12.

彼女は軋む四肢を慣らそうと身じろぎを繰り返しながら話を聞いていた。 身体の節々が動かさないと悲鳴を上げてしまって、まだぼんやりとしている頭のそれへの対応はあまりにお粗末になっている。
「で、巡り巡ってここに戻ってくるわけか」
 気を紛らわそうと今度はアリスの方から水を向ける。
「そうなるかな」
 セレンは頷く。
 前に見たより心持ち憔悴している様に見えた。
 柔和な顔が立ち消え、野心の見え隠れする瞳が獰猛な獣を連想させる。しかし、それが粗野の印象を与える事はない。
 育ちの良さを思わせる品性はそれを下劣なものに貶めないで、彼の魅力として引き出している感さえあった。
「そう言えば、シャルトル伯は私の事を鬼神と言っていたけど、どう言う事なんだ?」
 セレンは察しの悪い生徒を相手にしている様にアリスを見て、それから溜め息を吐いた。
「気付かない?」
「いや、全く」
 思い巡らせても、あまり彼女の答えになりそうなものはなかった。彼の話で今、気になる事と言えば、その時に言明していなかったであろう傭兵たちの反感を和らげる術を態々アリスの前では言明した事と、彼が彼女と同郷だったと言う事くらいだ。
「君は前の戦闘でどれだけ殺した?」
藪から棒に何を言い出すかと思ったが、とても冗談の様な話でもなかったので、身体と同じ様に鈍っていた頭を動かす。1人、2人、3人……
「10人くらいか? よく覚えていない」
最後は朦朧としていて、記憶が曖昧になっている。ふと、そこで思い出したのだが、セレンが救ってくれたあの場、あそこには彼女が最後に覚えているだけでも他に何人か生きていた。彼らはどうなったのか。
それを聞いてみるとセレンは当然の様に首を横に振った。
「生きていたのは君だけだった。他は戦死。あそこは死地だったよ。まったく君が生きていたのは奇跡に相応しい。敵も戦意を喪失気味で少し押すと無理をしなかった。分かるかい?」
勿体ぶった言い方をして、彼女は理解できなかった。何時もより鈍い働きの頭はこんな自明の事すらも靄が掛かった様にはっきりさせてくれない。
セレンもようやく彼女が本調子ではない事に気付いたのか、頷いて先を進める。
「君は中々死ななかったんだよ。兵を繰り出しても繰り出してもね。大体、あの隊は3分の1を失っていただろう。その半分、とは言わないがそれに近い数が君の手柄だ。鬼気迫るものがあったんだろうね、それに死なない。敵が戦意を失うもの無理はないよ。勝っている事だしね。まあ兎も角、だから、君は鬼神。誰か傭兵が吹聴したんだろうね。瞬く間に広まったよ」
それは全部、無意識の中で出来事だったし、それに内心自分がどんな事を思っていたか彼女はよく分かっていたから、そう褒められても嬉しくともなんともなかった。
恥ずかしいとは思う。
やっぱり無様だった。あそこで死んでいたらもっとよかったのに。
「そんなの、私には相応しくない」
吐露はセレンには聞こえなかった。それか、聞き流してくれたのだろう。
彼は琥珀色の目でただアリスを見つめていた。
そしてそれを切ったかと思うと、すぐに語を継いだ。
「兵は皆が知っている。敵も味方も。傭兵の君がそれだけ命の懸けた、と少なくとも外からはそう見えるからそれだけで士気は奮い立つ。それに君は美人だから、尚更ね」
反感を和らげる手。
シャルトル伯が知っている程の事なら傭兵の間でもそれは膾炙していて、肯定的な評価なのだろう。
それをセレンは十二分に利用するつもりなのだ。
多かれ少なかれ人は絶えず偶像を求める。今回は運が悪いのかアリスに回って来て自分ではどうしようもない事だった。
「それにしても」
ちら、とセレンはアリスに視線を寄越して、気がついてないの? と言わんばかりに苦笑している。
怪訝な表情でそれを返すと、ようやくセレンはそれを口にした。
「それ。意外と大胆なのかな」
「それ?」
指された指の先を追って行くと丁度胸元に……
「なっ」
大きく胸元が開いていた。 慌ててキルトも合わせて掻き抱いて、彼から隠す。
暫らく言葉もないほど、頭の中は真っ白になってしまって、顔は火が吹きそうになる程蒸気していた。
そして、今更ながら彼女は気付いたのだが、キルトの下はもっと凄い事になっていた。
というか、今肌にしているのが、この大きめのシャツ一枚という普段の彼女だと絶対に有り得ない状況だった。
何分か経って、幾分冷静さを取り戻した頭がある一つの疑問を提示してくる。
しかし、それは答えが望んでいたものでなかった時に、非常に大きい精神的なダメージを受けるのは請け負いだったので実際に聞く事は躊躇われた。
だが、一度、気になってしまっては結局答えを得られるまで、ものに手が付かない状態になりかねないと自分で気付いていたので、彼女には聞く、という選択肢以外残されていなかった。
「……あの、これ、着替えは誰が?」
おずおずと、彼女には似合わない震えた声だったが、特にセレンは気にする気配もなく、というより、ただ単にアリスだけが羞恥心に支配されているだけで、彼は最初から全く動じていないし、指摘もしてくれていなかったではないか。
「流石に私じゃないよ。従者をしている子が。――エティ」
鋭く彼は幕の外に呼びかけた。
少し間があって、一人の少女が顔を覗かせる。
「お呼びですか。セレン。――ああ、目が覚めたのですか」
最初の方には親愛を、最後の方には侮蔑を込めた声だった。
これまた貴族然としているお嬢様で、その容姿は気味が悪い程に欠点がなかった。
違う。欠点がないなどという消極的な評価は彼女に失礼で、はっきりと言及すれば長所しか存在しないのだ。
150cm台の身長とまだ多分に幼さを残す端整な顔立ちはマリンブルーの瞳がアクセントを付けていて異様に白い肌の中で特別の存在感を放っている。髪は一本一本が純銀でキラキラしていて、小さな顔にも切れ長のマリンブルーにも似合っていた。
しかし、その完璧と言える容貌は彼女の印象を彫刻を思わせる人工的な固いものにしている。加え、目の光もどこか屈折していて人好きさは欠片もない。
「エテルノと申します。どうぞ、お見知りおきを」
優雅にスカートを持ち上げてお辞儀をする仕草も堂に入っていて益々隔世の感があった。
「アリスだ。――世話を掛けた様だな。礼を言う」
「セレンの命でしたので。わたくしがどうこうと言う事柄ではありません」
冷たさの中には侮蔑しか見出せなくてすっかりアリスは閉口してしまった。
ちら、とセレンを見やると全くの無表情でエテルノを見つめている。その表情は仮面を被っているかの様に色に乏しく、はっきり言って少し怖かった。
「消えていいよ」
エテルノに劣らずセレンは冷たく言って彼女を下がらせる。
不興を買ったのは明らかだったが、エテルノは全く動じる素振りもなく退出していった。
「私から詫びるよ。すまない、ホントはいい子なんだけど」
「本当のところなんてどうでもいい」
ぴしゃりと言い放つとセレンは苦笑した。
「兎に角、今欲しいのは服だ」
忘れそうになっていたが、アリスは何とも言えない間抜けな格好を今も続けていて、セレンは全くそれに配慮してくれていない。 気にしているこちらが馬鹿みたいになってくるが、正しいのはこちらの筈だ。
大体、何の反応もないのは男性としてどうなんだろう。多少なりとも彼女は自分に自信を持っていて、それは彼女の自尊心を傷つけるには足る行動だった。
「用意させるよ。彼女に」
セレンは再び彼女を呼び命を下した。
一拍の沈黙が下りて、アリスは気まずさから話の種になる様な話題を探そうとセレンが話した内容を復習ってみる。
そこで気付いたのは、殆ど漠然とした会話しか彼とは交わしていないという事だった。詳細を極めたのは全てアリス自身が当事者の場合のみで、彼とシャルトル伯、アジャーニ元老との間の話は重要と思われる事は綺麗にぼかされていて、一向に要領が掴めない。
最近は昔が嘘の様に好奇心に支配されているアリスだったから、憮然としたが、これが上位者に許させている特権なんだと思い強引に納得する事にした。
彼は与えられた特権的な地位に相応しいその才を縦横に発揮している。一瞬にして上位に登った人間が如才なく振舞っている所を見ると、どうしても勘案したくなる。
アリスを此処まで寄越したミーネが言っていたが、本当に訳ありの人間が傭兵にもいるらしい。
地位や権力を捨てて平民に落ちる人間が、それも自主的にそれを選択する人間がいるとはアリスには信じられなかった。
「セレン、お持ちしました」
エテルノの冷え冷えする声が掛けられて、セレンは席を立つ。
「じゃあ、また。もう、こんなには休めないよ」
「分かってる」
セレンが出て行き、入れ違いにエテルノが入ってきた。
憎悪の目を向けながらも彼女は着替えを一々手伝い、どうにも硝子細工の様な指がその作業には不釣合いだった。
用意されていたのは深み掛かった赤の服で、今まで彼女が着ていたものよりずっと素材が良く、生まれてこの方こんな上等なものは着た事がなかった彼女は少しばかり浮かれてしまって、益々、エテルノに険のある目を向けられる事になったのを気付かなかった。
「お似合いですよ」
にべもない一言で我に帰った彼女は、せっかく弾んでいた気分に水を差された事と少しの恥ずかしいと思う気持ちもあってとうとう癇癪を破裂させた。
「一体、私に何の恨みがあるんだ!?」
語気荒く接してもどこ吹く風のエテルノは澄ましたままだ。
「いえ、何も」
脱ぎ捨てたシャツを畳みながら、行動は従順な従者そのものだったが、自負心の強さと傲岸さが、彼女の出自を象徴しているように見えた。
「じゃあ、その目はなんだ?」
「と言われましても。わたくしには何の事かさっぱり」
マリンブルーの瞳は北の海の冷たさに思えて、寒気が走る。
おぞましい程澄んだ瞳は、持ち主の心の変化を途端に完璧に伝えるに足りて、アリスに余す事無く思い知らせる。
だが、彼女には全くの身に覚えのない事だった。
エテルノと呼ばれる少女に何か不快な事をした覚えも全くないし、なによりこれが初見だ。
ここまで、敵意を抱かれた事は経験していなくて、気後れする。
「もう、いい。消えろ」
それを振り払う様に、手を振って彼女を下がらせる。
一度深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、エテルノが置いていった鏡を覗く。
似合ってるかどうはよく分からない。
そんなのに気を使う余裕はなかったし、興味もなかった。
髪だって乱雑に切られたままだったし、肌も少し荒れている。
自分のそんな顔を見るのが嫌で、早々に彼女は鏡から目を離した。
寝室の幕を出てて、そのまま外に出ると、セレンが馬を引いていた。
近くには兵士がいて、それがここまで馬を引いて来たらしい。
「君は馬に乗れる?」
出し抜けにセレンが言い、彼女は横に首を振る。
ただのスラム街出身の彼女が維持費の非常に掛かるこの種の生物に触れ合う機会があろう筈もない。
マリウス傭兵団は800騎の陣容を整えているが、多分、それがこの地方最大の騎兵隊だろう。どんな魔法で維持しているのか、彼女は常々不思議に思っていた。
「じゃあ、教えてあげるよ。乗れて、不便はないからね」
セレンは軽やかな動作で馬を降り、手綱を兵士に投げて寄越した。
「この馬はどうしたんだ?」
尤もな質問を彼女はする。
「乗り手が死んでしまってね。で、相手に渡すわけにも行かないから、一箇所に集めていたんだけど、それを貰ったんだ」
セレンは傭兵全体の指揮を任された――奪い取った――人間なのだから、目立つ様にしなければいけないし、それにはやはり馬は必要なものなのだろう。
「お前は乗れるんだな」
少し、詮索に近い言葉を投げてもセレンは何の素振りも見せず答えた。
「幼い頃、やらされたからね。まぁ、こういうのは不得意じゃないんだ。元々」
確定的な言葉が出た。
それでもそれに何の素振りもない彼は自分のそういう事を隠そうとはしていないらしい。
何とも馬鹿らしい気分になったが、好奇心の向いていたものが満たされて一定の満足感を覚えた。
そして、また別のものへと好奇心は向く。今度は彼が誰なのか、ではなく、彼が何を出来るのか、に。
ようやく、この戦争の趨勢に興味がもたげて来た。
この圧倒的な不利な状態でどう彼は起死回生に打って出るのだろう。
彼は会戦で決着をつけると言った。
だが、それまでに何も手を打たないとは言っていない。
セレンに聞いた話に依るとシャルトル軍は混成で2200。傭兵700に、正規軍1500。内、重装歩兵は700居ればいい方だ。騎兵は傭兵も合わせて200は確実にいないし、残りは軽装歩兵で、1:2の割合は益々、絶望の色を濃くするだけだ。その軽装歩兵も弓や、それに類する専門兵器を所持していれば役に立ったかも知れないが、殆どが重装歩兵と変わらない装備では、何の為に存在しているのか。嘆きたくもなる。
しかし当のセレンは少なくとも不安がないと思える様な振る舞いだった。
それが演技なのか、それとも本当にそう思っているのかは分からないが、その姿を見れば、胸の内に巣食っている不安は多少なりとも減じさせられて、彼がそう振舞う効果はあった。
「鈍ってる身体を解すには丁度いいかも知れんな」
折角、乗馬の機会があるのだ。
またとないチャンスだろうから、精々利口にその幸運を享受しておく事にしよう。


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