら私の母がすることなのだろうが、居ないのでね」
 その言葉に妻は喜びを見せつつも後ろ髪を引かれるような曖昧な態度を取った。ヘリオスはそれを怖気づいたのか、前に出るのを避けたいのかと受け取ったが、兄はより早く適切に原因を見抜いた。
「やはり家族に頼むのが適当だと思う。それで誰かの役割を奪ったりするわけじゃないんだよ。ある意味で君は私の弟の妻という立場を完璧にこなすことになる」
 それでも渋る彼女を見て、その原因がエテルノであることに漸く気がついた。なるほど、あの呪われたお嬢様は兄の妹か妻のようなポジションで、こういった要件に一番相応しいと言える。クラウディアはそれに遠慮していたのだ。
 しかし、兄が是非クラウディアに、というからには何かしらの意味が絶対にあるはずだ。妻がヘリオスの意見を探るように目を見た。
「いいじゃないか、クラウディア。お前にできないとは思わないよ」
 望みの綱を絶たれてとうとう彼女は観念した。
 その姿を満足そうに眺めて、セレネスは目的は達したのか腰を浮かせた。
「そろそろ、私は失礼するよ。では、陛下、また伺います」
 兄が自分の屋敷に戻るのを見送った後で、ヘリオスも辞去した。屋敷に戻る最中に輿の中で交わされた夫婦の会話はセレネス一色だった。何だかんだと言いつつ、妻はセレネスから頼られたことが嬉しいようだった。
「そこまでのことだとは思わないけどね」
 ヘリオスが面白くなさそうに言うと、クラウディアは母親のように微笑んだ。
「それはあなたがあの方の弟だからです。お友達の中に熱を上げている娘はいっぱいいるんですよ。私はあの方のことは半信半疑だったのですけれど。祖父にはもっと傲岸で傍若無人だと、聞いていたのですが、全然違いました」
 クラウディウスは孫娘にさえそんな事を吹き込んでいるのかと半ば呆れたが、言うなればクラウディアは楔で、彼の考えをこの家に侵食させるには最も都合がよい存在だと思うと納得だった。我々の結婚とて政略だ。有り触れた会話の中にそういうものが混じる。
「今のだけで見方を変えるのは早いと思うよ。用心しろというわけではないが、あれが全てではないことは勿論だから」
 私人として、公人として、その他は女性を前にして、色々な表情があるセレネスのその一つ一つ矛盾した面の所為でどれが本当の彼なのかを上手に隠している。ヘリオスと対している時でさえ弟に対しての仮面かもしれない。
「でも、強い人だとは感じました。お義祖父さまの元気な頃と似ていて。愛されていたというのもなるほどと。貴方はご両親に似たのでしょうか」
「かも知れない。両親の記憶は正直あまりないけれど、おれには優しい人たちだったよ。その分兄が不憫だったが」
「ご両親のことはお義兄様は何も?」
「何も。とても聞けることじゃない。聞きたくもないよ」
 兄がエテルノを連れて帰って来た時点で、結果は暗示されている。実際のところを知るのは怖かったし、兄の強い感情に触れることも恐ろしかった。
 ヘリオスの変化にクラウディアは気づいて身を寄せて細く繊細な手を重ねる。それだけで大分心が救われた。




 帰還したセレネスの出迎えに家の主要な人間が勢揃いしていた。それでも門の前に2列に並び総勢は10人程に過ぎない。一族はほとんどいないし、残った僅かな親類もセレネスをそう重視していないか、こちらにいない。寂しいものと一般的にはいうのだろうがセレネスにはこれがお似合いだった。親類の代わりに家族の筆頭は他家の呪われた娘が務めていた。
 性格を表して、このちょっとした慣例は簡単に気安く優雅なものになった。それに何とか慣れようとしている使用人たちの姿は心を喜ばせる。
「お帰りなさいませ」
 輿から降りたセレネスにエテルノは典雅に頭を下げると、彼はそれに笑顔で答えた。
「ああ、ただいま」
「ご無事で何よりです。数々のご活躍、シオンの地にも轟いておりました」
 セレネスがそのまま奥の自室に籠ると、屋敷は日常に瞬く間に戻った。日常の雑務の音すら聞こえない完全に私的な部屋を自室にしていて、贅を尽くした庭を椅子に座ったまま眺めることができる。そこで、奴隷を控えさせながら、彼は家庭教師の奴隷を呼んだ。
 間をあまり置かず現れた切れ者風な青年は準備よく二人の成績を文書化していた。セレネスは机で手紙を書いていたので、机の前に彼を立たせて成績書を受け取って目を通しながら彼の話を聞く。同時に質問も加えた。
「二人とも進捗は早いな」
「はい。柔軟性も割とあるほうで、特に妹の方は大変なもんです。この二人が揃って敵わないと言っている姉を教えてみたかったですね」
 もし正規の教育をアリスが受けていたら、と思うと惜しいが、考えても仕方のないことだった。彼女が道を開いたお陰で更に二人が光を受けた。その逆は絶対にあり得ないのだから。
「ですが問題がないこともありません。アウルスが妹と自身を比べて自信喪失気味です。逃げるように運動に精を出していますよ」
 セレネスは先を目顔で尋ねる。家庭教師は一度咳ばらいをして自らの職責以外の成果を誇った。
「体育館には色々な人間が揃っていますからね。アウルスは中々筋がいいようです。社交性のある性格も幸いして、ハンデを乗り越えて友人にも恵まれています。しかもグループの中心核としてです」
 色々な人間とは当然、良家の子弟を指す。この段階の友人関係が人生を左右することがままあった。セレネスは丁度アウルスの時分に人脈を築けなかったためにアリスを第一の副官としている。
「ほう、アリスとはまた別の才能だな。アウルスも使い道があるというのは悪い知らせではないな」
 セレネスの認識ではアウルスはロザリアのおまけ程度だったが、一個の駒と見なせるなら歓迎すべきことだ。想像もしていなかったところで大きなメリットを齎すかもしれない。顔の広い人間は意外なところで真価を発揮したりする。
「特に仲が良いのが、クラウディウス氏族の人間というのはどう判断すべきか迷いますが」
「それは私が決めることだ」助長した家庭教師を掣肘してから、セレネスは書類に目を落とした。ロザリアの件は流石に細部に渡っている。学術用語もセレネスは理解したから、家庭教師は評価を随分と強く彼に伝えることに成功していた。
「さてどうしたものか、じっくりと時間を掛けて育成してもいいところだが」
 伸び代は随分とあるようだから、連れ回して様々な体験をさせてもいい。特に15、16という多感な時期だ。しかし、やはり腰を落ち着かせて勉学に励ませるべきか。
「悩ましいな」
 答えは中々でない。人生を左右することを拙速に決めることなどできはしない。ともかく、ロザリア自身の希望も聞いてみるべきだろう。
 セレネスは家庭教師を下がらせ、アリスの弟妹を呼んだ。
 僅かな時間を置いて兄妹が緊張した様子で現れた。それを笑顔で迎え、緊張を解そうと机の前に立たせるのではなく、向かい合ったソファの方に誘った。その効果はあるかなしかの微かなもので内心、苦笑が満ちたが悪い気分ではなかった。
「私としては君たちの近況はよく知っているつもりなので、遠い感じはしないのだけれどね」
 行儀よく座ったロザリアが恥ずかしそうに目を伏せた。勝手が違うようで手紙の中の彼女ではいられないのだろうが、手紙の繋がりは赴任する前とは全く違った関係を齎してくれるだろう。
「まずはアウルス」セレネスがそう呼ぶとアウルスは緊張が極限まで達したように居住まいを正した。そして、セレネスが口が開こうとするところを先んじて思い切ったように口を開く。
「相談したいことがあるのですが」
 その切羽詰まった声に些か驚いたが、それは顔に出さず、頷いて先を誘う。「聞こう」
「これからのことについてです。ご存じでしょうがおれ、私はあまり成績がよくなくて」
 そこで多少言い渋る仕草を見せる。しばし逡巡して漸く内心を口にした。
「軍人になりたいんです。元々、そのつもりでした。貧民が就ける職業で一番マシだったし、正直憧れもありました。この話が来た土岐はまだ17歳になってなかったし、可能性を試してみたかったんですけど、やっぱり私には荷が重たかったです」
 ほよど妹との差が堪えたと見えた。
「軍人に?」
 念を押すように聞き返すと彼ははっきりと頷く。
「はい。分相応に百人隊長を目指そうと思います。この経験は良いものでしたが現実というものを教えられました」
 顔を僅かに翳らせて言うアウルスを見つめながらセレネスは思考を巡らす。軍人に、というのは教育を終えた進路として当然考えていた。年齢は軍歴を一般兵としても紅章付き大隊長としても始めるのに相応しいが、勉学のスタートが通常より遅いというのが唯一の懸念だ。進捗は早いがその他の平凡な良家の子弟に追い付いているわけではない。後一年弱は最低でも必要だと考えていた。
 それともあるか分からない軍事的な才能に頼ってみようか。アリスの弟ならばそれで身を起こす可能性も捨て切れない。人と交わる才能もあるのであれば、勉学の助けがなくてもその不足を埋めるものも得られるだろう。じっと見つめられていたアウルスは具合が悪そうに視線をしばしば動かす。
「よかろう。手配する。しかし、残り半年はしっかりと教育を受けることだ。それで一応の一段落が着く」
 わかりました、とほっとしたような、あと半年も妹と比べられなければならないのを嘆くような響きを滲ませたが、それにセレネスは追い打ちを加えた。
「紅章付き大隊長として、軍団に派遣しよう。どこか希望はあるか? できる限り応えてあげるが」
 その言葉を聞いてぽかんと呆けた眼を向けてきたアウルスににやりと人の悪い笑みを返す。
「一般兵などという無駄なことはさせない。私は何も慈善事業をしているわけではないのでね」
 抗議しようと口を開きかけたアウルスだが、自分がどう喚こうがこの未来が変わる可能性がないことに気付いたのか、口を噤んで、少しの間無言で堪えたかと思うとようやく最低限の決定を自らの手でなそうと足掻いた。
「では、姉さんと同じ軍団にはしないで下さい。お願いします」
「分かった。そうしよう」
 折角、逃げるのにまた比較対象ができてしまっては意味がない。そう思ったのか、単にアリスを避けたいのかは分からないが、それくらいの希望を聞き入れないほど余裕がないわけではないので、何も言わずに了承した。
 全部が決まるとアウルスは気が抜けたように息を吐いて椅子に深く座りこんだ。それを見てずっと黙って二人の会話を見ていたロザリアがくすりと笑みを零す。ただそれだけの動作で場を和ませた。アウルスは肩を竦ませてながらもしょうがないと言った表情だったし、セレネスもより私人の姿に近づいて兄妹に接することができた。
 それでもセレネスがロザリアを呼ぶとと緊張に固まった声を上げ、男たちは途端に笑った。その理由が分からないロザリアが顔を真赤にしながらも、ちらりとセレネスを見つめたものだから彼は笑いながらもおやと思った。
「では、おれは失礼します」
 そういうところに目敏いのかアウルスは腰を上げる。二人きりになって、そうなると意外に壁が立ち消えた。
「兄さんが軍人になりたかったなんて知らなかった。将来のことなんて何にも考えてないと思ってたのに」
 思わずといった風にロザリアが零す。
「君は考えているの?」
 セレネスが軽い調子で尋ねるとロザリアは心外そうに眉を寄せた。
「多少は。夢だってありますし、目標もありますよ」
 それは何となく意外だった。姉が大好きでその庇護を受けてほっとしているだけかとも思っていたが、アリスと似ているのか先が見えて欲も出てきたのだろう。悪いことではない。駒はいくらあってもあり過ぎるということはない。
「どういうの?」
 そう問われて、ロザリアは少し恥ずかしそうに目を伏せた。この初々しい反応は中々楽しいものがあるが、話が進まないのは悩ましい。とは言っても、慣れるまでは早そうだ。喋り出すと立場を忘れるくらい熱くなってついつい言葉が気安くになったこともあったし、手紙では相当に踏み込んだ内容もあった。
「君の成績は非常に素晴らしい。当然、その先も見えているだろうが、それとは関係あるのかな?」
 意地悪な聞き方だったが、他の道を見ている可能性はごく僅かだと踏んでいた。アリスを盲信しているし、頭も良い。興味がないはずはない。
「……それはちょっと卑怯です」
 口先を尖らせて不平を零す。こういうところで気の強いところを見せるのはアリスの妹だというのを強く感じさせた。彼女だったらもっと包み隠さないで不快感を示すのだろうが。
 笑いながら謝ると、不服そうに眉を上げてますます化けの皮が剥がれていく。
「もう少し、ちゃんとして下さい」
「私は真面目だよ」
「うそです」
 ロザリアのセレネスに対する本来の態度はおそらくアリスよりエテルノよりずっとセレネスに近づいている。アリスはもっと彼個人を見ているが生来の天の邪鬼だし、エテルノは対等ではない。
 セレネスが令名高き老王の孫、次期元首の有力候補と知っても、潜在的にその大きさを知らないのだ。ずっと雲の上の存在で、実感がないだろう。ただ、姉の一番親しい人物としか感じられないに違いない。
 それはそれで悪くなかった。踏み込んでくる人間なんてそう多くはない。今はアリスだけだし、ロザリアが加わるなら楽しくなるかも知れない。
「それで、私にして欲しいことは?」
 話を引き戻すと急に緊張を思い出したのか僅かに身を固くする。
「い、いえ、そんな特別なことは。今は勉強が大事ということは分かっていますので」
 殊勝な態度を取ったので、悪戯心を刺激されて、ちょっと困らせようと、そしてどれほどの興味を示すか確かめようと一つのプランを示してみようと考えた。
「そうかい? 私は秘書の紛いものでもしてもらおうかとでも思っていたのだが」
 ロザリアはセレネスが考えたよりも強く、その言葉に反応を示した。目に好奇心と別の何かしらの人の本能に根ざすものを見せて。
 それを見て、こちらを採ろうと決めた。しかし、やはり基礎も大事なのは変わりないので折衷する。
「勿論、勉学は続けてもらうから、タイトなスケジュールになってしまうがそれに耐えられるなら連れ回してあげるよ。大人の汚れた世界をね」
「はい、やります。やらせて下さい」
 殆ど即答で彼女は決めた。
「いいね。好きだよ、はっきりしてる子は」
 本来なら顔を赤らめて俯いたのだろうが、セレネスが鋭く冷たい目で言ったものだから、その意図を感じ取って、アリスとよく似た、それでもあれほど激しさと御し難さはない翠の瞳を細くしてセレネスを見上げる。それに微笑みで返すと、彼女も綺麗な作り笑いを張り付けた。


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