51.

 属州の支配者、というのは悪いものではなかった。セレネスがシオンに戻り、代わりの総督が寄こされるまでの3カ月程の期間に過ぎないがその間だけアリスは全知全能だった。セレンという内乱の勝者の権威と軍団の支持はアリスに絶対の権力を齎している。望めばなんでもできた。贅沢だって財産を作ることだって決して難しくなかったが、実際にそう成ろうとは思わなかった。とりわけ清貧を良いと思っているわけではない。ただ、成金趣味の評判だけは絶対にとりたくないだけだ。
 セレンが豪勢に享楽に興じても、それはただの放蕩にしか見えないが、アリスでは全く世間の眼は違う。その理不尽さに怒りを向けてもしょうがないことで、諦めるしかない。貴族と成り金は違うのだ。
 軽んじられることはまず第一に避けなければならなかった。特に幕僚への統制が緩むような事態は。アリスの指揮能力がセレネスの権威に左右されると思われることは将来に致命的な影響を及ぼす。
「痛い」
 櫛に髪が引っ掛かり、声を上げると、女奴隷が恐怖に駆られたように身を竦ませたのを感じた。小娘でロザリアよりも若い。おどおどした奴であまりいい買い物ではなかった。奴隷商人の酷薄さや傲岸さへの恐れをそのまま主人にも投影してるかのようだ。それは仕方がないが彼女のトラウマの不利益を被るのはアリスだ。それに対してそこまで強く出られない自分に彼女は失望していた。ほとほと人を使う才能がない。
 慌てて用意したことを反証しているようで、面白くなかった。セレンの言葉に唯唯諾諾と従っているようで、彼に知られたら散々からかわれるだろう。しかし、セレンの帰還で人々の目が全てアリスに集められることになってしまった。その時、戦時でもないのに、身なりに気を使わないのは侮られる原因の一つになるとはっきりと自覚したのだ。彼の言葉はいつも現実になって現れる。
「続けろ」
 平坦な調子で言うと、奴隷は恐る恐るといった感じで作業を再開した。梳る音を聞きながら、思考を内に向ける。色々な理由を並べたとしても多少なりとも身形に気を遣う気になったのは、やっぱりセレンから褒められた容姿を維持したいと思っているからだろうか。駄目出しをされて流石のアリスも傷ついた。
「もういい」
 その考えは何となく認めがたく、どうしようもなくなってアリスが立ち上がると、奴隷は急いで場を離れた。絡まった思考を手放して業務に専念しようと秘書を呼びつける。彼女をイラつかせるのにぎりぎり触れる時間に現れた奴隷もまた優秀とは言えなかった。アリスが財務官になった時にセレンが家の奴隷を何人かくれたものだがとても満足できる質ではない。セレンもあまりいい秘書を使ってはいなかったから、仕方がなかったのかも知れない。
 いい加減、彼に頼り切るのも止めて一新しようかとも考えていたが、何の当てもなかった。人の繋がりは殆どセレン経由だし、僅かな個人的な関係もあまりそういうことに向いていない。結局セレンが居ないと殆どなにもできないのだ。その現実は浮かれた気分に水を掛ける。
 細かい報告を上げてくる彼を眺めていると、その視線に気づいたのか、緊張で言葉を噛んだ。その様子に益々、不快な思いが募りアリスが腰をあげて秘書の言葉を遮った。
「それで、差し当たって私に報告することは」
 秘書は必死に思い起こすように頭を掻き、ようやくのこと、それを思い出した。
「ホルタス様が面会をご希望です。それと、今日が決済の案件が多少あります」
「多少? 具体的には」
 アリスが厳しい声で指摘すると咄嗟に思い出せなかったようで、必死に頭を下げる。
「書類を集めておけ――まずホルタスと会う」
 手で追い払い、アリスは応接間に向かった。そこには既にホルタスが居り、暇を持て余して眼下に望める整備途中の庭を眺めている。
「セレネス様の置き土産ですか」
 小さく笑うホルタスの横顔は若干の疲れの色が見えた。彼は軍団副官の第2位として、責任のある仕事をしている。借金漬けで女好きの退廃的な若者の評判とは反対の元来評価のある資質を見せて膨れ上がった軍団の運営に関わっていた。結果的に4個もできた軍団に大隊長の数は過少で、業務は過大だがホルタスは中心核として上手く回している。
「多少の浪費癖はあるからな。浮いた金もあったし」
 数万に及ぶ捕虜を売り払って得た金額は小さいものではなかった。それの一部を邸宅の改築に充てていた。二度と訪れることはないものに馬鹿にならない金をかける酔狂など、アリスにはさっぱり見当もつかなかったが、出来上がってくるそれを見ていると慰められる。それだけでいいのかも知れないと今では思うようになっていた。
「それは元首にとっては致命的な悪癖じゃないかな」
「さあ、私がそれに相応しい才覚なんて分かるわけない」
 ホルタスは苦笑し、振り向く。久しぶりに彼女の姿を見た彼は、アリスの小奇麗さに感心した素振りを見せた。
「随分と女らしくなられたようだ」
 その言葉に反応して徐に眼差しを向けると、ホルタスは逃げるように視線をずらす。「詰らないことを言いにきたのなら帰れ。私は忙しいんだ」
 癇癪に特に悪びれたものも見せず形だけの謝罪をして、ホルタスは本題へと話を変えた。彼も時間の余裕はないだろうし、アリスにもそれは好ましいことだった。
「軍団にも暇が生まれています。軍営地の拡張、充実にスケジュールを割り当てていますが、それにも限界があります。援助された1個は送り返してもよろしいのではないでしょうか」
「それはできない相談だ。1個軍団の差は大きい。特にこの情勢下ではな」
 4個軍団の保持者は他にいない。非常時の結果とは言え、数々の不利な中殆ど初めてと言っていいセレンのアドヴァンテージだ。それだけの圧力を持った人間に対して老王がよもや対応を誤るとは思えない。最も愛した人間の本性を知らない筈はないだろうから。
 彼がそれを特別アリスに言明したということはなかったが、意志の疎通は出来ていると思っていた。錯覚かも知れないがどこかで通じ合っている気がする。それともそう思い込みたいだけなのか。ともかく、軍団を忠実に数多く保持しておくことはセレンの利益に繋がるはずだ。それがアリスの名声の獲得の助けにもなる。
「分かりました」と不平の多少籠った声で返答するホルタスにアリスは、別のもっと根本に関わる話題を振った。
「実はこれから測量をしようと思っている。この属州は目ぼしい産業もないし、特産があるわけでもないが、我々が全ての土地を知っているわけでもない。もしかしたら、東部とまではいかないが鉱脈が見つかるかも知れないしな。ともかくそれだけはしようと思っている」
 南部は老王からも捨て置かれ、過去からの繋がりも絶えている。もう一度基礎から作り上げねばならないのは非常に骨が折れるだろうが、やらねばならない。そうしなければここは死んだままだ。
 その意向を初めて知らされたホルタスは興味深そうにアリスを仰いだ。彼の身長はやや低い。
「ほう、測量ですか。まず一年では終わりませんね」
「勿論。目先だけを見ていても仕方ないからな。ここが将来に渡って統治に専念できるかは分からないが、道筋だけでも立てておくことは大事だろう。方向性に関わることに多少の抵抗はあるが、測量程度ではそこまで触れるとも思えない」
 何より実績が欲しかった。財務官の大きな責任を背負っているのだからそれに見合う評判を取らなければ。セレンに比して軽く見られない為にも、相応しいと思われる為にも。
 気付くとホルタスがまじまじとアリスを見詰めていた。そして、息を吐く。
「なるほど、分かりました。必要な人員を言って下さい。提供します。我々は貴女の指示なくば動けませんから」
 アリスは頷き、もっと詳細を彼に伝えようと秘書を呼びつけて計画の走り書きを記したパピルスを持って越させた。そして、壁に掛っている布製の属州の地図に目を走らせる。それに歩み寄り、地図の東北部をなぞりながらアリスの目は鋭くなった。この国は東部属州に鉱山が集中している。鉄と銅が採れる。僅かに金も採れるが、銀は採れない。それはスッラ指揮下の海運の要衝の島でよく採れていた。鉱物資源が豊かな事が縮小の一途を辿ったこの国の衰退を緩やかなものにしている。貨幣の銀、金の含有量は数百年同じだし、それで、この世界の商業貨幣の地位を維持していた。
「普通に考えるなら、新しい鉱山など発見できようもないが」例えそうだとしてもやってみる価値はあるだろうと考えていた。測量を通じて、農地に向いている土地も見つかるかも知れない。どちらかというとそちらの方が主眼だ。農地が広がるのにデメリットはない。銀共々、島への依存が深いからスッラをつけ上がらせる。それがセレンに不利益を齎すなら、それを避けなければなない。
「とりあえず、東部から南部へ掛けて中心的に行おう。3回くらいに分ける。後が襲ってくれるとは限らないがな」
 自嘲と共に零すがホルタスは真面目な様子でそれを否定した。
「私は数年、従軍します。問題はありません」
 その語調の強さにアリスは眉を上げた。
「お前がそれほど忠実だとは思わなかったよ」
「美女の願いを断るなんてできませんからね」と冗談めかして言う。その言外の意味も受け取って、アリスの目は一層鋭くなった。
「礼を言っておくよ。一応な」
 それから内容に入っていく。部族との調整もあるし、ホルタスに任せる部分も大きくなる。そう思うとホルタスに対する不安は大きくなった。彼のミスがアリスの名を傷つけることにもなりかねない。この若い、女好きの借金漬けに信頼を寄せるというのは中々無理な話だ。しかし、それでも任せるしかなかった。内心を上手く隠して全く信頼している素振りで。
 セレンもアリスに軍団を丸投げした時、同じような気分だっただろうか。そう考えると少しだけ彼が近くに感じられた。
 すっかり説明を終えて、頃合いを見たホルタスが辞すと、秘書が現れて伺候者が集まっているとの報告を持ってきた。部屋に差す光は強くなっていてもう午前も遅かったのかと漸く気付いた。憂鬱な気分になりながら、アリスはそれに向けて頭を切り替える。卑屈なおべっか使いを相手するのはそれだけで不快だし、賄賂も哀訴も同じくらい面倒だ。それでもこなさなければならない。伺候者の数は端的に権勢を表し、訴えの処理はそのまま声望に繋がるのだから。
 それにしても、豪族の討伐で既得権益層を綺麗に一掃していたから莫大とは言えないまでも一財産には余りある属州の利権がそっくりそのまま残っていた。商人たちは独占権の獲得に躍起になり、徴税請負人は徴税権を競り落とそうと暗躍した。それはそれでいいのだが、それぞれがアリスを小娘と軽く見て、脅そうとしたことやぞんざいに端金で買収しようとしたことは彼女の逆鱗に触れた。彼らの背後にはコルネリウス氏族が居て、アリスは逆らえないと思ったらしいがそれは甘い見通しだった。それほどアリスの自尊心を傷つけることはなく、アリスは複雑な利害関係などを重視する気にはなれない。感情的な反発と理性に導かれた結果、意趣返しとして、利権を今まで相対的に力の弱かった全く関係のない部族に与えることにした。コルネリウスとセレンの関係上、下手に出られないと踏んでいた騎士階級や商人たちは自分たちの言動を呪っただろうが、いい気味だった。彼らは金は持っているし、ある一点では元老院階級を凌ぐかもしれないが、殆どのことで事の趨勢を決められない。
 セレンに何を言われるか分かったものではないが、それでアリスを止めることはできない。何もセレンに盲信しているわけではないのだ。
 応接間に移動した彼女は伺候者が並んでいた列を通って主人の為だけに用意された一つの椅子に腰かける。そして最初の人間が体を折り曲げるのを視界に納めた。
「閣下におかれましてはご機嫌麗しく存じます」
 この世の春を謳歌しているといった様子で、中年の男が述べる。秀でた額が印象的な柔和な面持ちの男だが新鋭の商人として名は通っているらしい。アリスに近づいたということはそのままセレンに近づきたいと意思表示しているのに等しい。いくら優秀でも強大な先人たちの壁は厚く、大きくなろうと思えば、セレンのような新進気鋭で破壊的な人間に組するしかないと考えても不思議ではない。セレンも自らの影響力を誇示する為に彼らのような思惑は歓迎すべきことのはずだ。
 アリスは彼女としては友好的な態度を男に対して示した。男はほっと胸を撫で下ろしているだろう。気まぐれなアリスの機嫌は日によって変わる。一度得ている以上、そう簡単に権利を取り上げられたりはしないのだが、それでも要らぬ軋轢は避けたいのだろう。財務官の庇護でこの属州を独占できているのだから、態度も卑屈になろうというものだ。
「どうだ。そちらの商売は」アリスが穏やかにそう聞くと、男は好意を最大限に表して答えた。
「閣下をお助け出来るのは喜ばしいことです」
 戦後直後の混乱期というのは一番儲けることのできる時期だ。それを独占できる旨みは小娘に頭を下げるのに足るだけの価値がある。
「私もお前を助けられて嬉しいよ」
 それから、細々とした雑談に話は流れると日の浅い付き合いにありがちな相手の感興を引くところを見つけようとする探りを男が僅かに覗かせた。アリスはそれをはぐらかしながら受け答えながら煙に巻いて悦に入ったが、その方法はセレンがよく使うものだと後になって気付いて驚いた。性格の悪さが滲み出ている。自分はそんなことはないと勝手に思っていたから、これはきっとセレンの所為だ。
 それはさておいても、その雑談も続くのを時間が許さず、アリスは早々に心付けを与えて、男を下がらせた。これで一番簡単な相手が済み、この後はいかにも面倒な対応が強いられる。今日の決済の案件を見るのには今しばらくの時間が必要そうだった。


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