57.

シャルトル伯にしてフォンテーヌ伯、コルスの代官、イウェール王国が王璽尚書ラシェルは自らの軍団を首都であるルーアンへ進めた。アエテルヌムは軍の再編を進めていたから、その時自由に使える軍団は限られていた。
ウルソーは、王城に参内し、その危急の知らせを愚かな王に奏上した。沢山の着飾った愚か者どもの中で、帝国の正装に身を包み、畏まって跪いて。
「極めて残念な知らせです、陛下。傲慢で無礼な宰相シャルトル伯が蒙昧な兵を率いて、このルーアンに迫っております」
 謁見の間がどよめいた。愚かなことに、イウェールでは国土の半分をラシェルが領している。それも豊かな土地、要衝を抑えた格好でだ。彼女の伸張を抑えられなかった王にもスカウェラにも、領土を安堵した皇帝にも腹が立った。今更そのことを持ち出しても意味はなかったが。
 ラシェルはこの国の兵の4分の3を保有している。1万2千だ。通常なら問題にならない数だが、ウルソーはデルタ軍を再編しており、各地に散らばっていた軍団を北部に移そうとしていた。首都近辺では、1個軍団しかおらぬ。補助軍団を使っても1万に満たぬ数だ。しかも、すでに移動の命令を下していて、今更留まって迎え討てという言葉に真摯に答えることを期待することは不可能だ。この最悪なタイミングでの反逆に、彼女の意地の汚さが表れているが、それを煽ったのは確かにウルソーだった。獅子身中の虫よりは相対する鼠の方がマシだと思ったが、以外にも猫ほどではあるかもしれない。  ウルソーは頭を上げ、王の顔を見る。中年だが、禿頭に弛んだ皮膚、窪んだ目に淀んだ茶色の瞳が所在なさげに揺れている。彼を見ると無性に苛立たしい。この覇気のなさからか、愚鈍さからか。ラシェルの父には支えられたようだが、娘には反対に追い詰められていることに当然恨みでも抱いていようがそれを窺い知ることはできない。ラシェルが宮廷のコントロールに関心を持たないことに同意できようというものだ。無視しても全く差し障りがない。宰相の地位はすでに王位に優越し、ガラッシアは交渉相手として彼女を選んでいる。王の威信は地に落ち、宮廷には乞食が満ち、この世に対する憎しみを日々こさえている。全く非生産的な場所である。
「陛下、これは反逆です。陛下の寛大さとお優しさに増長し、忘恩の徒となったシャルトル伯のすべての公職を取り上げ、また領地も没収すべきです」
 その行為にどれほどの意味があるが疑問だが、パフォーマンスは必要だろう。それで彼女を離れる貴族もでてくるかもしれない。薄い望みだが。
「あ、ああ。閣下のよきに図ろう。エヴルー公」脇に控えていた大叔父に声かけ、彼が進み出て一礼する。立派な灰色の髭を蓄えた偉丈夫だ。
「シャルトル伯の官職、伯を剥奪し、水と火を断て」
 かしこまりました、陛下と厳かな言葉とともに一礼する。そこで王は再び、ウルソーの方を向いた。
「迎撃は閣下にお任せしてよろしいのでしたな。御国との盟約ではそのようになっていたはずですが」
 その盟約を締結させたのはラシェルだったが、自らにその矛が向くことになるとは皮肉なものだった。
「もちろんです、陛下。私は皇帝よりデルタの安定と発展を導く命を帯びているのです」
 潮時か、と思った。首都は開けた平野の真ん中にある都市で、攻めやすく守りづらい。ここより王家の歴史は始まったのだが、王となったこの利点が王の力を奪う決定的な要因になるとは無情なものだ。しかし、全てのものには始まりと終わりがあるものだ。自らが原因にある内は幸運なのかもしれない。それはずっとそこに至るまで改善の可能性はあったということなのだから。
「では、失礼いたします。さっそく準備に取り掛からねばなりませんので」
 ウルソーは礼をし、乞食どもにも目もやらずに下がった。最正装は息がつまり、着崩しながら館へ向かう。館には既に幕僚が集まり、筆頭はスカルウォラであとは子飼いの将校たちだ。
 スカルウォラはウルソーが帰ってくるのに気付いて近づき詳細を報告する。以前に完全な支配者だった彼の心中は図りかねるが、地位を下げられてもよく働いていた。皇帝が重用する理由もわかりそうなものだったが、この程度の人間しか傍にいない皇帝の先行きは暗い。あまり深く関わることは避けたことがよさそうだ。
「シャルトル伯の軍は、南60kmの距離です。よく統制された軍で略奪などないそうです」
「物資は潤沢か。当たり前だ。豊かな土地はほぼ彼女のものだ。統制された軍? 勿論そうだろう。彼女はセレネスとアリスの薫陶を受けている。貴方が負けた2人だ」
「アウラ軍団がまだ、首都を発っておりません」
 スカルウォラはさらりと受け流して、報告を続ける。
「よろしい。それを差し向ける。スカルウォラ、貴方が率いよ」
 それには一瞬、驚きの表情が浮かんだが、すぐにそれを掻き消して、了承を示す。行け、と手で示すと、敬礼を残して彼は去った。
 他の幕僚2名を呼び、スカルウォラを補佐するよう命令する。それから残りの幕僚には、各々、別の各地に散らばせた軍団に向かうように指示した。
全員を任務に追い出してから、ウルソーは私的に使っている秘書を呼び出した。
「荷物を纏めろ、首都を発つ。向かうはリンブルフだ」
 リンブルフはボシュエ公国の大体中央に位置し、ボシュエ公国の首都であり交通の要衝でもある。ウルソーは軍団の再集結地に指定していた。攻勢にも出やすく、地方にも目を配りやすい。
「前哨戦は譲ってやろう。勝負はこれからだ」


ラシェルは、自らが無位無官になったことをルーアンに迫る20kmの距離で聞いた。空虚なことばだった。一体、どこのだれが、この王の命を遂行できるというのだ。王を担保するのはラシェルの力で、たとえ忠臣に恵まれていたとしてもすべての貴族が集ってもラシェルただ一人に対抗することなどできはしない。
 兵士たちへの揺さ振りの意図もあっただろうがそれも不発に終わるだろう。兵はラシェルが宰相で貴族であるからついてくるのではなく、金と栄誉を与えてくれるから従うのだ。ラシェルは領地をちゃんと保持していて、最も簡単に致命的になる財政面でも心配はない。
 首都を攻めることに関して、良心の呵責を感じることはなかった。王がおわす処に価値などなく、それでラシェルの権威が多少損なわれることがあっても手に入れることができればそれだけで、その損害は帳消しにすることができる。
 軍を進めると、それに先立って騎兵を偵察隊として派遣していたが、アエテルヌムの軍団が開けた平野で、待ち望んでいると報告してきた。その報告を聞き、ラシェルは百人隊長を資格とする会議を開いた。ラシェルの軍は整備にアリスの力を借りていた為に、ガラッシア風の組織になっていた。
「布陣している軍はアウラ軍団、主将はスカルウォラだ。数は歩兵3000、補助兵1000、騎兵500と言ったところだ」
「敵は浮き足だっている。再編の最中で、攻められるとは思っていなかったはずだ。アエテルヌムは確かに強大だ。しかしそれは一つ一つの軍、兵士が強いからではない。ただ、数のみで圧倒しているからに過ぎない。我らがいかに勇猛であろうと1人で10人を相手にすることは難しいからな。だが、3人程度であれば勝つことはできよう。我らがデルタの支配者だ」
「騎兵隊は私が指揮する。補助兵はロタール。軍団はアジャーニ。我らはシャルトル軍だ。私の兵である矜持を見せよ」
スカルウォラは策を弄するタイプではない。統治には優れた才を持つが軍事では直線的な素直な策をとる傾向がある。見えない何かを恐れる必要がないのはやりやすい。
 騎兵隊を重視するのはアリスの影響だった。セレネスが彼女の騎兵隊をいつも戦術の核にしていた。そしてその騎兵隊が鮮やかすぎるほどに強く、それは今も目に焼き付いている。それを再現させようとは思っていない。彼女の騎兵隊は彼女だけのものだろう。突撃力と機動力と統率の乱れなさをあれほどのレベルで両立させることは決して真似してできるようなものではない。しかし、その一方で普遍的な騎兵隊の有用性を彼女は示していた。
 スカルウォラは時間を稼ぐような素振りを見せつつ、しかし援助を得られない不安感からか、やはり勝負を挑んできた。デルタにおいて、ほぼ全域がラシェルのお膝元で、住民からの支持もある、と彼は見ているのかも知れない。
 その好機を逃さず、ラシェルは布陣させた。相対するようにスカルウォラも布陣する。平野に定石の、中央に軍団、両脇に騎兵隊を配する形で軍団の前に補助兵がスリングと短弓を持って待機する。スカルウォラの身に着ける真紅のマントが軍団の後ろにちらりと見える。まず、補助兵に、ありったけの投石、弓で必要に攻撃させた。
快晴の空が石と矢でその一帯だけ陰るほどで、敵の盾を貫き、使い物にならなくさせる。
 盾を捨て去るを得ず、無防備に剣を片手に怯んでいる敵にめがけて歩兵を動かすように命令し、すると命令が伝えられた百人隊長が各々隊を統御して動かす。しっかりと隊伍を組んだ兵との、既に出鼻をくじかれた格好のアエテルヌムの兵との衝突を前に、ラシェルは騎兵隊に命令を下し、駆け出した。アエテルヌムも負けじと騎兵隊を動かし、ラシェルはそれを見て、騎兵隊の進路を大回りするように外へ向け、相手が急に馬首を巡らせてラシェルの行動に応えようとしている大きな隙を捉えて、速さに乗って突っ込ませた。止まっている馬ほど的になるものはなく、騎兵隊はそれ目がけて剣を振るい、相手の馬を軽くさせると、馬はパニックになってどこか摩訶不思議な方向にむかって駆けていった。辺りは乱戦になり、それでも最初の勢いを駆ったラシェルの軍が優位に状況を進め、遂には相手に戦場を離れる者が出始め、すると、その勢いは留まることを知らなかった。
 騎兵隊が破られると知ると、大きな衝撃が走ったようで、総司令官の印が揺れた。少しずつ遠ざかっているのが見える。
 勝った、と思った。やはりスカルウォラは戦地で感情をコントロールできない。ちょっとの劣勢で負けたと思い込む。
 ここで首をとってしまおう。そうすれば、ラシェルの名声は天を衝く。スカルウォラなど問題ではないが、やはりアエテルヌムの名は大きいのだ。
 追撃に移ろうとし、今まさに命令を下そうとしたところに伝令が現れた。
「アジャーニ様からの要請です。このままでは戦列を破られるとのことです。ご助力頂きたいと」
「なんだと?」
 きっ、と見下ろす。水を差された思いで腹が立った。ラシェルは土煙の見える方に体を捩り、
「見えるか、あの先にスカルウォラがいる。追いすがり、打ち倒すチャンスなのだ」
 地平にわずかに見える影を指さし怒鳴るが、伝令も懸命に縋る。
「はい、分かります、閣下。しかし、よくお考えください。ここで、戦列が破られれば勝利を得たとしても全くそれが意味のないものになってしまいます。確かにスカルウォラの首はとれるでしょう。ですが、たかがスカルウォラではありませんか」
 言うことは尤もだった。スカルウォラの首をとったところで大勢には影響しない。それよりも軍団兵一人ひとりの方が得難い。数が少ないなら猶更だ。
 ラシェルは舌打ちして、不満気を隠すそぶりもなく、伝令に向き直った。
「よかろう。助勢に加わると、アジャーニに伝えろ」
 敬礼して去っていく伝令から早々に視線を切って、騎兵隊へ命令を伝えて向きを変え、追撃を取りやめて、軍団を撃滅せん為に急いだ。
 結果的に、斜め後ろから騎兵隊の攻撃にさらされることになった敵軍団はあっという間に統御を失い、圧力を失って逃げ出した。そこに今度こそ騎兵隊を差し向けて追撃させる。
 ラシェルは追撃を騎兵隊長に任せ、自身は護衛隊を率いて、打ち捨てられた本営を手に入れた。
 司令官の幕舎は、さすがアエテルヌムと思わせる豪奢さで、毛皮が敷き詰められた床に、銀の食器、絹の衣すらも出てきた。意外な戦利品は軍団の財政を豊かにする。兵士たちは臨時の財を得ることになるだろう。
「アジャーニ」
 呼び寄せると鎧をつけたアジャーニが息を切らせて入ってくる。 「ここは任せる。―――大丈夫?」
 大きく息をついていたので声をかけると、弱い息をして彼は頷いた。
「は、はい。ですが些か老体には厳しくなってきたようです」
 そうこうしていると、軍団将校が急いだ様子で入ってきて、この将校は戦利品を従軍商人に売りさばく役を与えていたのだが、手に持った何か小さなものをラシェルに手渡し、耳打ちをした。
「金の指輪です」
 彼女は眉を上げ、一度将校を不審げに見上げてから、掌に置かれた指輪に視線を落とす。
「それが? 別に金だろうとおかしくはない」
 大抵の貴族がする指輪は金製だ。意図が違うともどかしそうに隊長は言葉を選んだ。
「彫られている名前をご覧ください」
 手渡された指輪を覗きこむと当然の鏡文字が目に入る。
「P……プブリウスか、ニギティウス、……マイウス……?」
 それと共に意匠のこらしたマークが文字を覆っていた。これがどうした、と腹立たしげに吐き捨てようとしたが、その寸前に天啓にもこの名前が示唆する情報に気付いた。ニギティウスが属する氏族は、ガラッシア、アエテルヌム共通の17氏族の内、ガラッシアのみに存在する氏族だ。
 ぐっと、思わずラシェルはその指輪を握りしめる。その重要さに気付くのとその考えが浮かぶのはほぼ同時だった。
「運が転がり込んで来たかも。やっぱり自らの手で手繰り寄せるものなのかもね」
 そして、翳して透かすように指輪を見詰め、遊ばせる。
「こんな小さいものが、10万人を動かす」


朝の伺候を受ける為にセレネスは広い応接間に一つだけ供えられた椅子に悠然と腰を降ろし、眼下に広がる人の長い列を見下ろしていた。全く、この重要な時期に何をしているというのだ。ラシェルは北で奮戦している。アリスには軍団の準備を命令しているし、彼女の能力に疑念は欠片もないから早晩、軍団は万全の状態になるだろう。後は、出陣の命を下すだけのはずだ。しかし、実際はこうして、何も変わらない日々を何も変わらないように過ごしている。法学者は上手く難癖をつけられるような解釈を生み出すことに苦労しているし、都合のよい某かは起こる気配もない。アエテルヌムは未だガラッシアの重要な同盟国であり、皇帝と元首は親愛に支配される義兄弟だ。
 50頃の壮年の男が妻と手をとって膝を曲げ、深く礼をしていた。深緑のトーガで金の腕輪やら立場を誇示する宝石を身につけている。その妻は20歳ばかりは下だろうか、まだ若々しく夫に合わせて薄い緑のチュニカにベールを被っていて淑やかさを見せようとしているが、宝石の趣味で気の強さが押し出されていた。後ろに控えていたラシェルがセレネスの耳元に口を寄せて、茶目っけたっぷりに彼らを面白おかしく中傷する言葉を吐く。それに肘で小突くことで応えるとくすくすと笑いながら、元の位置に戻る。セレネスは咳払いして、一拍入れてから、挨拶を受けた。
「健勝かな、ナシカ」
 穏健そのものであった彼は最近やや傾向を変え、セレネス寄りとなっていた。息子の将来の為かも知れない。アエテルヌムに留学していた長男は最近戻ってきており、そのキャリアをスタートしようとしている。元首の愛顧を獲得していれば洋々たる未来が確約されるとでも考えているのだろう。それでもヘリオスではなく、彼を選んだのは不思議だった。  彼の弟の方が、ナシカのような穏やかな人物とは相性がいいと思われるのだが。それとも、ルフィヌスがシオンに居ない今、権力を伸張する好機だと捉えているのか。セレネスの支持基盤は未だ脆弱だから、付け入るすきは多い。
「たしか息子は、まだ、軍団将校を務めていなかったな?」
「はい、財務官を務めた後、そうそうにシオンを離れましたので」
「ふむ、では、丁度よい機会かもしれないな」
 その言葉に僅かな喜色を見せる。ナシカ自身にも執政官の地位を、とセレネスは思った。それも補欠ではなく、年に名を残せる正規の執政官としてだ。来年か再来年か。今年度の執政官は元首2人が務めているが、そろそろ辞任しようと考えていた。後に補欠執政官を襲わせて、執政官格の人間を作るのは伝統だった。そうやって属州総督の資格を持つ人間をストックしておくのだが、実際には数だけ増えてあまり実用ではなくなっている。とはいっても、それを改めると元老院の反発が大きくなるだろうから、現状ではそんなことはとても不可能だ。
「貴方も早々に閑暇を楽しむ間もなくなるでしょう。時がそれを許しはしない」
 言外の含みを受け取ったのか、今一度ナシカは頭を下げた。それから軽い世間話に方向がそれる。はやりの哲学のことやら、裁判のことやらそういったことだ。それを終え、下がらせると次の伺候者の番だ。次は毛織物組合の組長だった。元老院議員の純白に染めたトーガをついぞ着ることはなく、浅葱色のトーガを身にまとい、人相もあまりよろしくない30前後の精悍な男だ。まあ、職業組合というのは職人だけに留まらず、圧力用もとい交渉用に様々な種の人間を抱えているからその長が、まっとうな人間でないことはある意味で自然なのだが。
「調子はいいようだな」
「はい、閣下。閣下の御引き立てのほどで我々はなんとか飢えずにやっております」
 露骨な阿諛追従にセレネスは眉を上げて笑みを浮かべたがそれだけだった。
「配給も滞りなく行えておりますし、民は何も不満を抱いておりません」
「それで随分、そちも余裕があるようだな」
「まさか。ただ少々、数に合わないものがあるだけです」
 にやりと笑む。
「まあ、よい。何かあれば、小さなことも、知らせるのだ。知らず重要なことをとかく人は見逃しがちだ」
「御意に」
 こういった下層民と交わっている人間は以外なところで価値を発揮したりする。だからセレネスは交友を温めている。個人的な粗野さや欲望に忠実なところに小気味好さを感じてもいはしたが。
 列を無視してアリスがずかずかと大きなストライドで歩み寄ってきた。気難しそうな表情を見るにあまり機嫌がよろしくないようだ。暗い色のペプロスを着ているのがそれを強調していた。並んでいた他の連中はひどく迷惑そうにアリスへ視線を投げていたがそんなものに動じる彼女ではなかった。
「私と話がしたいなら、列を並ばないと」と言ったら、鋭い視線で見下ろされた。そして、いつものようにぞんざいな口を聞こうとして、衆目に気を払う知性は残っていたのか直前で改めた。
「閣下ではなく、別な人物に用があるのです」
 そう言って離れようとしたが、セレネスは手を取って押し留め、ぐいと引き寄せる。両の手を取ると鼻先に彼女の顔がある。戸惑うアリスの表情が愛らしい。セレネスのちょっとした対応の変化に適応しきれていない。
「よい。切り上げるよ」
 セレネスは控えるロザリアに目配せをすると、分かったもので彼女は前に出て伺候者に退出するように促した。伺候者の中からは多数の文句も上がったが、そんなものは無視しロザリアは己の職責を淡々とこなしていった。それを見て、アリスはセレネスを見上げた。
「別に大した用ではないよ?」
「アリスという用件は常に何よりも勝る」
 戸惑った笑みを返し、それでも微かに嬉しさを隠そうとしていた。
 アリスは愛人であり、全土に渡る命令を可能にする前執政官格命令権を保有する公人であり、セレネスが辞任を示唆しつつある正規執政官の補欠の最有力者である。それに特別な好意を見せることに意味は十分にある。
「朝食は食べたかい?」
 セレネスの問いにアリスは首を横に振った。
「では、軽く取ろうか」
傍の見えないところに控えていたテオドラを呼び出し、姿を見せると命令を下す。彼女は頷いて、他の奴隷を呼び寄せて耳打ちする。
 帝宮にあるいくつかの食堂の内、比較的小ぶりな食堂を選び、3人して入る。三面を壁に囲まれ、そこには色とりどりのフレスコ画が飾られている。一つ開いたところからは噴水が見え、その奥は小ぶりの庭園になっていた。
 そこに備え付けられた長卓につく。そこには既に朝食用にパンが籠の中に盛られ、スープ、猪の干し肉がそれぞれ陶器の上に盛られていた。
 セレネスたちはそれぞれ卓について、食事を取り始める。
「久し振りですね。三人で朝食を取るなんて」ロザリアがしみじみと言った。アリスが何とか自宅を見つけ出し(賃貸だったが)そこに居を移してからは朝食を早々一緒に取ることなどなく、時々、泊りに来た時にあったくらいだが、その時にはまだもう一人住人がいた。当然、全員がその人物を思い浮かべ、当然の質問をアリスが実の妹に向かってくりだした。
「アウルスはどうなの? お前には手紙を出してるんだろう?」
 ロザリアは自分に話し掛けられるとスプーンを置いた。反対にアリスはロザリアの返答を待ちながら、盛られたパンの山から一つ取ってきてちぎりスープに浸してから口に運ぶ。
「よろしくやっているようですよ。私たちの噂もあまり及んでいないらしいので、自分だけを見てもらえる、とのことです。でも、姉さん、姉さんのことは流石に噂されててその評判は芳しくないようですよ?」
 アリスが何の反応も示さないものだから、ロザリアは更に先に進める。
「元首を誑かした悪女ってなってるらしいです。全く、馬鹿みたいですけどね。でも、他に情報源がないとみんな信じちゃいます」
 どうしたってアリスの評判は元老院階級では悪かったから、その情報の伝搬でガラッシアの端にそれが到達する時には様々な尾ひれなどがついて事実がより歪められていても何ら可笑しいことはない。アリスはルックスがいいから、それが実力を過小評価させることはままある。
「それがスッラの戦略なのだろう。標的を元首ではなくその傍の奸臣ということにすれば、兵士もついて行きやすくなる」
 全く失礼な講釈にも関わらずアリスは自分の評判に無頓着だった。パンを一つ食べ終えると、すっと手を伸ばして果物を取り口に運んでいる。ちらと思わせ振りにセレネスに一瞥を寄越すだけだった。泰然と振る舞うことでセレネスに良く思われたいのかも知れない。泣きついているという事実から目を背けたいのか、それで自分を安定させたいのだろうか。
「だが、見え透いている。スッラも迷っているのかもしれないな。今ならまだ引き返すことができる」
「押し留まってくれることを切に願います。彼と争うことに特段の利益は存在しません」
「そうだが、人は常に理性で動けるものではない。彼は既に反乱を起こすものと見られているから留まったところでその目が和らぐことはないだろう。それに耐えられるかどうか疑問だ」
「だが、何も今でなくともよいだろう。対応するのがヘリオスとクラウディウスでは、重大な懸念を生じさせかねないからな。でも、どうやら、セレンの思惑は違うようだな?」
「そんなことはない。私はいつも平和を願っているよ」
「まあ、そんなことはどうでもいいけど、ヘリオスの安全は十分に配慮しろよ。さすがに無駄死にされると夢見が悪いから」
 なんだかんだと言いつつ弟のことが心配なのだろう。興味ないとの素振りだが兄弟愛には篤い。そんなアリスに笑みが零れ、また急に思い起こして水を向けた。
「それで、君は連れて行く軍団将校の選考は終わったの?」
 セレネスがそう問うとアリスは肩を竦めた。
「本当にもうこりごりだよ。なんなのあの人の多さは。まるで私の家の気がしない」
 どうやら、彼女に取り入ることを望む、現状不遇を囲っている人間が逆転を狙って押し寄せているのだろう。元老院議員といえど、名誉あるキャリアに乗れる人間は限られている。それにアリスは出自が低いから味方がおらず、これから家臣団を作らなければならないから、あわよくばともおもっているに違いない。そういった野心に晒されてアリスは困惑しているようだ。そして大変な人事権を握っていることに気付いたのだろう。自身を取り立て擁護する人間がいかに強大であるかも自覚せずにはいられなかったはずだ。
「でも」と少し表情を緩める。
「そうだな、これはと思うものは確かにいたよ。うん、どうして在野なのかなって思うのもかなりね。そう思うとちょっと怖くなった」
 過去の自分と重ねてみているのだろう。アリスよりずっと家柄も財もあり、それでも4人という定員に群がらざるを得ない現状に苦吟した姿は、あり得たアリスよりずっと恵まれたものだ。自らの幸運を改めて実感したとしても不思議ではない。
「だが、私は公正に、私の都合だけで選ぶ。恨まれようがな。そうあるべきだろう?」
「そのことで君に話がある」
 なんでもないように如才なく切り出したが、アリスはなんだかんだと言いつつ目敏いから、セレネスの声のトーンの微妙な違いに眉を上げた。
「あまりいい話ではなさそうだな」
「まあね。軍団将校は政治家としてのキャリアを左右しかねない。日の目を見る可能性に掛けたい若者は数多くいる。それに、私の力添えでその職を得るという見えない何かを望む有力子弟もいる」
「頼み込まれたの?」
 端的に切り込む声に責める色が覗く。
「君よりはきっと少ないけどね。しかし、君よりもずっと大きな人物たちからでもある。私は、それを全て無視することはできない」
「話だけは聞いてもいい」
「推薦する人物は2人だけだ。1人目はナシカ。コルネリウス一派のより穏健の有力な人物の息子だ。親の気質を受け継いで穏やかでこれぞ貴族というタイプの人間だよ。ここ数年は留学していた。君は会ったことはない。個人的に友誼があるから彼の立身には援助を惜しまないつもりだ」
「恩を売るのか、それに」
「ナシカと繋がりを作ることは君にとってもメリットだよ。ナシカはいずれルフィヌスの最も信望篤い友になるだろう。私にとってもそれは同じだ。そういう人間の息子の後見人になることは君に計り知れない権威を与えることになる。彼らが、王家に連なると呼ばれるコルネリウスの一門が君に選ばれることと私に選ばれることを同義ととらえていることは今の君のことを端的に表している」
 元首の寵姫というだけでなく実力者と見られつつある宮廷の雰囲気は望ましいものだった。
 アリスは押し黙っている。
「その、ナシカの息子は使えるの?」
「知らない。少なくとも私とは反対に位置する人間だ。慎み深く謙虚で公正な類の人間だよ。彼は私のことを嫌いだろうが、同様に私もまた彼に関心はない。使えないなら使えるようにしろ。もし、それも無理なら、適当な役目を与えるんだ」
 意味を咀嚼するような間があってから、ゆっくりと口を開いた
「2人目は?」
 そこで少しセレネスも躊躇った。しかし、そうも言っていられないので、仕方なく口を開く。
「2人目は、ルクセンブルクだ。彼女を遊ばせておくことはもはやできない。――ああ、そんな顔をするな。十分に意味は分かっているよ。それでも彼女は必要だ」
 不機嫌とまでは言わないが、同意は得られそうにない雰囲気だった。セレネスに向ける眼差しは鋭く、不満をありありと伝えている。
「説得できるの? 私は嫌だからね。今のあいつの心を解きほぐすなんてちょっと無理だし、大体原因はお前だし、それに私の下風に立つことを肯じるとはとても思えない」
「感情的な対立を解消することは常に可能だ」
「そうだとしても私は反対だ」
 ぷいと横を向く。アリスは少しだけ子供で、この純然たる国政の人事に私情を挟もうとしている。とはいっても人事など私情がほぼ全てを占めるものだが。
「友人のことだろう、もう少し親身なってはどうだ」
「ミーネの人生はミーネのものだ。私がどうこう言うことじゃない」
「とはいえ、君の為でもあるんだよ。十分に理解しているだろうとは思うけど?」
 言うと頭をふるふると振る。
「恩着せがましく言うな。私は一人でもやれる」
 それはある意味では真実だろうが、あまり信を置くことはできない。もし、アリスが家臣団を作る時、ルクセンブルクは中核になるべき存在だった。それに相応しい人物だとセレネスは見ていた。
「お前が必要だと思うミーネは私に必要じゃない。お前が彼女を欲しいなら私の名前なんて出す必要なんてないだろう。私に遠慮でもしてるの?」
「君に? この俺が? それこそあり得ない。確かに君の為だけではない。それは認めよう、しかしまた、ルクセンブルクの為だけでもない。私は彼女の才を惜しむ。そして君との相性も良いと信じている。友人だろう? 君は友人が少ないが選んでいる印象があるからね。これが最善だと思う。彼女は君を助け、君は彼女を助ける。私の個人的な感傷ではないよ。確かにルクセンブルクに対して君が思うところがあることは知っているし、その懸念は事実ではあったよ。しかし過去のことだ。誓っていい」
 とはいえ、セレネスの言葉が真剣に取られることはなく、不審に満ちた目でねめつけてくる。
「今は、ね」
「えらく信用がないな」
「お前の、女性関係に対する態度を信用しろと言われてもそんなものは土台むりな話だ。そんなことはお前が一番わかってるだろう」
 大分、苛々した口調で、ちらりとロザリアに目を寄越す。勿論、愛人2人を目の前にして、何をいっても無駄なだけだ。
「かもしれないね。つまり君は、ルクセンブルクが力を取り戻すことを恐れているわけだ。それによって私が変心することを」
 言葉にしてみると陳腐なものだったが、どうやら真実を言い当てたようだ。アリスは眉を寄せて「違う」とは、言いつつも思い返して頭を振る。「いや、違わない。そうだよ。その通り。お前はあの時、私とミーネを天秤にかけ、私を選んだんだろう? 後になってどっちも欲しいなんておかしいよ」
 アリスは結構、嫉妬深いのかも知れない。セレネスは自らの提案を引っ込めることにした。
「まあ、君がそう言うのなら、彼女を拾い上げるのは先送りにしてもいい。君に忠誠を見せよう」
 ここでこうした面を見せてもいいだろう。アリスはセレネスがそうした反応を見せるとは思っていなかったらしく、少しばかり驚いたように、発した言葉が上滑っていた。
「先送りって言葉が気になるけど、それでいい。私は今のところもうミーネと働く気はないから。ナシカは、使ってもいいけど」
と、セレネスを覗う。
「では、ナシカには会ってみてくれ」
 セレネスはその視線を受けて、満足気に言った。
 そこまでやっと話を持って行って、セレネスはようやく朝食に取り掛かった。ヤギのチーズを取り、パンを食べ、スープを飲む。ようやく一息ついた時には、既にアリスとロザリアは果物を摘まんでいた。
 セレネスが布きれで口を拭くと、アリスは立ち上がる素振りを見せた。
「今日は、これから予定はあるの?」
 アリスは肩を竦めた。
「残念だけど、一杯ね。お前がしてない仕事を私がしてるんだ。レガートゥスへの命令が山のように溜まってる」
「君がいてくれて随分と助かっているよ」
 アリスが去り、ロザリアもぱたぱたと忙しく席を立とうとした。
「君も忙しそうだね?」
「はい、残念ながら。セレン様からも言って下さいませんか? 私は忙しくて、あんな意地の悪い問題を片づける時間はないんだって。あの冷血漢に」
 どうやら、家庭教師とはうまくやっているようだった。ロザリアは数理問題に苦手意識を持っていて、家庭教師はそこを重点的に責めているらしい。とはいえ、事実、ロザリアに必要なものはすべて揃っている。弁論術、幾何、音楽。飲み込みが早く、一度教えたことは中々忘れない。一つ例外は、竪琴の腕が全然うまくならないことだが、口を回すことは得意の頭も指先まで繊細には操れないようだ。
「いずれにせよ、暫くは宿題からは解放されるだろう」
 ロザリアは笑み、背伸びしてセレネスの頬に口づけた。


BACK / INDEX / NEXT

最終更新日 : 11/8/15

SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ ライブチャット ブログ