58.

 アエテルヌムを破ったという事実は数百年続いた一つの神話の終焉を意味した。それほどまでにデルタの地位は低く、アエテルヌムは偉大だった。ラシェルはデルタに矜持を取り戻させた。あるのかどうか、遥か太古に遡らなければならない小さな矜持に過ぎなかったが。
 しかし、全くの大勢に影響のない勝利でも、精神的な作用は馬鹿にできない。勝利の影の文脈は容易にラシェルを一段上へと引き上げた。嘘のように全てが順調になった。小貴族は一様に彼女に好意的になったし、彼女を祭り上げていた人間たちは大いに実際的に動き出した。反乱が全くの無意味であるという言説が木端微塵になり、それならば一矢を、という人間が山のように現れたのだ。
 ラシェルはそうした謀略に携わりながら、しばしの間ルーアンに駐屯し、王宮に参内もした。王の動向をはっきりさせる為もあるし、廷臣たちに愚かな考えを抱かせないようにする為でもあった。また、日和見主義者たちを取り込むことも忘れてはならない。とはいえ、王宮はラシェルの影響の及びにくい世界であることもまた歴然とした事実だった。ラシェルはいかに兵を揃え、領土を保有しても所詮は伯風情であり、王宮の外から圧力は掛けられても、その中で力関係を左右することはできない。王族の誰かと婚姻でも結べば話は別だろうが、ともすれば王権が完全に瓦解するようなその選択を望むような王族はいない。現状ではラシェルが宮廷の外に存在することがイウェールを存続たらしめているといっても過言ではないのだ。
 ラシェルは自らが女王になりたいのか、と自問してみた。恐らくその望みは簡単に叶えられるだろう。色々な解釈の問題があるにせよ、それをうまく解決してくれる力をラシェルは持っていて、王は今のラシェルに対抗できない。しかし、しかしだ。王などは虚飾に過ぎない。セレネスが交渉相手にラシェルを選択している時点で、権力はラシェルの元にあるというのが公然の秘密なのだ。一体、権力を持たない王になんの価値があるというのだ。そして、ラシェルは今、権威すらも怪しい王の前で頭を下げていた。
「この戦争は私利私欲によって為されるのではなく、陛下にとっても、この国にとってもその矜持を懸けるに足る一世一代のものです」
 謁見の間で、大勢の廷臣に囲まれてラシェルは王に拝謁していた。ガラッシア産の高価な水色に染めた絹のペプロスで身を包み、ショールを肩に掛け、自慢の金髪にはエメラルドの髪飾りを挿し、一際目立つ格好だった。彼女は母にガラッシア人を持ち、シャルトルは他の領地と比べると先進国の洗練された文化を持った華やかな邦だ。しかし、少数派はいつでも多数派に白い目で見られるものだ。
「あるいはそうかもしれん。しかし、実際にお前単独で向かうわけではなかろう。ガラッシアとの連携はどうなっておるのだ」  その言葉にラシェルは下げていた頭を上げ、赤色の瞳で王を見据えた。この瞳が宮廷では悪魔の子のように言われていることを知っていた。父とも母とも似つかないからだが、その理由など知ったことではない。ある人は神々の恩寵と煽てるが、政敵には論う格好の特徴だった。
「徹頭徹尾、自らの力で成し遂げる程の気概がなければ、我々はアエテルヌムを否定した意味をなくしてしまいます。我々は我々の国を取り戻す為にこの戦争を始めたのです」
「始めたのは余ではない。君だ」
「私が我々だと申し上げているのです」
 そう言うと、王は目を逸らし、居づらそうに身を捩った。
「何が望みだ」
「私はただ、陛下や諸侯の方々に支えられているという実感が欲しいのです」
 シャルトル伯、フォンテーヌ伯は国境沿いの領地の為、伯といえど保有戦力は単独で国内で王に次ぐ規模だった。その両伯を持つラシェルは、合計して王の近衛軍を上回る軍勢を持っている。しかし、それがイウェールの持ちうる戦力の全てではないのだ。ラシェルの言葉は、王や諸侯にも一歩進んだ態度を表明させることを意味した。
 当然、王はそれに難色を示した。近衛を出せば、ラシェルのみを矢面に立たせられなくなる。全ては彼女の暴走という抗弁を失えば、いくらこの王でも国内を纏めて戦おうとするだろうというのがラシェルの考えだった。イウェールが一枚岩でなければ、この戦争は勝ち抜けない。
「近衛軍を出すことによって、国が一丸となって事にあたることを強調することができます」
「余、自ら出陣せよと言うのか。そちは自ら指揮を執りたいのではないのか。また、そちらの方が良いかと思うがな」
 指揮権の問題は極めて重要だ。王は名目上は国のすべてを統べるから、統帥権を保持しているが、実質的に封建領主である公や伯の軍を真実自らのものとして運営できない。そして、最も重要なことだが、この王は軍を操る力が自分にないとよく知っている。だが、ラシェルに頼ることは矜持が許さないだろうし、そもそも王が出張った場合に付いてくる近習共の誰一人にもラシェルは格の面で対抗できない。しかし、ラシェル以外に軍勢を指揮できる人間はいないのだ。
「その解決策を考えるのは私の役目ではありません」
 端的にラシェルは要求を伝えていた。一歩も引かないという気構えも見せているし、これ以上ない敵対的な態度だった。しかし、王や廷臣たちは負い目があることだし、王都周辺に一万の軍勢を駐屯させ、迫ってくるこの伯に、強い態度で向かうことができない。  王は永遠にも思える長い沈黙の後、諦念したように溜息を深く吐いた。
「よかろう。王太子を近衛軍の司令官とし、対アエテルヌムの総司令官に任じよう。お主には国璽尚書の代理を選定することを許し、また、近衛軍の副司令官とし、シャルル王太子を補佐し、導くように」
 ラシェルは恭しく一礼した。
「エヴルー公、シャルトル伯を王太子に引き合わせるように」
 傍に控えるお守の老公に言付け、王は玉座を立った。私室へ戻る王に廷臣共は頭を下げ、次に頭を上げると、一斉に口を開いて今の王の決定について論じながら、去って行った。
 残った老公はラシェルを一瞥し、
「新参者が国家の大事に軽々しく口を挟むなど」と吐き捨てた。
「閣下、事実から目を背けても、何も変わりません。宮廷はもっと開かれていなければ。ここは風通しが悪過ぎます」
「伯風情が私を批判するのか」
 ラシェルは何も言わず、頭を下げた。
 舌打ちが聞こえ、それから向き直る衣擦れの音が聞こえ、ラシェルは頭を挙げてその後を追う。
 この老人は王の叔父だ。かつてのイウェールで権勢をラシェルの父と二分していた。特に優れていたというわけではないが父は極力衝突を避けるような人間だったので、王家に繋がる名門であるエヴルー公に敬意を持って接していた。二人は懇意にし、たった10年程前の話だが、その頃によくされた覚えがあった。ラシェルの名付け親でもある。それがこうなってしまうのは一体どこで、道を違えたというのだろう。
 彼はラシェルのことは勿論、気に食わないだろう。辺境の田舎者と馬鹿にしても、政策を主導されていることに腹を据えかねているだろうし、実際に軍勢を展開されて脅される現実は苦々しいものに違いない。その心中は察してあまりある。だが、彼にはもはやどうしようもない。もっと前にどうにかして彼女を殺すしか道はなかったのだ。今は自らの不明を恥じて過ごす以外の途はない。
 衛兵の直立した脇を通りすぎ、先程の謁見の間の半分ほどの小さな部屋に通された。近習を傍に控えさせ、1人の男性が中央の椅子にすわっていた。王太子は栗色の縮れた髪が眉にかからないくらいの、特に特徴のない顔立ちの男で、髪と同じ色の瞳が神経質そうにちらちらと揺れている。まだ22歳だが、実年齢よりも幼く見える。こうして、正式に引き合わされるのは初めてだった。つまりは随分と遅い初陣ということになるのか。
 ラシェルが礼に則って挨拶をすると傲慢そうにそれを受けた。
「急に呼ばれてきてみれば、なんと騒がしいことか」
 じろりと舐めまわすような視線を受け、胸中に不快感が広がる。その意味を知ることはなかったが、本能的に忌避が働く。しかし、それを押し殺して王太子の目を見詰めた。するとちらりと彼の瞳に動揺のようなものが過るのを見とった。
「まあ、よい。私が総司令官になるとのことだったが?」
 声も細く繊細だ。動揺する心中を必死に隠そうとしているようだ。
「私が補佐致します。殿下の御心を煩わせることはありません」
 丁重に述べたつもりだったが、不快そうに眉を上げる。
「伯がごときに、しかも見たところ私よりも年下ではないか」
「私は今年で17になりますが、経験は積んでいます。初陣の殿下よりも、ずっと戦争のことを知っています」
 目を見据えながら言うと、怯えたように顔の筋が強張った。このタイプはおだてるよりも脅した方がよさそうだ。近衛が彼に従属するにしても、幕僚は全てラシェルのものなのだから、こういう心の弱い人種は厳しい態度に晒されるとなにもできまい。
「ですので、殿下があれこれと不安に思召すことなどありません」
「不安などと」とむきになって言い返そうとしたが、それでは威厳に欠けると瞬間的に悟る頭はあったのか、押し黙る。しばしの沈黙が下りた。
 しかし、とラシェルは自らの優位を確信する中で思う。これが未来の王なのか。2代続けて、その器たるを満たさないのか。微かな失望と諦念の中で、時代の潮流に飲み込まれるデルタを眼前に見るかのようだった。
 私がこの旗を支えなければ。デルタは、この国家群の民の命運は全てこの私に懸かっているのだ。
「すべてはわたくしめにお任せ下さい。殿下は何も、何も心煩わせることなく勝利を手になされます」



全市民を招待した盛大な祭の後、アリスは帝宮に泊まっていた。昨晩のことはよく思い出せない。昨日は朝から、彼は最高神祇官たる紫のトーガを着て神殿で犠牲獣を捧げ、祈願した。そして、シオンのフォルムで神々に捧げた犠牲獣の肉を焼いて市民に振る舞った。ワインもその他の楽しみをセレンは大盤振る舞いした。それを見遣り、元老院議員の良き人々と挨拶を交わしたことは覚えている。彼らはアリスがセレンの片腕として指揮権を握ることを歓迎してはいなかったが、殊更、言葉にすることはなかった。例え2人いるうちとは言え元首の采配に口を挟むことへの恐怖が前代から染みついて離れないのだ。アリスは彼らを軽蔑し、彼らはアリスを憎んでいる。元老院議員たちとのつまらない時間を過ぎると、後は近しい人間との他愛ない時間だった。エテルノやミーネと言った友人たちとの。そこの興が過ぎてきた頃からの記憶が随分怪しい。特に酒に溺れたわけでもないが、一口も飲まなかったということでもない。ロザリアに遊び半分で飲ませられたからだが、そうなると途端に記憶が不明瞭となる。何か変なことを口走ったような気もするし、それとも行動だったか。
ともかく重い頭を振り、朝日が差すベッドから身を起こした。彼女たちとの砂上の楼閣が如き友情に浸っても何の益もない。宮殿はもう既に完全に起き切ったように生活の息吹を感じた。ここでは数千人の奴隷が働いているのだから、さもあろう。しかし、それは全く別の世界のように遠く響くだけだ。この、宮殿の主の寝室は全く俗世から切り離されたように静謐だった。ここで、老王は死んだのだ。
 アリスはのろのろとベッドから這い出し、肩を滑り落ちたチュニカの肩紐を直しながら、壁際の水差しの方へ歩いて行き、杯に水を一杯にして喉を潤した。
 穏やかな朝だ。戦争への進発の朝にしては皮肉的なほどの柔らかい。天蓋のついたベッドに目をやるとセレンが横向きになって寝息を立てている。
この男が今から幾年に及ぶか分からない戦争をしようとしているのだ。国庫を開き、市民の血を流し、未来数年か数十年か数百年かの趨勢を決める戦いを決断したのだ。デルタの攻防は決してそれ一つで完結するものではない。後に続く絶え間ないアエテルヌムとの抗争を透視しながらの決断は彼の治世の方針を端的に表しているだろう。
 そして私はその先兵なのだ。
 アリスは寝ているセレンに歩み寄り、起こそうと肩に触れる寸前に、少し思い直して、茶目っ気を出すことにした。
 偶にはロザリアみたいに振る舞うのも悪くない。ああいう風に媚びてびっくりさせてやろう。
アリスは仰向けにすやすやと眠るセレンの上に跨り、顔に顔を近づけて頬を軽く叩いた。刺激を避けるように逃げる彼に追い打ちをかけると顰めていた目が開き、目と鼻の先で目があった、
「何してるの」
「おはよう」
 セレンはしょうがなさそうに笑い、アリスの頭の後ろに手を回し引き寄せ、唇に軽くキスした。髪が片方の首筋から零れ落ち、セレンの胸に触れた。
「君がこう積極的だとは知らなかったな」
 セレンはその髪を撫ぜ、それが不思議と心地よい。セレンはアリスの髪を殊の外気に入っていて、そう言えば伸ばすように言ったのも彼だし、それを愚直に聞いているアリスもアリスだった。
「偶にはいいだろ。別にロザリアの専売特許じゃあない」
 あいつはとにかく自然に媚びるのがうまい。こういうことだって平気でするし、それに疑問を持ってもいないだろう。それが羨ましいのかどうかちょっと自分では分からない。
「偶にどころか、毎日でもいいくらいだ」と笑いながら言う。
「あいにくだな、私は今日、出発だ」
 前と比べてセレンは随分と甘い言葉を掛けてくるようになった。その変化に慣れないままだが、決して不快なものではない。いや、多分それは控えめに過ぎ、嬉しいとさえ感じている。これをロザリアはずっと得ていたかと思うと腹立たしい。柔らかな眼差しと温かい手を欲しくて欲しくてやっと私は手に入れたばかりなのに。
 胸に頭を埋めると緩やかな心音を感じる。懐かしく、心が落ち着いた。どうしようもなく離れがたい。こんな子供じみた感情が内に残っていることに驚きと喜びがあった。
 セレンが頭を撫で、益々その気持ちが募る。
「すぐ私も行くよ。準備が出来次第ね。君が国境を超える頃には、ガラッシアとアエテルヌムは敵同士になっているはずだ」
 結局、2国間の緩やかな連帯は、言いがかり程度の抗議で、簡単に崩壊することになった。既に結集を終えていた騎兵隊を先遣するという命令が伝えられたのが一週間前だった。その指揮官は当然アリスである。
 橋渡しの王女のことなど誰も考慮に入れず忘れ去られた。殆ど、セレンの思惑通りになっている。アエテルヌムの若き皇帝はセレンに北上されたくなかったはずだ。スカウォラの失敗でセレンを甘く見ることはないだろうし、デルタを係争の場とすると彼の実績は全くなくなってしまう。和平はなんとしても彼が繋ぎとめておかねばならない生命線で、その代償は他の何でもそれに足るものであったはずだ。それができないということは、皇帝は国内の統御を失っているのかもしれない。それとも危険な水域にあるのか。
 今度の戦争では、本国からの支援はあまり手厚いものではないだろう。それが可能ならラシェルはとうに除外されているはずだし、セレンの登場を許しはしない。
 全てはセレンの掌か。決定的な通告を携えた使節は今、どこを通っているだろう。その逆算から全ては動いていた。
「私は彼女を助ければいいの?」
「そうだな。助言という形にはなるだろうが、実質的には命令になるだろう。対外的には盟友になるが、実質的にはラシェルには軍団長相当の地位を勤めてもらうことになる」
 ラシェルは相当な無理をして1万を超える軍を動員していたが、それでも数でいえば2個軍団に過ぎない。そして、そもそもデルタとガラッシアの格の差というものもある。それに照らし合わせれば、ラシェルはやはり軍団長相当というのが適切なのだ。
「前と全く立場が逆になるな」
 数年前のセレンとの出会いを思い出す。あの戦争とラシェルとの出会い。
「あの頃とは全てが違うのだ。君は傭兵ではなく執政官なのだからね」
 劇的な変化だ。未来も何もなかった少女が、今や伝統ある国で縦の地位にある。あの時平伏したものをそっくりそのまま返してもらえる。
 アリスはセレンの辞任に伴って、補欠執政官に就任することが決まっていた。この数年の転変には驚くばかりだ。あれよあれよという間に、位人臣を極めてしまった。全て形の上だけで、抜擢に次ぐ抜擢は、周りから全く認められていないが、それでも執政官であることには変わらないのだ。
「次は、正規の執政官が欲しいな」
「考えておこう」
 セレンは苦笑しながら言い、アリスを抱き止めながら身を起こした。向き合い、目が合う。もう一度、キスをして、顔を離した丁度その折に、寝室の入り口に人影が伸びた。ティルキルティス・アウグスタが侍女を連れて珍しく夫君の許に訪れたのだ。朝だというのにしっかり折り目正しい服装をしている。身に着けるペプロスは品のいいものだし、髪飾りも派手すぎるということがない。しかし、全体を覆う退潮の雰囲気はどうしようもないものだった。心労の溜まった彼女は生来の美貌を損ねている。こんな風にアリスが憐憫の情を抱いていると知ったら、彼女はどう思うだろう。
 だが、今日のアウグスタは妙に生気を湛えているように見えた。
 目に光がある。そのアウグスタの表情になんとなく嫌な予感がしたが、アリスは彼女が口を開くのを待った。勿論、昨晩にアリスが泊まったことは彼女も知っているだろうし、こうして不面目の場を見せるのは屈辱だったが、彼女の表情にはそれに対する僅かの感情も見て取れなかった。
「おはようございます。カエサル」
 一切、アリスに視線を寄越さなかった。反目しあう女同士、これくらいで丁度いい。
「ああ、おはよう」
 セレンもアウグスタの微かな違いに気付いているようだった。全く眼中にない素振りを繰り返していても、やはり見るところはみているらしい。とはいいつつも、気付いている素振りも見せず、彼女の出方を見るようだった。
 しばし、沈黙が降り、決心がつきかねたのか、アウグスタはようやくアリスの方に視線を向けた。
「今日、出発でしたか?」
 アリスを見据えるいつもは鬱屈そうにしている瞳が嫌に澄んでいた。
「ええ、そうです」ますます疑念は積るが何もできなかった。自らの手で詳らかにするのが怖い。
「ご武運をお祈りしていますよ」
 その言葉に、ありがとうと答える。全くなんという上品な会話なのだろう。
 ティルキルティスはそれで勇気を得たのか、再びセレンの方を向いた。「お話することがあるのです」一拍の間があった。息を飲み、手を胸にあて一呼吸してから、意を決したように「子供ができました」とだけ告げた。
 アリスはその出し抜けな告白に息を飲もうとしたが、それより先に痛みが左の手首に襲った。丁度、ティルキルティスからの死角になっていたのをいいことにセレンはずっとアリスの手を握っていたのだが、それがティルキルティスの言葉を聞くや否や、きつく握りしめられたのだ。
 正直にいって、セレンが衝撃を受けるとは思わなかった。反応は反射的だったし、例えばアリスを慮ってそうした対応をしたとは考えられない。ただ単純にこの事実に衝撃を受けているのだ。アリスが懐妊に不快感を覚えるならまだしも、当の身に覚えもある当の本人が。
 ティルキルティスとの仲が悪いことは周知の事実だが、世継ぎを生むということは正妻の義務でもあるのだ。いずれ必ず来る未来でもあったのだ。その覚悟がセレンになかったとは考え難い。とすれば、この反応はそれでも隠しきれない不安なのか。それともまた彼の古傷を抉るようなことなのか。
 そんなアリスの考えも、セレンは全く動揺の素振りも見せずにティルキルティスに言葉を掛けた。
「事実なのだな?」
「はい、侍医がいうには」
 とはいえ、それはあくまで症状を診た所見なのだから、真実とはいいがたい。人は自らの望む現実を見たがるものなのだ。
セレンが放つ「そうか、喜ばしいことだ」という言葉はアリスの耳にはこれ以上なく白々しく響いた。
 ティルキルティスは諦めたような苦笑を浮かべる。「やはり、うれしくはないのでしょうね?」
 その姿には多少なりとも憐憫の情が湧いた。だが、そんなものは心の奥底に封じ込めておくものだ。アリスは彼女で敵で、またそう振る舞わなければならない。
 セレンはよく自らを律していた。一瞬の綻びから全てを立て直しまた仮面を被りなおしている。柔らかく笑み、そして、アリスを掴む力を強める。
「そんなことはない。嬉しいよ。家族が増えるのだ」
 ティルキルティスは言葉を信頼しきれないように、哀しそうな表情のままだ。
「健康に過ごし、元気な子を産むのだ」
 セレンはそれで義務は果たしたかのようにティルキルティスに対する興味を失い、手を振って下がるように指示した。
 彼女は深く一礼して、下がって行った。果たして子は鎹となるのだろうか。いや、恐らくそれは無理な話だろう。侍女を引き連れて逍遥回廊に出る彼女の姿を追う。そうなるにはあまりにセレンは情に薄い。
「彼女の話、本当なのかな?」
「嘘は言わないだろう。医者がそう診断しているのだろうとは思う。それが事実かは、いずれわかることだ」
 アリスはセレンの瞳を見詰め、その中に動揺の色を見てとった。
「彼女が妊娠して、そんなに驚くようなことなの?」
「どうして」
「あまり好意的ではなかったから」
「思い入れはないよ。あるわけないだろう」
 アリスはセレンの腕を振りほどき、ベッドから降り、立ちあがった。
「君は私にそこまで博愛であれ、と言うつもりか」
 髪を一度、首の後ろから前へ通すように梳く。
「いいや、別に。ロザリアが聞いたらどう思うか知らないけど」
 ロザリアは自分の地位にぴりぴりしてるから、ちょとした変動要素も深刻に受け止めがちだ。男受けのいいように振る舞っていても、本質ではもっとずっとずる賢いから始末に負えない。
「君はどう思うの」
 セレンの言葉にアリスは振り向くと、見据えるセレンの視線とぶつかった。見つめられて思う。上手く思考できない。
「私は特には」梳っていた手を離した。
「それよりもお前自身はどうなの。あんなに強く握りしめて。痣になるかと思った」
 胸の前でこれ見よがしに手首をさする。
「多少はびっくりしたよ。しかし、それだけだ。子供はいずれ生まれる。私は結婚しているのだからね。それが偶々今なだけだ」
 恐らくそれは全てではないにしろ、本心の一端ではあるのだろう。
「私はいい父親にはならないだろうが、役目はこなさなければならない」
 アリスは、本心を吐露するセレンの姿を見て思う。セレンがこういう態度だから私は、何も感じないのだ。焦りとか嫉妬から自由でいられるのだ。
 それが仕合せなのかどうか分からない。
 セレンは頭を振って、ベッドから出た。
「全く、水を差されてしまった。朝食にしよう。そろそろ、ロザリアが痺れを切らせる頃だ」


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最終更新日 : 11/10/20

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