23.

 首都クォウァデス。大理石の街の中心には大きな広場があり、その広場の北には一際大きな寺院が広場を守るように建っている。
 その日は弔鐘が、悲しく荘厳に、響き渡っていた。
 篠突く雨の中、それの音を掻き消さんばかりに。
 100万都市と呼ばれる当代最高の街は哀悼の一色に染まっていた。  若き、未だ壮年後期に襲った突然の死。
 その報の衝撃は、彼の遺体が灰になった後も消える様子はなかった。その上どこからか一つの噂が実しやかに囁かれ始めていた。
 皇太子が暗殺したのだ。
 継承権を兄に奪われそうになり、焦った彼が帝位を簒奪した。
 後継者争いで次点だった兄が民衆に好かれる様な性格をしていた事と母が違った事が皇太子には災いした。
 怪しくなった継承権欲しさに殺したと市井では半ば事実の様に論じられていたが、彼が常に後継者争いで他の兄弟を出し抜いていたのを指導者階級は知っていたのでそれを本気にする人間はいなかった。が、誹謗中傷の火消しに回る臣もいなかった。彼には彼の事を思って動く様な側近が居なかったし、彼自身がそういった類のものに全く関心を示さなかった事もある。
 しかし、次期の皇帝と半ば決まっていたのにそれの風評被害を重臣の貴族たちも傍観していたのは皇太子の人望の無さを表していた。
 即位式を控え、喪中でもあった彼を、取り巻く視線に気にする素振りも見せず後継争いで有力な家臣の力も借りず勝ち抜き、また自らの事を多く語らない皇太子を、重臣たちは遠く観察するように関わらない様に眺めていた。気味が悪いと囁きながら。
 彼はそれすらも無視して、後継者としての公務を当然の様に務め、夜に宮殿の私室で一人の解放奴隷とのこれからについてを話すのが日課になっていた。
 50をいくらか越えたと思われる解放奴隷が唯一の側近と言ってもいいかも知れない。
 彼は皇太子の家庭教師をしていた男だった。成人した後は秘書の様に使っていて、博識を生かし十分にその任を勤め上げている。
「どこもかしこも腰抜けばかりだな」
 まだ20代半ばの精悍な顔が橙の炎に舐められて半分ほどが影に隠れていた。随分とこじんまりとした一室で皇太子は長椅子にゆったりと身を委ねていて、その直ぐ傍に白髪の混じり始めた男が立っている。
「ええ。ここまでは非常に順調です。しかし、何時の世も徹頭徹尾、幸運に恵まれた事業などありはしません。陛下」
「確かにそうだ。何より名君と名高い御仁が控えている事だしな」
「はい、陛下。しかし、ここでもまた陛下はついておられます。病が彼を蝕んでいるそうです」
「だが、それは慧眼が衰えたという理由にはならん。足を傷つけられているとはいえ狼は狼だ」
「動きのままならない狼を狩る術はいくらでもございます」
「だといいがな。道具が古くては食い破られもしよう」
 冷笑気味に言った言葉を慇懃に老人は返す。
「そこまで行ってしまうと、今は何もできません、陛下」
 それには精悍の顔を緩めて声を上げて男は笑った。
「それもそうだな。こればかりは時間が必要だ。それで、誰を使うつもりだ?」
「残念ながら、ラキウス侯以下、名だたる将軍はウァレンシュタインでの戦線から離れられません。あちらは正に一進一退。下手に動かすのは危険極まりない事です」
 国境沿いにかなり広い範囲で戦線が幾重にも維持されているから将官クラスの人間――それも勇名とどろく者たち――を何十人という単位で張り付かせておかなければいけなかった。ウァレンシュタインとの戦争は父が残した大きな負の遺産だったが、これを解決に導く事ができればどれだけ自分の威信が増す事か、彼には勘案せずにはいられなかった。だが、やはりこの問題は父が先鞭を付けている。その一事がこの問題に対する彼の意欲を他が上回ってしまうほど減退させた。
 即位が間近な若い青年は自らの手で大事業を起こしてみたいのだ。
 それにその為には名将と評価の定まっている人間を使う訳にもいかない。ウァレンシュタインとの戦線が膠着しているのは何も不都合だけがあるわけではなかった。
「そんな事は分かっている。何もかもお前にはお見通しだろう」
 老人は初めて表情を緩めた。保護者面したその仕草に男は苛立ちを覚えたが表に出すのは差し控えた。まだ、気まぐれな残酷さを出すには時期が早い。
「スカルウォラは使えます。人望の高い人物ですし、統御には定評もあります。あまり目立つような人物でない事も評価できます。それに出世コースから外れて20年経っている人間です」
 初めて男は何か考える様な仕草を見せた。しかしそれも暫時の行動ですぐに老人の目に視線を戻す。
「まぁ、よい。それでやってみろ。大きな成功は望まん」
 肯定を示すように老人は頭を下げる。
 丁度その時、衛兵が外から声を掛けてきた。
「キリキア公閣下がお見えです」
 その言葉に老人と暫し目を合わせ、そして、男は溜息を吐いた。
「下がっていい。――入らせろ」
 老人と入れ違いに、女が入ってくる。
 まだ少女と言ってもいい年頃だった。あどけなさも幼さも残る顔はしかし意思の強そうな瞳の所為で大分見る者の認識する歳を誤らせそうだ。蒼の髪が肩に掛からないくらいに切り揃えられていて、その色は彼女の兄と同じものだった。
「お兄様」
「陛下と呼べ」
 間髪を入れずに訂正を要求すると、一瞬絶句した様子を見せてそれから直ぐに語を継いだ。
「……陛下。――どうなされたのですか? おに、陛下らしくありません」
 漠然とし過ぎた話だったから、男は声を上げて笑った。そして問う。何故と。
「お父様が亡くなって聞くのは良くない話ばかりです。暗くて物騒な話ばかり。まだ、亡くなって日も浅いのにそれを悼む暇すら与えられないのですか」
「そんな事を私に言われても困るな。私の責任ではない」
「でも、内容は全部お兄様、陛下の事ばかりです」
 冷たく男が見返すと流石にそれを受け止める気概はなく目を伏せたが、同じ質問を妹は繰り返した。
「お前は噂の方を信じるのか?」
「いえ、お兄様、――陛下。そうではありません。でも、だって陛下は否定なさりません」
 だから、心配になるのだ、と言外に滲ませて妹は兄を見下ろした。
 美しいと評判の妹だったが、男は彼女の事をあまり好きではなかった。まず母が違った。――帝位を争った兄と同じ母で――それに意志が強すぎて扱い辛い。数いる兄弟の中で面と向かって彼に意見を言って来るのはこの妹だけだった。他はあの兄でさえ、男が直視すれば目を伏せたものだったがこの妹だけは違う。
「それが必要な事だとは思わん。好きなだけ言わせておけばいい」
「でも、あの方の国と事を構えるなんて。なんて――なんておぞましい考え。それを野放しになさるのですか」
 結局の所、妹の考えはそれに収束する。それ以外に考える事はないのだ。
 この妹に何をどうやって植え付けたのか「あの方」には興味があったが、いつの時にも人を心酔させる様な選ばれた人間というものが出てくるものだ。決まってそういうのが出てくる時には世が乱れに乱れるのも大方の歴史で当てはまる。
 月並みに言ってしまえば、カリスマのある人間で、王にその存在を最も喜ばれたと言われていた。
 その実は知らなかったが、喜ばれただけで後には何も続いていない。その存在は最初から無かった様に今は掻き消えてしまっている。
 もう誰も思い出さない。
 現に妹には何通か婚姻を打診する申し出が来ていた。皇族と縁戚を結びたいと思っている人間は雲河の如くいて、そういう連中には妹は一際大きく輝いて見えるはずだ。
「我らの間には何も関係はない。そう何もだ」
 この言葉は妹の琴線に触れた。何時もより一段と目に力がこもり、迫力が増す。
「私はあの方の婚約者です。それでも何もないと仰るのですか」
それを男は気にする事もなく更に踏み込む発言を口に出した。
「それは、あれがまだ生きていればの話だ」
 嘲って言うと、妹は悔しそう唇を噛んだ。
 男はどう転んでも妹の婚約を取り消そうと思っていた。それは親、先代が取り決めた事だし、それが実行に移されず10年が経っている。白い結婚である事も解消の理由には十分だった。
 妹には家柄は相応しくとも虚勢すら張れない様な家に嫁いで貰おうとも思っている。そうすれば、その口にも少しばかりの重石を載せられるかも知れない。
 絶対に王妃のような高い地位に就ける訳にはいかなかった。妹の存在とその婚姻がこの国、延いては自分に取って有益になるとはとても思えない。
 この妹は殺すべきだと、彼の本能は告げていたが、流石に今その選択をするには時期が悪過ぎる。それに妹は有名だった。その美貌と意志の強さとその聡明さは民に取って希望の光と言っても過言ではないくらいの人望を集めている。
 彼女自身は婚約者の事しか想っておらず民の事など頭の隅すら一瞬も掠めもしない様な人間だったがそんな事は外から分かりはしない。男の人望が全くない様に。
 消すという事も選択としては正解に近いと思っていたが、それには目の付かない場所というのが条件としては最も大きく、それを作り出す事は今は果たせそうもない。ここで殺してしまえば、父の死にすら疑いを抱かれているのに、益々厄介事を抱え込んでしまうだろう。
 そんな愚かな選択を犯す程、自分は若くはないと思った。一つずつ、衣を剥ぐように追い詰めるのがこの妹には得策だろう
 一先ずはこの妹には自由にものを言わせておく事だ。
 強気な態度は鼻につくが、それが何かを左右する事はない。
「生きている事を祈っていればどうだ。もしかしたら、父上が叶えてくれるかも知れんぞ」


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