2.

 秋になると日が早く落ちる様になった。夕焼けは夏よりも鮮やかに染まり、太陽は血の様に朱い。国ではとても大きな事件が起きたけれど、少女の周りの世界は水面に水滴は落ちず、何時もの平和だけれど退屈な時間が過ぎていた。
 少女は14歳になっていた。ずっと背も伸び、顔つきもあどけなさは残っているが、大人っぽくなっている。きっと、昔会った女の子と同じくらいにはなったんではなかろうか。
 3年も経てば、多感な時期を過ごす少女の記憶の中からは、とても大事だとその時に思っていた物でさえ埋もれていき、それでも思い出せば思い出すけれど、少しずつその断片から消えていっていた。
 それに少女は見向きもしなかった。する余裕がなかった。心は焦燥に駆られ、打開策を見出そうとそればかりで過去を振り返る余裕はない。
 いつのまにか自分でデッドラインにしていた歳になってしまったのだ。
焦る。何も考えてなかった。
逃げる術も、起こさない様にする方策もこれという物がない。 最近、親の態度が露骨に変わってきたのを少女は焦りと苦々しい思いの中で感じていた。
どうにかしようと考えても、何も浮かばない。
今日もまた、日暮れで夜鶯が鳴き始める。
一人、それを聴きながら、帰ろうと腰を上げる。路地裏の廃墟の建物の屋上だった。強面のお兄さんたちの根城になりそうな所でもあるが日中は至る所に日が入って明るい。雰囲気に合わないのか路地裏の人が寄り付く所ではなかった。それを良い事に少女は一人でそこに忍び込んでいる。人が来ないのなら幾ら少女でも大丈夫だから。
物思いに耽る事が出来てそこから見渡せる風景は綺麗で、お気に入りの場所。
「ずっと、ここに居られたらな」
 太陽が沈む瞬間を眺めながら、溜息を吐いた。
時は止まらない。座っていてもどうせ動くのだから、自分で駆ける方がずっと楽しいだろうと思う。
 だから、どっちにしたって、こうして夕陽を眺めている事などできなくなる。
 動くと決めた。でも、今の生活を壊したくないと心の底では思っている。それは微かに決断を鈍らせた。
 やはり、家族だった。どんなに愚かしくてもどんなに嫌われていても。
「でも、もう遅い」
 分かってる。そんな事は十分過ぎる程、分かっているのに。
「私は、不孝者かな」
 呟きは藍に溶け込んで消えた。
 断ち切る様に風景に背を向ける。暗い路地を歩き、家路に就いた。街道に隣接する建物は一つ一つ灯りが燈っている。それで仄かに外も明るかった。
 その街道を一つの影がこちらに進んで来ていた。漸く視界に捕らえて目を凝らして見ると、それは一番下の妹だった。
「どうしたの?」
 駆け寄って、問い質す。
 妹は一人で出歩いたこともないからか、恐怖に怯えた様におどおどとしていた。
 少女が声を掛けると、身体に抱きついて、心底安心した様に息を吐いた。
「ああ、お姉ちゃん。探したんだから」
 少女も抱き締めてあげて妹を安心させる。
「一人で外に出ちゃ危ない。こんな夜に。――それで何かあったのではない?」
もう一度問うと、用件を思い出したのか妹は顔を上げて少女を見詰めた。
「そうだった。あのね」
 言い掛けて直ぐ言い辛そうに視線を外す。それでも少女が促すと小さく言葉を続けた。
「お母さんとお父さんが、お姉ちゃんの物を漁ってた」
「なんて?」
 思わず強い言葉で聞き返した。
 その語調に気圧されたのか妹の身体がびくりと震える。
「ああ、ごめん。それで、なんで?」
「分からない。突然。私、止めようとしたけど」
 小さく妹は零すばかりだ。
そうして直ぐに知らせようと慣れない路地裏を一人で危険を冒してまで少女を探したのだろう。
 少し、それが嬉しくて妹の頭を撫でる。きっと決断を阻んでいるのはこの妹の存在だという事は薄々気付きながら。
「早く帰った方がよさそうね」
 そこで、ふと記憶が蘇る。
 大切な物。他はどこででも手に入る日用品だけだけど、あれだけはどうやっても手に入らない。
「早く、ロザリー」
 話している時間も惜しかった。妹の手を引っ張って走り出す。
 見つけられると色々と面倒になる。――きっと何かが壊れる。
「わ、ちょっと待って。速いよ」
 そう言う妹の声も少女には既に届かなくなっていた。
 妹を強引に引っ張って、それでも一人の時より幾分時間は掛かって家に到着した。
そこでやっと妹の手を離し、奥へ進む。
子供部屋には、両親が居た。
「何をしてるの」
 ゆっくりと両親が振り向いた。
 その手にはあのナイフが一本ずつ握られていた。
 頭に血が上るのを必死で抑え付けた。ここで感情のままに動いたら取り返しがつかなくなる。
「こんなもの持って危ないじゃない」
 母親がそれを見せ付けた。
 穢れる、と少女は思い、それだけでも抑えが利かなくなりそうになる。
「悪い? 宝物だもの。返して」
 抑揚を出来るだけ付けなかった。
 それをどう捉えたのか、少し両親の表情が変わった。
「そうはいかないわ。親として刃物を持たせる訳には。ねえ、あなた?」
 ああ、と父親が頷く。
 うだつの上がらない父。母の言いなりで路地裏に相応しい程度の人間でしかない。
「これは、結構な業物だ。幾らで売れるものやら」
 ぎり、と噛み締める。
 どうして、こんなに我慢しているのだろうと、ふと疑問に思った。
「私のよ。貴方たちに売る権利はない」
 何もこんなに耐える必要なんてないんじゃないかと。
 それでも耐える。
 耐えないと何もかもがダメになると何となく気付いていた。
「どうやって、手に入れた。これは相当に値を張るぞ」
 父の濁った茶色の瞳に見詰められる。
 矮小で芯のない、本当にどうしようもない人。それでも父親だった。
「貰ったの。恩人から」
「嘘だな。こんなものを持つ様な人間が裏に来る筈もない」
 そう言って、ポケットの中にナイフを忍ばせ様とした。
「私のっ」
取り返そうと手を伸ばす。しかしそれは母親に腕を掴まれて防がれた。
 反射的に睨み付けた。
 その迫力に押されたのか、一瞬、怯んだ様に顔が歪んだ。
「お前には手に余るわ。私たちが預かる」
「そんな事ない。ちゃんと保管してた。返して。売るって言ったじゃない」
「馬鹿を言うな。こんな金になるものそうそう返すか」
 後ろに居た父の目論見を吐露する声。
「あんたっ」
 母の愚かな父を制する声。
 自分の中で何かが切れた様な気がした。
 後戻りはできない。
 もう、それでも良かった。
「そう、売るつもり。そんなナイフじゃなくて娘の私を。だから、処分するの、私の物を」
 叫ぶ様に言った言葉は、意外な程よく通った。
 少女がそれを知っていた事に驚いたのか母親の力が緩んだ。
 一瞬の虚を衝いて手を引っ込める。それに対する準備が整う前の母から、少女はナイフを奪った。刃を掴む様な乱雑さで、少女の指は刃によって鋭く切られる。
 ぽたりと、床に血が滴ったが、そんな事には気を払わなかった。
「さあ、返せ。私のだ」
 奪ったばかりのナイフを父に向かって突きつける。切っ先からは血が落ちていた。
何が起きたのか分からないのは少女以外の全ての人間だった。
 未だ母は息を飲み、父は目を見開いているだけ。
 反応がないのが分かって少女は矛先を変えた。忍ばせたポケット。一直線に踏み込んだ。底を切る。床にナイフが落ちて金属の甲高い音が部屋に響いた。
 それを拾い、後ろに下がる。事は一呼吸の間。少女の他に未だ動ける者はない。
「もういい。全部諦めた。簡単だったのに、こうする事は。何でこうしなかったんだろう。―――さよなら」
 両親に背を向ける。
 歩き出しても、物が動く気配はしなかった。
 玄関に差し掛かった所で妹が蹲っているのが目に入った。膝を抱えてそこに頭を押し付けていて表情は分からない。微かに身体が震えているように見えた。
「ごめん」
 それだけしか言えなかった。それだけでも言って視線を切る。
――全部捨てるって決めた。
 外は完全に日が落ちていた。
 空はまだ深い紫色だったけれど、星も幾つか上っている。
 兎に角、ここから離れよう。
 今夜は満月だった。澄んだ空の中に一際大きな月が浮かんでいる。この季節になると夜は大分冷え込み、切れた指先が悴む様に痛かった。一年も放って置いたあのナイフは拾った時と変わりもしない切れ味を誇っていて、異様な程の鋭さで少女を傷つけた。  感情の落ち着いた少女に行動の意味を問い掛ける様に指先は痛み続ける。
 既に周りの灯りは落ちて、月明かりが青白く石畳を映し出しているだけだ。
 歩き続けた。
 路銀も何も持っていなかったけれど、とにかく遠くへ。
 それで事態が好転するとは思えないけれどそれしかやる事はなかった。
 血は乾き手に赤黒く乾いて付着している。
 後悔はしていない。なるべくしてなったと今は思う。きっと、遅いか早いかだけの差。
 伝わってくる痛みに答える。きっと、間違いではなかったと。
 だけど早い分、何の準備もしていなかった分、選択肢は限られる。
「疲れた……」
 立ち止まって、空を見上げると天頂に満月が掛かっていた。あれから、何時間経ったんだろう。
 街道の端に寄って壁伝いに座り込む。
 小さく身体を縮込ませ、冷気にできるだけ当たらない様に。
「少しだけ」
 言い聞かせるように言って、切れ長の瞳を閉じる。束の間の休息に意識は直ぐに沈んだ。
 夢は見なかった。
 見る程いい思い出もない。
 起きた後、見たと感じる事のない夢を微睡みの中で見る。
 それは、幼い頃の事なのか、遠い未来の事なのか、望む未来の事なのか。
 ――不意に身体が強張った。
 途端に現実に引き戻される。
 何、と叫ぼうとして口を塞がれた。
 状況を把握しようと目だけは辺りを見渡す。月明かりが幸いした。騎士風の男。歳は30前後だろう。大分酒に酔っている様で強い匂いが鼻を突いた。
(しまった)
 内心、舌打ちをする。警戒するべきだった。建物の傍で殆ど表に近いと言っても路地裏で眠り扱けていたら襲って下さいと言っている様なものだ。
 口を塞ぐ反対側の手が足の辺りを弄った。
酔っているからか目的通りとは思えない拙い感じだったが、初めて嫌悪感が胸の内を埋め尽くした。
 殺す。
ナイフは腰に差していた。それを自由な左手でああやって握り締める。逆手で握り、覆い被さっている男の肋骨の辺りに添えた。 縦ではきっと骨に刺さって動けなくなる。だから、刃を横に肋骨に平行になるようにした。
 そして――思い切り突き立てた。
 衝撃で酔いが醒めたのか、男の目が見開らかれて、塞いでいた手が除かれる。
 仕留める事が出来なった。体勢的な問題と単に腕力の無さが原因だろう。
 もう一度舌打ちをして状況を把握しようと目を凝らす。
次の瞬間に、下腹部に激しい痛みが走った。強か殴られた様だ。  息が出来なかったが、やっとの思いで蹴り上げて、物理的な距離を取った。
「このアマっ」
 突き立てたナイフが月明かりに青白く照り返した。
 下腹部を押さえて立ち上がる。声はままならなかったが睨み付ける事はできた。
どうやら少女の凄みはそれなりに効果がある様で男も一瞬怯む様に身体が動いた。
 ゆっくりともう一本のナイフを取り出す。
刀身は未だ赤く血の痕跡が見て取れた。その所為で男のわき腹に突き立った片割れ程澄んだ反射を見せてはくれない。
「殺してやるっ」
 気圧された事実を消し去りたいとでも言う様に乱雑に剣を引き抜いて突進してきた。
(さて、どうするか……)
 初めての経験だったが、少女の心中は落ち着いたものだった。
 恐怖心もない。
 もしかしたら、未だその存在を知らせ続ける痛みが冷静さを齎してくれているのかも知れない、と思った。
 大きく振りかぶって頭上から斜めに振り下ろされる剣を屈んでかわして、伸びきって隙になっていた手首にナイフを思い切り突き立てる。
叫び声を上げ男は剣を離した。咄嗟にそれを拾い、躊躇せずに間合いに入って横に薙ぐ。腹部の辺りが裂け、血が滴り落ちた。
後ろに男が下がるのを契機に攻守が逆転した。
両手でしっかりと剣を握って振り下ろす。普通の剣だったが少女の身体と腕力には少し重かった。剣に振り回される様に薙いで、酷く隙が多いだろうと少女自身思ったが、そればかりは今はどうしようもない。型も何もないただ振り回すだけの攻撃はそれでも男に少しずつ当たって、傷を増やしていった。
後退するばかりの男は無理な体勢が災いしたのか、よろけて倒れこんだ。
「や、やめっ……」
嘆願を無視し剣を大きく振りかぶって、一時の間の後、袈裟懸けに斬り下ろした。
カン、と石畳に刃が噛む音が街道に響く。
命を奪ったという感触が痛い程伝わってきた。それが少し心地よく、気分を高揚させた。
 ほう、と息を吐いたら同時に力も抜けた。
 カツン、と今度は軽く剣の切っ先が石畳に触れる音が耳に触る。  勝った。
 昂ぶりの中で少女は安堵の溜息を再び漏らす。
「痛い……」
 思い出し方の様に下腹部が痛んだ。鈍痛といっても良い様な痛み。刃に削られる様な鋭い痛みではないが、耐えられるのにも直ぐに限界がきそうだった。
 でも、それに見合うものは手に入れられそうだ。
まず、腰に佩いていた剣。
 普通の剣で少し少女が使うには重かったが、ナイフは護身用には信用できないし、あると何かと便利だろう。
 それから、同じく腰に掛けてあった財布を手に掛ける。
勝者の特権に感謝。これで幾許かの猶予が出来る。
 それなりに裕福だったらしく中には銀貨が数枚と銅貨が十数枚入っていた。見れば、男の服の生地は上等な物だ。騎士風ではなく本当に騎士だったらしい。
「負ければ死、か……」
温度を感じさせない瞳で亡骸を見下した少女はふと小さく口元を吊り上げて、
「そういうのも面白いかも知れない」
綺麗な、それでいて残酷な笑みを浮かべた。


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最終更新日 : 09/8/24

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