20.

「貴女がこんなに金のかかる存在とはね。私だってこんな金額滅多に見ない。今更だけど、返す当てなんてないでしょう」
 机を挟んで対したミーネはアリスが提出した明細に目を通し、流石の彼女も少しばかり顔を引き攣らせながら言った。
「だけど」
 言い訳を弄そうと口を開くとそれに被せる様にしてミーネが言葉を重ねた。
「だけど、ええそう。あれは効果的だったわ。まだ明確な敵意が形作られる前だったから簡単に懐柔されたのも多かったでしょう。だから保証人になったのよ」
 考えてみたら当たり前の事だった。ミーネが何も読まずに無心してくれる筈もなく、彼女に対しての言い訳なんて全く愚弄していると取られても可笑しくないくらいに彼女の事を分かっていない。
 それに気付いて、真面目な顔で彼女を見返すと彼女は朗らかに笑った。
「まあ、給料から天引きするからそのつもりで。それに仕事も沢山して還元してくれると嬉しいわ」
 結局の所、費用の半分くらいはミーネに拠出して貰い、残りの半分を土地の有力者たちにミーネを保証人にして募って資金を調達したのだから最大債権者は当然ミーネだった。
 詰まる所、彼女に対しては全く頭が上がらない状態な訳で、暫くは彼女に顎で使われるのが目に見えている。元より、アリスはルクセンブルク派と、主流のマリウス派に対抗するミーネの懐刀とまで言われているのだったから、不自然な事でもないのだったが。
 帰還して程なく、本当に昇進の沙汰があってアリスは300名の騎兵隊の隊長になっていた。騎兵隊は総勢800の2隊に分かれていたので他方は500で、アリスは第二位という事になる。
 しかし、隊長は隊長だった。
 同僚は歩兵隊の人間を合わせても11人しかいない。上司は団長のマリウス、副長のアニタ、総長のミーネの3人だけだ。3000人以上が彼女の後塵を拝し、それも入団して僅か数年での昇進は異例中の異例とミーネも言っていた。最速レコードは彼女自身が持っているらしい事は後からバルナバに聞いた。
 ただ、この隊長という地位を固めるには大きな代償が要った。
アリスがその地位に相応しいとマリウスや他の誰でもに悟らせたあの戦いでアリスは仲間殺しという失態を演じていたのだから。
 その後に、バルナバから聞いた話によれば、ただ敵に彼女が居ただけ、という訳でもなく、派遣されたマリウス傭兵団の兵士を直接殺したのもアリスが率いた騎馬隊だったようだ。
 幾人かは夜襲の際に捕虜にもなっていたのだがアリスは全く彼に気を払う事もなく、次の会戦は冷徹に殺しまくり――知らなかったのだから当然だが――大きな顰蹙を買っていた。
 それを兎に角配下からは取り除こうとして、アリスは大きな借金を背負う羽目になったのだった。
 どのような手を取ろうかと、あまりそういう事には回らない自分の頭を回してもろくな案が浮かばなかったから、結局手っ取り早い策を用いる事にし、つまり金をばら撒いて武術大会を開いた。自分も参加して中々の好成績を収めそれでかなりの数の人間から認められ、それに大会だけではなく様々な見世物も供した為に、その催しは単に個人主催から都市を巻き込んだ大騒ぎにもなり、大会はアリスの名を冠して呼ばれたから、観客として入れたその民衆には凄まじい知名度を誇る事になってしまった。
 観客を入れたのもよく、それで大きな人気を博した兵も居て、彼らの自尊心を満足させるのに幾らか役立ってそれもまた成功と言って差し支えなかった。
 兵士や民衆の高評価の代償が大きな借金だった。幸い莫大なとまではいかなかったから、何とか返せはしそうだ。
 何年掛かるかは全く見通しが付かなかったが。
「という訳でさっそく仕事よ。はい、これが依頼状の一つ」
 ミーネは机の中から一枚のパピルス紙を取り出して、アリスの目の前に置いた。
「ジル卿? 誰だ、これ」
 全く知らなかったから正直な反応を示しただけだったのに、ミーネは露骨に溜息を吐いてその反応を責めた。
「誰か常識を持った奴隷でも買いなさい。彼はボシュエ公国の有力な諸侯の一人。生き残りつつあるけれど、まだ彼はやる気のようね。目下、宰相、って言っても役職なんて意味はないけど、アミアン侯と争っていて戦争になりそうな雲行きらしいわ」
 取るに足らない細事を語る様にミーネの言葉には覇気がなかった。
「それで内容は?」
 ここは無難に戦争への参加なのだろうか。
 それともまた別な特異な事が頼まれているのだろうか。
 しかし、アリスのやる気とは反対にミーネは全く以ってやる気がなさそうだった。
「彼の命に従う事。契約は最長で今年の秋までだから、普通に考えて戦争への助力でしょう。決着が付かない事も十分に考えられるし、皆がシャルトルやウィオーラの様な人間でもないけれど、延長は認めていないわ」
 ミーネはとことん、どうとも思っていない様な口調で言い、詰まらなそうに契約書を引っ込めた。
「もう一つ、これはアミアン侯からよ」
 似た様な様式のパピルスがまたアリスの前に出される。
「条件はこちらの方がいい。流石に宰相は羽振りが違うわ。ただ、まあ人となりはジル卿と似たり寄ったりね。シャルトル伯には鼻で笑われて終わりそうな人達。ボシュエだからしょうがないけど。でも、残念な事にこれくらいしか騎兵隊を雇おうとする人はいないのよ。だから、どちらかに送る」
 態々ラシェルを引き合いに出したのは、おそらくアリスが彼女の事くらいしか知らないだろうと踏んでだろう。しかし、一国の宰相ともあろう者が伯に器量で負けると評されるとは想像できないものだった。しかもそれの対抗馬までが同じ程度などとは俄かには信じがたい。
 確かにラシェルの事はセレンは評価していた。しかし、同じ様な評価をミーネが下すとは、もしかしたら冬の間にそれを下す様な事も起こったのかも知れない。帰ってきてからは、情報を出来るだけ得ようと努力をしていたが、ここの所、忙しく疎かにはなっていた。
「勝ちそうなのは宰相の方ね。シャルトルが国境沿いの勢力だとは知っているでしょう? それと宰相にジル卿は挟まれる事になる。これ幸いと彼女は周辺を掠め獲るくらいの事はしそうだから、ジル卿に味方する事はないでしょう。中立も考え辛いわ。貴女はシャルトルと事を構えたくないだろうし、それは私たちもそう。もう一度不興を買っている事だしね」
 セレンもミーネもそういう事をアリスに語るのが好きらしい。そんな話をされれば彼女だって考える事くらいしたが、それを表に出すのは何となく思惑に乗っかる様で嫌だった。
「私は命に従うだけだ」
 ぶっきらぼうに返すとミーネは小さく笑った。見透かした笑みだったが不思議と嫌悪感は抱かなかった。
「そうね。アミアン侯に依頼を受ける旨を伝えます。進発は明朝、よろしいですね」
 途中から無表情の仮面を被った仰々しい物言いになり、それが公式の言葉だからと知ってアリスも仰々しく頭を下げた。
 ミーネの部屋を出、そのまま建物から出た。
 騎兵隊は郊外に兵舎を構えていたからそこまで帰るのに船、徒歩、馬車と三つも移動手段を変更せざるを得なかったから、それに時間を浪費し、帰り着いたのは夕方だった。
 それからすぐに出動準備に取り掛からせ、騒がしさに包まれている中でアリスは自分の部屋に入った。
 特に大きな部屋ではない。
 奥に採光用の窓があってその前に机と椅子が一組あり、その反対側にベッドがあるだけの殺風景な部屋だった。
 その椅子に腰掛けて、アリスは暇の潰し方をよく心得ていなかったから、漠然と過ごそうとしたら、ノックが聞こえた。
「入れ」
 隊長の部屋をノックする様な人間は高が知れていた。
 取次ぎの従者を介さないのはごく僅かな私的な友人だけに過ぎない。
 入って来たのは予想通り友人だった。
「慌しいね、仕事?」
 バルナバは騎兵隊の会計士になっていた。
 本部からミーネが引き抜いたと思ったら、アリスが昇進すると早々に送りつけて来たのだった。
 彼女なりの配慮なのかも知れない、とすぐに思った。あまりアリスは友人と呼べるものを持ってなく、進んで作ろうともしていなかったから。
「ああ。準備をしておけ」
「したよ。幸い僕はそんなに大層な荷物を持つわけじゃあない」
 戦士になりたかった彼は、会計士の仕事にいつのまにか目覚めている様で今は不満の一つも聞いた試しがなかった。
 確かに外見からはそちらの方がずっとしっくり来る。
 それに勤務態度も良く、几帳面だったし誠実で倹約家だったから、優秀と言えば優秀の部類に入り、自分でもその才能に気付いたのかも知れない。
 ただ、アリスに対して気安いのか小言が多くそれには辟易していた。
 最初の内はまだ良く、それを受け流していたら何時の間にかまるで家庭教師のようになり、それは礼に適ってないとか、不調法だとか、その生まれと育ちに立脚された指摘をし始めてアリスには存知得ない事で責められた。それで怒られても、知らないのだから仕方ないと思ったが、逆にそれを知る機会だと前向きに考え直す事にして、甘んじてそれを受けている。その所為で酷くなる一方なのではあったが。
 しかし、再びセレンと会う事もあるだろうし、今後はラシェルの様な人種から雇われる事が主流になるだろうと思っていたので、その時には何かの役に立つだろうと確信に近いものを持っていた。
「そう言えば、初めてだね。おめでとう、と言っておくよ」
思い出したようにバルナバは言い、アリスはただ肩を竦めた。
 冬は休戦期で、だから、当然戦争で率いる事は経験していなかったが、その分、時間を掛けて調練はできた。
 それに隊長としての初陣は、もうセレンの許で済ましていたと思っていたから特に感慨がある訳でもなく、バルナバの言葉は嬉しくもない。
 あの時の経験は暫くは至高のものになるだろう。ミーネが言っていた通りならあんな指揮官はこの地方には少ないらしいから。 「まぁ、儀礼的なものさ。だから、と言ってはなんだけど結構安心していられる」
 それから暫く他愛もない話を交わし、夜を迎えた。
 そして、一夜開け、日の出と共に出発した。


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