プロローグ.

随分、と言ってもここで生まれ育ったのだから当たり前だが路地裏というのにも慣れたと彼女は思った。
危険は多い様で意外と少ないし、色々とおかしな職に手を染めている人もわりと危なくない。
と、思って、10歳くらいの少女が一人で出歩くのには流石に危ない路地だった。
「やあ、お兄さんと一緒にどこか遊びに行かない?」
少し歩いて、見知らぬ場所に出てすぐに飄々とした感じの20歳くらいの男が声を掛けてきた。
なんだろう?と、少女が首を傾けると、手入れは行き届いていないが質のいい黒髪が肩に滑り落ちる。
見れば、少女は随分と可憐な顔立ちをしていた。透き通る程の白い肌に、朔の夜を写した様な黒髪はそれに拍車を掛けている。
「なに、遠出する訳じゃないよ。少し、そうピクニックにでも」
―――それが何か可笑しいと感じた。
相変わらず、男は笑っている。20歳くらいの優男。そう、可笑しいのは、深い路地裏の雰囲気との相違。声には軽薄なもので上塗りした様な薄気味悪さがある。
―――怖い。
知らず、一歩、後ずさりした。
それで、全ては豹変する。
軽薄そうな男の笑みが消えた。
どうやら、失敗したと踏んだようだ。
手を伸ばしてくる。
それに捕まると、二度と戻って来れない様な気がした。それでも、身動きが取れない。恐怖が全てを止めてしまっている。
迫り来るのは、手じゃなくて、もっと別の何か、それこそ悪魔のよう。
逡巡している間にも、ゆっくりと腕は進んでくる。
あと少し、ほんの少し。
ああ、―――もう届いてしまう。
ぎゅっと硬く目を瞑る。
少女は、受け入れがたい現実を受け入れられなかった。
―――あれ?
感触がない。触れられた筈なのに。
恐る恐る目を開く。
触れられる筈の腕は、何故か目を瞑った所で止まっていた。
「痛っ」
一瞬の間の後、男は腕を引っ込める。
片方の腕で押さえたそれは、鮮やかとは言いがたい赤が指の間から漏れ見えた。
「何?」
少女の呟きも男には既に届いていない。
後ろを振り向いた男は、遥か上を仰ぎ見る。
二階立ての屋上から見下すような視線はしかし、逆光の為、姿形は少女たちには分からなかった。
「こんにちは」
明朗な澄んだ声。場に似つかわしくない程。感じは先の優男に似ていたが、突き抜けるような明るさが、決して路地裏の人じゃない事を確信させた。
これは子供だろうか。
腕、を上げて見せる。
それは小さく日光に銀色に反射した。4つの腕の先にある物。
「正直、こんな事している暇はないんだけど、ま、見捨てて置けないしね。おにーさん、消える? それとも、消されたい?」
「何を、」
反論しようとした刹那、躊躇なく、銀色に反射したものを抜き取って、放った。
瞬きをする一瞬、それは男の頬を掠って、少女の足元に刺さる。
ナイフ……?
小さな、それでも子供には大きいナイフだった。
近くには、なる程、先ほどのもそれだったのか、似たようなものが刺さっている。
「もう一度聞くね。消える? 消されたい? あ、流石に三度目はないよ」
戦慄を覚える程の明朗な声だった。
少女にも男にも確実に伝わった。あの子供は耳障りに飛び回る蚊を殺す様に涼しげにヒトを殺す。
男は、舌打ちをしたが格好はそれだけで逃げる様に走り去った。 緊張が緩む。
それまでの反動か、少女は座り込んだ。
「大丈夫?」
男を追い払った誰かは、屋上から何の躊躇いなく飛び降りた。
ふわり、と、とても普通じゃそうはいかないのに、その誰かはいとも簡単に着地して見せた。
逆光がなくなり、少女の目は誰かを認識する。
薄い藤色の髪。それを肩ほどまで伸ばし、着ているのは絹か、いくらか重ね着している様で、ひらひらと、遊びまで付いている。 背は、少女よりずっと高い。
そして、可愛いとはいえないけれど、とても綺麗な顔が印象的だった。
「怪我はない? 立てる?」
その誰かを少女は、女の子だと判断した。
綺麗という中性的な容姿がどちらかと決めるのに良い作用をしなかった。
それでも言い回しや、外見はとても男の子には見えない。
女の子の問いに、一度、少女は頷いた。
「大丈夫。ちょっと怖かっただけ。ありがとう」
手を差し伸べてくれたので、それに掴まり立ち上がる。
少し、足元がぐらついたけれど、それは時間が解決してくれるだろうと判断した。
「危ないよ、ここは。君みたいな可愛い子が来ると人攫いに遭う。早く抜けたほうがいいよ」
こくり、とまた少女は頷く。早く家に帰ろう。
「そうする、助けてくれてありがとう。―――あ、一つ聞いてもいい?」
何?と女の子は怪訝そうに首を傾けた。
少女は聞く。
きっと一度きりの、事故みたいな出会いでも、関わってくれた人を大切な記憶に留めて置くために。
「貴方の名前は?」
「セレネス。君は?」
聞き返されて、少しびっくりした。
そうか、聞いたんだから、自分も教えなきゃいけないのか。
そんな基本的なことを頭に巡らし、少女は口を開いた。
「わたしの名前は――」
「あそこに居たぞ」
それは大声で掻き消されてしまった。
「うわ、見つかった。じゃあね。知らない人に付いてっちゃダメだからね」
騒がしく、女の子は手を振って駆け出した。
何故か、数歩の間に何百メートルも離れてしまって。
後から、どたばたと5人くらいの集団―――多分記憶が正しければ衛兵―――が通り過ぎて行った。
―――自分は追われていたのね。
何となく言っていた事のありがたみが音を立てて崩落している気がしたが、それは取り敢えず無視して、女の子が投げたナイフを思い出にと引き抜いて持って帰る事にした。
それが、人生の分岐点だったと、少女は遠からず気付く事になる。
―――確かこの日は、863年7月13日。
夏が本番に入ろうとしていて、燦々とした太陽が輝き、大きな満月の夜だった日。
―――セレネスと名乗った子供の11回目の誕生日だったような気がする―――


INDEX / NEXT
SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ ライブチャット ブログ