54.

そして、全てを終えたかのように2月、最も寒さの厳しかった日に老王は死んだ。治世50年の末だった。一角の英雄である彼の死にシオンは慟哭で満たされ、国葬は中央広場でしめやかでありながら荘厳さを失わずに執り行われた。
追悼演説はセレネスが行い、彼の文筆の才をまざまざと市民に見せ付ける形となった。祖父を称えながら祖国と先祖を称え、それらの血を引く自らさえ引き立てる。その抜け目の無さは議員たちにはどう映ったことか。
 老王が崩御で空席になった最高神祇官にはセレネスが襲った。そうするように女祭司長によって公開された遺書にも認めてあったし、なによりその職は元首を形作る重要な権威の源でもある。祭事を司るというのは無形の途方もない尊敬を集めるものだ。その地位をヘリオスに渡すわけにはいかなかった。
そして死後初めて召集された元老院会議で老王の神格化の提議が可決され、それまでの元首と同じ様に彼は神君となった。
老王のくびきから逃れたセレネスは傀儡であるヘリオスと十分に協力して国事に当った。クラウディウスとの折衝はヘリオスが全部受け持ち、共同元首であるにも関わらず、官僚の様な悲哀的な立場に置かれることになったが、そこは調和を旨とする精神が存分に生きて寧ろ天職を見つけたと言わんばかりに生き生きとしている。セレネスが軋轢を避けてかなり譲歩したのも大きい。軍事面の独裁権を認められる代わりに元老院の動きに口を出さないという条件だ。つまりは内政に殆ど関与しない。
お互いに時間を必要としていた。それにやはり本質的に愛国的だった。ともかくアエテルヌムを追い払ってから、という無意識の合意が成されている。とはいうものの、この期間を無為に使うことなどしなかった。工作の手を緩めることはない。元々、時間を決定的に欠いていたから、この部分では共同統治はメリットがあると言えた。
血を流したくなかった。恐怖政治にだけはしたくなかった。それは全く理性に基づいてなかったが、祖父にはなりたくないという気持ちは抵抗できないほど強い。それに描く国家の姿が祖父とは完全に違った。だから、おのずと選択していく政策も違う筈だが、それを努めて強いているという嫌な感覚を拭い去れない。 いや、国家観は完全に違う。それは確信を持って断言できるが、そこに至るプロセスが重なることは考え得られた。注意深く自らの思考の動きを追わなければ。
「気にすることはない。お前はお前だよ」
 元首邸の内、セレネスに割り当てられた半分の彼の自室は流石、シオンの明媚を一望できるテラスがあって、そこの風の吹く手摺に寄りかかりながら、アリスが大らかに言った。強く美しくなった彼女は物事に対して幾分、楽観的になっている。それに元老院階級というものに慣れたということも彼女に確固たるものを与えていた。
「私には分かるよ。多分、私が一番、そう言えると思うんだが」  小首を傾げて言う彼女に釣られてセレネスはしょうがなさそうに笑う。それを引き出すものは確かに彼女は持っている。それが何からもたらされたか探し当てることはできないが。
「私は全然、懸念はないよ」
 6月にティルキルティスを連れた豪勢な一行がシオンに到着した。その出迎えにはヘリオスとクラウディアの弟夫婦が当たった。
 特にクラウディアはよくやってくれた。心の篭った準備はエテルノたちでは望めなかったものだろう。責任感からかそれとも本性からか兎も角それでティルキルティスの心を解したところもあった。悪意に晒されざるを得ない中で、認めて付き合ってくれる人間の存在は大きい。
 この点でセレネスは酷薄だった。あえてその現状を見ようとしなかった。妻となる女がごく少数とはいえ憎悪とすら表せる感情を向けていることになんの助けもしてやらなかった。形にならなかった不満を形にする偶像を与えることは、祖父の汚点を覆い隠し、クラウディウスの力を削ぐ。それがセレネスと近しい人間になることでの危険はあったがどれほどの賭けというわけでもない。
 冷淡に扱うことで満たされる下劣な感情もあるだろう。ともかくクラウディウスが唯一の受け皿でないことを示さなければならない。
 更に彼女をとことん利用しようと披露宴も類を見ないほどに豪勢に計画した。未だ市民を覆う老王の死をふっ切ってしまいたかった。王宮では連日連夜、宴が張られることになっているし、異国の珍味をふんだんに使った料理の手配も抜かりない。余興の喜劇役者も集めたし、剣闘士を何百人も集めた大会を闘技場で催す。金は湯水のように使う予定だった。
 この企画を聞いたヘリオスが「凄まじい計画ですね。予算が。幾らですか?これ」と圧倒され気味に聞いてきた時に「3000万はかけたくないな」と答えたら、びっくり眼となったことは一番の満足だった。
良識ある人々は眉を顰めてセレネスを責めるだろうが、これは必要な支出だった。吝嗇家と見られるのも避けられるし、市民には娯楽を提供できる。それに時期的にも老王への追悼と合同にさせなければならないという側面も持たせているから、責める声は小さくならざるを得ないだろう。
 こうした算段はすべて自らの手で市民に交わりながら行った。歳若い者がお高くとまってもしようがない。元老院との仲が微妙だからと、低層といえる市民との繋がりを強くしようと図っても無理はあるまい。彼らの力が微々たるものでもないよりはマシだ。それにまず以って元首とは権限であり身分ではないのだ。名分は少なくともそうなっている。有名無実なこの原理を振りかざすのは元老院の不興を買うだろうと容易に想像ができる。が、元老院の機嫌を今、窺ってもしょうがない。
 そういった方策の後、セレネスは紫衣を身に付け、芸術家に作らせた金の奉納品を用意して神殿に詣で犠牲獣を捧げた。神々に即位を報告し、その加護を祈る為だ。神祇官団と聖巫女たちを引き連れ、厳粛な儀式だったが、シオンの広場では乱痴気騒ぎの宴会が張られ、市民はその日から通常の祭日もあわせ、結婚式まで延々と祭が続く事になった。
 浮ついた空気の中、結婚式の準備は進められた。
 その当日、クラウディアがティルキルティスを飾り立てる算段をし、実行されている間にセレネスも正装をし部屋で待機していると、これまた正装したロザリアがひょっこりと顔を出した。翠を基調にした絹の丁寧な装飾を施されたドレスを一際強調するように胸元にはルビーが輝き、髪は編んで流している。むき出しの腕は白く眩しく、若さを十分なほど誇っていた。彼女は休んでいるセレネスに目を留めると、
「あら、あまり変わり映えしませんね。目先が変わるのかと思ったんですが」
「私の正装など、いつも見ているだろう。しかし、君は板についてるな。いつ見ても綺麗だよ」
 彼女は自分の居場所を見出して彼の背後を占有すると手を回して彼の頭を掻き抱いて恋人のように囁く。
「姉さんに同じ台詞が言えたら素直に喜びますよ」
 苦笑が漏れる。ロザリアも彼女なりにセレネスを心配していたらしい。彼がどうも気分が乗らないことに、多分絶対に認められないことだろうがロザリアは複雑ながらも好ましく受け取っていることを否定はし切れなかった。その思いを微かに感じながらセレネスは身を預けるロザリアに自らを感じていた。
「その姉さんですけど、荒れようが酷くて準備させるのが大変だったんですよ。誰かれ構わず当たるし、お付きの奴隷なんて震えあがってとうとう泣きだす始末です。正直、私も怖かったです。迫力が凄くて」
「無理して出席させることはなかったかな?」
「それはそれでまずいです。姉さんはわりと繊細なんですよ。無視しても傷付きますし無視せずとも怒ります。フォローしてくれれば大丈夫です。単純でもありますから」
「考えておこう」
「お願いします」そう言ってロザリアが離れると、セレネスも立ち上がる。時間が迫っている。ロザリアは自分で乱したセレネスの髪を背伸びしてまで整えて彼を送り出した。
「良い結婚式を」
 式自体は恙無く順調に進んだ。ヘリオス夫婦が全てを取り仕切り、1人1人挙げるのも億劫になるほどの有力者、実力者が式のあまりのつまらなさにそわそわしていることだろう。いい気味だ。  セレネスは一度も傍らの新妻に視線を全く遣らなかったが、華やかなドレスにヴェールで顔を隠し俯き加減のティルキルティスの心情は差し出した腕に乗っかる華奢な手から痛いほど伝わってきた。それに心が動かないのは少しだけ寂しかった。
 佳境に入り、ヘリオスに促されて新郎、新婦は向きあい、手を取って指輪の交換を交わす。参列者はお決まりに拍手を送り、ティルキルティスははにかみ、セレネスは慣れたもので曇りのない笑みで応えた。
 そのまま饗宴に移動しようと、参列者が一斉に移動を始め、騒がしくなる。ごく近しい人が二人に声を掛けていく。そこではクラウディウスも最低限の礼儀を果たしたし、他にも何人もの懇意の人物がセレネスに一声かけて去っていく。それに紛れてロザリアが近づく。彼女は思わせぶりに目顔でセレネスの視線を人ごみに誘導するとそこにちらとアリスの後ろ姿が映った。それを確かめて視線を戻すと彼女は押し出すように頷く。そこでセレネスは視線を切り、ティルキルティスの手を引いてお色直しにと一度引っこんだ。各々の部屋に戻る途中で別れ、彼は来た道を引き返し、恐らくアリスが向かいそうな人のいないテラスへ向かう。
 空は丁度、黄昏時で少しだけ夏の匂いがする。まるで世界が変わったように静かなそこに、銀の杯を抱えてちょっと憂鬱そうに俯いているアリスがいた。燃えるような真っ赤なドレスはびっくりするくらい彼女に似合っている。
「隣、いい?」セレネスがそう言って近づくとアリスは陰りのある笑みを浮かべてセレネスを受け入れた。
「いいのか、花嫁を放っておいて」
「少し暇がある。多分、誰も気づかないよ」
「そう」
 あまり元気がない。それも当然か、とセレネスは胸の内で1人ごちた。アリスには酷いことを強いている。いつもはそれに気の強さを発揮して反発したりするが、今回は流石にそれだけの元気はないらしい。
 アリスはぐいとゴブレットを傾けてワインを飲み干した。頬の辺りが赤くなっていて、目が少し据わっている。
「飲んでるね」
「そりゃ飲みたくもなる」
 しかも、精神的な影響の所為でいつものように自分を失ったりしていない。陰鬱な気分が酒で増長されて随分と酷いことになっていた。アリスは一頻り毒を吐き続け、そう思ったら途端に、弱い部分を曝け出して、状況に自分の言葉に、打ちひしがれてうろたえる。
「ねえ、どうしてこっちに来たの。そんなことされても惨めなだけだ」
 淡々と言う調子は本当に限界と言った様子だ。
 セレネスもいい加減に態度を鮮明にする必要性を感じた。今までの関係は最早、維持できそうもない。
 そうじゃない、と言いながら抱きよせた。身を捩って解こうとしたのを強引に抱きしめて落ち着かせると、反骨溢れる鋭い視線で射抜かれたがそんなものは無視した。
「おれが愛しているのはアリーだけだよ」声色に真面目な調子を含ませるのには失敗した。軽佻な男が軽薄な調子で陳腐な台詞を吐いても何ら効果がない。
「白々しい」顔を反らせて吐き捨てたアリスの反応は全く自然なもので、仕方がないので実力行使に打って出る。顎を手で向き直させてそのまま口づけしようとする。彼女は抵抗するように手で胸を押したが、内心の葛藤を示すように微弱だった。徐々に近づく顔は驚きに彩られていた。
 押しつけるように唇に触れる。じっと身を固くして受け入れようとするアリスは可愛らしく、ちょっとだけロザリアと反応が似ていた。失礼な感想ではあるが、分かっているからそうでないように振る舞おうとした。
「ほら、言っただろう?」
 顔を真っ赤にさせた彼女は物も言えないようで口をぱくぱくさせていた。愛しむように前髪に触れたり、絡めたりする。いよいよ視線に耐えられなかったのか琥珀の眼差しを切るように身体をぶつけてきて顔を丁度、胸の辺りに押しつけた。
「ウソ? なんで?」混乱はまだまだ収まりそうにない。
「ほんのちょっとだけ前に進んでみよう」白々しいと自分でも思った。
 髪で表情が隠れた彼女はそれでもこくりと小さく頷いた。
落ち着こうと深く息をするのが伝わってくる。意を決したのか彼女は冷静さと大胆さを装って、セレネスを見上げた。
「ねえ、もう一度」
 セレネスは笑み、アリスの頬に手をやって顔を近づける。唇が触れる時、やっぱり緊張が伝わってきたが、それは無視していつものように進めた。
 アリスは必死に余裕を見せつけようとセレネスの頭の後ろで腕を組む。彼女の意識はますます混迷を深めるばかりであり、それは微笑を以って受け入れられる。二度目のそれは甘美そのものだった。
「ま、別にそんな初な反応で楽しませててもいいですけどね、姉さん。そろそろ、花婿を花嫁に返してはどうですか?」
 そんなぞっとするくらい感情のこもっていない声がどこから振って来たかと振り返って見ると、テラスの入り口に寄りかかっているロザリアが、冷たい視線を寄越していた。
「もう、待たせるのは限界ですよ」
 流石にいつまでたっても姿を現さない新郎に辟易しているだろう。それをロザリアが態々、報告する理由は何もないのだが、やっぱりその辺りの性格はアリスによく似ている。
 身体を離そうとすると、アリスは名残惜しそうな上目遣いで不満をありありと伝えてきた。障壁がなくなった所為で、ずっと簡単に感情を見せている。多分、ずっとこれが欲しかった。
「行くの? どうしても?」
 髪を掻き分けて額にキスをする。
「行かなきゃ。義務は無視できない」
 離れる時に指が絡まり、それが繊細で、彼の心に触れてきて離れがたかったが、自分を押し殺した。
「言っときますけど、初夜ですからね」
 本当に要らないところで余計なことを言う。セレネスはロザリアの側を通り過ぎる時にちらりと見下ろしたが、彼女も随分と感情的にセレネスを見上げていた。
「強いて、そこまでとは言ってません」


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最終更新日 : 09/10/19

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