55.

 アエテルヌムの統治は過酷だった。まずデルタに駐留する軍団の維持費は全部デルタ持ちで、恐らくデルタ全体の人口は100万を超えることはないから、その中で支え得る軍団は10万を超えない。アエテルヌムは全くの援助なしで10個軍団と補助軍団を寄越している。彼らに維持に必要な物資の供給は勿論、デルタ持ちである。その上で、税を搾り上げるのだから、全く慈悲の心を持っていないと見える。
 戦乱に明け暮れていたデルタはそれまでも民衆にとって生きやすい環境ではなかったが、少なくともイウェールはラシェルが覇権を握ったことで安定と再建の目処がようやく立ったところだった。疲弊からの恢復をもはや望まなくなっていたとしても、これ以上の悪化から逃れられるとようやく息をつけるところだったのだ。それをアエテルヌムが打ち砕いた。今の雰囲気はまさに戦乱を予感させるピリピリとしたもので、決然たる指導者が立てば、事は一気に動き出すだろう。しかし、その指導者はラシェルではあり得ない。とはいえ、それと面識を作る程度は容易いだろう。どうであろうと何をするにも金は必要で、ラシェルはデルタで最も富裕な人間の一人だ。一般に恨まれているであろうラシェルであっても常に妥協は成り立つはずだ。それだけの理知的な人物だと期待したい。
 ラシェルはアエテルヌムの統治に協力しつつ、ガラッシアとの間に成り立っている暗黙の協約にも沿って行動していた。通信は数えるほどだが、認識を共有している。そんなラシェルの許に、アエテルヌムの宰相から、司令官級の位を帯びた人物を寄越すと記された書簡が送られてきたのは、アエテルヌムの姫君がガラッシアの若い元首に嫁いだとの報が駆け巡ったのとほぼ時を同じにしていた。名は家族名をウルソーというらしく、スカルウォラは降格されたもののデルタには留まるということだった。軍事と内政を分けるものらしい。
 敵対が解消されたとデルタ内でほっとした空気が流れた中で、両国とも微塵もそのつもりがないことが明白であることの証は、痛切にデルタの愚かしさを表していたが、ラシェルはそれを飲み込んで、司令官を迎え入れる手配をした。
 デルタをラシェルが代表することはもはや当然となっていて、アエテルヌムとボシュエ、コライユ両国の間を取り持つのもラシェルの義務だった。積極的に統治に協力した結果であり、ラシェルの策謀の可能性をより広げている。アエテルヌムも警戒しているだろうが、ラシェルの動きを封じることは不可能だった。
 司令官は数百の騎兵隊に守られて到着し、公邸の前で先頭で出迎えたラシェルの前に馬を巡らせて、その馬上から傲然と見下した。
「幼いな。こんなものにデルタが平伏すとは。やはりデルタはデルタか」
 侮辱の言葉に、家臣たちはざわついたが、ラシェルは卑屈にも恭順の姿勢を崩さなかった。
「わたくし共は貴方を歓迎します」
 それに冷たい視線を返す。
「知らせることがある。後で、呼び出すからそのつもりでいるように」
 彼はそれきりラシェルを無視し、公邸へ馬首を巡らした。蹄の音が聞こえなくなるまで彼女は頭を下げ続け、ようやく面を上げて振り返ると、憤懣やる方ないといった様子の家臣たちが目に入り、それにウインクする。
「最も暗い時間は夜明け前だ」
 アジャーニが不承不承といった様子ででも頷き、他の家臣団も倣わざるを得なかった。彼らには手を振って解散させ、ラシェル自身も邸宅へと引き上げ、新総督からお呼びが掛かるのを待つことにした。召喚はさほど時間を置かなかった。
 公邸へ赴くと、広間へ通され、そこはアエテルヌム風の雅やかな庭園を一望できる贅沢な場所だ。そこには台が備え付けられていて、精悍なまだ若い、40にはかかっていない傲慢そうな青年がその傍に立っていた。彼は妙に冷たい眼差しを向けた。
 彼はデルタの要と本国でですら見なされているラシェルに対して、全く敬意が見られなかった。勿論、年齢は倍するし、彼自身が戦功高くデルタで成功すれば将軍として確固たる地位を獲得するとみられているほど、声望の高い人物であるから、デルタの人間を殊更、低く見る心情も理解できなくはない。が、その欠点は足を掬われかねないだろう。
「端的に言おう。軍団を再編する」彼は自己紹介と挨拶を終えた後、出し抜けに言った。
 はあ、とラシェルは予断を与えないように慎重な言い回しを弄する。
「私はスカルウォラではない。したがって私のやり方というものがある。彼が指示した配置では私の要求に応えることはできない」
 ラシェルの返答を待たず、彼は白の漆喰の壁に掛けられた布のデルタの地図のその中央を南北を分かつように横切った。
「その全容を貴女が知る必要があるとは到底、思えないが、決定のみは知らせておこう。この線より以南は貴女方にお任せする。それまで配置していた軍団は以北に移動。伴って、以北の軍団の所在地も変える。貴女は南に行って頂く」
 イウェールはデルタの南に位置してはおれど、彼の物言いは、恐らく首都から離れることを前提にしているのだろうから、ラシェルの政治力を封じ込める思惑があるようだ。加えて、ガラッシアと近くに配置することは、寝返ることを念頭に置いて、被害をそれ以上広げないようにと考えている証拠だ。
「私は、この国の宰相ですよ」
「私はこの国家群の擁護者だ」
 抗議の声に冷然と返す。おそらくアエテルヌムも形振りを構っていられなくなったのだ。デルタが膝を折ってから2年が過ぎようとしているが、敵性の明らかなラシェルを排除できないのは、彼女の存在がデルタの安定に直結しているからだった。デルタの中心であるイウェールの軍事と内政を一手に引き受けている存在はいくら彼の国でも動かし辛い。
 それを敢えて行うというからには、それから起こり得る諸々を全て承知の上なのだろう。アエテルヌムはガラッシアとの一戦を不可避と見ている。そして、ラシェルを除かなければならないと確信している。
 身辺の警護には一層、関心を払わなければならない。
 殺し、殺される関係であると言明したような2人の視線は冷たさだけで絡みあった。
「ライン以南に貴方は何ら権限を持たないということでしょうか」
 これは重要なことだ。おそらくそうはならないだろうが。 「いや、そうではない。私は陛下よりこの地帯において独裁権を与えられている。貴女は私の代理に過ぎず、貴女の権限は私から独立しているわけではない」
 頷くしかなかった。
「これで、過不足なく命令を了解して頂けたかと思うが?」
「ええ、そうですね。いつ出発すればよろしいでしょう?」
「出来うる限りの準備ができた時点でだ」
 それに深く礼を取ると、総督は用が終わったと示すように手を振った。
日を置かずして、ラシェルはイウェールの首都を立ち、北へ向かった。彼女はイウェール国内の軍団の再編を行い、彼女自身は最も通信に効率のいい軍営地に本営を築いた。
そして、久方振りに軍団に囲まれて、兵たちと交わって過ごす日々を送ることになった。ラシェルは兵たちの擁護者でシンボルで、伯の継承問題でラシェルに勝たせたのは自分たちだという自負が兵士たちにはあり、彼女もその自負を満足させるように振舞ってきた。常に気を配り、愛顧を減らさないようにするのは実に努力の要ることだったが、その影響がこの滞陣で幸か不幸かいきなり現れてしまった。誰が指嗾したかは定かではないが、どうやらアエテルヌムによって軍を守り立てていた敬愛すべき主人が排斥されたらしいとの噂が広がって、反アエテルヌムにいきり立っている。
そうした空気の中、ボシュエとコライユ両国の志を一つにする諸侯にも連絡して即応の体制を作り上げる為に書簡を認めようとして、ラシェルは迷い、パピルスに羽ペンをつけられなかった。ぽたり、とインクが落ち、染みが拡がる。この勢いを利用しようべきかと、ラシェルをグラつかせる。怒りという感情は利しやすい。
決断の時は、今しかないように思われる。自らが決然たる指導者であろうとは想像しておらず動揺を誘ったが、それを落ち着けて考えてみても、やはり、こうした機会はラシェルにのみ与えられていて、生かせるのも自分だけだと自覚せざるを得なかった。それがデルタの限界だ。
だが、子飼いが1万。どんなに多く見積もっても2万を超えることは難しい。アエテルヌムは10万規模でデルタを支配していて、2万弱でどうしろというのか。いかなラシェルといえどもデルタを戦争において一つにまとめておくことはできない。そして、戦争は数だ。それをひっくり返すには一にも何にも敵の過失が要る。そして、人は往々にしてそれを犯し、女神に愛された者がそれを突く幸運に恵まれるものだ。ラシェルは6年前に伯を確立した戦いでそれを目の当たりにしたが、それ以降は数を基盤に戦いを進めてきた。その唯一の戦争を主導したのは若き日の、丁度、今のラシェルほどの歳だったガラッシアの若き元首だった。彼をなぞることができるだろうか。彼は決して特別な施策を講じたわけではなく、ただ一つ一つの決断が常に最善手に近かっただけだ。果たして、それをラシェルが得られるだろうか。
 やはり、ここが決断の時だ。
 ガラッシアの助力の確証とその時期が判れば……
 いや、と頭を振った。独歩での道の決意を鈍らせれば国を失う。ガラッシアの協力は利害の一致からだ。小国の生きる道はいくつかあるが、一つ一つの選択はそれ自体が容易く亡国へ向かわせる可能性を孕んでいる。強国に頼りすぎるのはよくない。それにラシェルの存在はガラッシアも唯一の足がかりと思っているだろうから、見殺しにはしまい。元首の妻を敵に回しても、参戦してくるだろう。加え、あのセレンが時機を見誤ることはそうそうあり得ることとは思えない。そう思うと、暗い喜びと共に決心が固まってくるのを感じた。
 ラシェルは考えを巡らせた。2万弱でアエテルヌムに対抗する策を。軍が再編され切ってしまってはもう遅い。まだ全土に散らばっている内に状況を動かして、対応を難しくさせる必要がある。そうして初めて光明が見えてくる。厳しいがやってやれないこともないかも知れない。あの総督であれば、可能性は開けるだろう。
 ラシェルは1度、瞳を閉じ、大きく息を吐いた。そして、ようやく書簡を認め、封蝋を終えると、従者を呼んだ。


BACK / INDEX / NEXT

最終更新日 : 10/2/25

SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ ライブチャット ブログ