28.

 セレンは近くにいた従僕を呼び止めた。従僕は十分に教育された態度でセレンの「馬車を用意して貰えるか」という要求を、多分そういう命令には慣れているのだろう、折り目正しく一礼しながら「暫しお待ちを」と承服し、出て行った。
 そういう使用人を顎で使うのは実に手馴れたもので板に付いていた。しかし、その当然と思える振る舞いに些細な不自然さが見え隠れするのもまた事実だった。本当は知りもしない貴族らしさを虚勢を張って演じるようなそんな成り上がり者でも愚か者しかしないような可愛いものではなく、全く反対の上位者が下位者の振りをしているような類の事だ。
「では、また一杯貰おうかな。君はいいのかい?」
 セレンはアリスがそんな風に彼の仮面に微かに気付きつつあるのには気付いていないようだ。酔いが回っている事もあるのだろう。アリスが見ていただけでワインを1本は空け、そして更にもう1本開けようとしているのだから相当にアルコールにやられてしまっているに違いない。一滴も飲めない身としては彼のキャパシティは何か別の生き物のような気がした。いや彼女にとっては酒を人間の飲み物などと認めようとは欠片も思わなかったし、徹底的に忌避に忌避してそれに相応しいものだと半ば強迫観念的に決め込んでいた。テーブルの上には他にシャンパンやビールも蜂蜜酒やら多種多様な種類は網羅されていたがそこから目を皿にして何とかアルコールの入っていない飲み物を探し出していた彼女はそれでグラスを満たしておき、セレンの誘いには頑として受け付けなかった。
 彼としては彼女の酒嫌いを彼女の言でしか知らないのだから半信半疑でもあったようだ。正に彼にとって酒とは神の恵みであり、人類の生み出した最も価値のあるものと疑っていなかった。しかし、彼にはまだ自分の価値観を絶対だと信ずる程の傲慢さもなかったのでアリスのそれに難癖を付ける事はせずに自らは杯を呷りながら、従僕が再び姿を現せるまで、更に雑談を続けながら待つ事を受け入れるだけの余裕もあった。
「そういえば、君にはこっちにきょうだいが居るんじゃなかったの?」
セレンが放ったちょっとした好奇心から発した質問は途端にアリスの顔を曇らせる。
「ああ」アリスは自分でもびっくりするくらいのつっけんどんに返し、それにセレンは眉を上げた。酔ってはいてもセレンはセレンで言葉に潜む微妙な陰影を見逃しまではしない。しかし、それに気付いても、先ほどまでの彼女が抱えていた心の闇と関連する話題だと判断するだけの聡明さは失っていた。
「会わないんだね」
妙に抑揚のない声で言い、アリスがそれに言葉を返そうとした時に従僕が戻ってきた。
「ご用意が出来ました。閣下、どうぞ、こちらへ」
時機を逸し、アリスは従僕の方に目を向けたが彼は眼を伏せていたので彼女の不機嫌な眼差しを受けずに済んだ。
 数時間前に来た豪華絢爛なホールを取って返す間、何も言葉は交わさなかった。黙々と歩き続け馬車に乗り込んでからようやく息を吐く暇ができたようなものだった。
「それで」とセレンは混ぜ返すように先ほどの話題を引っ張ってきた。
「どうして、会わないの。安心させてあげればいいのに。心配してるよ」
家族。本当にそう呼べるものは弟妹しかいない。親はアリスを売ろうとした。あちらの方から縁を切ろうとしたのだ。だから、もう彼らは家族でもなんでもない。しかし。――しかしだ。やはり妹たちへの思いはあった。会いたくないと思わないはずはなく、家もその場所は今も事細かに覚えている。馬車の小窓から過ぎ去る風景がその記憶を強く思い起こさせる。4年前アリスがあてもなく逃げ出した通りはここだ。
こんなに後ろ髪を引かれる思いがあるというのに訪う気持ちが全くといっていい程沸き起こらないのは多分、祖国の存亡の一事に心を割かれているからだけではないだろう。
「――今の私が、一体、人の前に立てるものか」
馬車の方に寄りかかって外に視線を向けながら、呟いたその一言を残念な事にセレンは拾ってしまい、会話を続ける理由を与えてしまった。
「いつになく卑屈だね」
「そうでもない。普通だ」
「君も大概、構ってもらうのが好きだね」
くすくすとそれを気にしない素振りの声でそう言う。初めて、アリスはセレンの方に目を移した。
「――そうは言うが、じゃあ、お前が私だったら、自分を誇れるか」
セレンは小さく肩を竦める。
「少なくとも、貧民街に甘んじる父親よりはマシだろう」
その一言に鋭くセレンを見返し、セレンも彼女の強い視線を受けて冷厳そうな透徹した目を返した。
「何を不満に思うことがある。君はマリウス傭兵団の騎兵隊の指揮を経験し、今尚、隊長格である事に変わりはないだろう」
 アリスはこればかりはセレンに吐露する事を躊躇った。理由があまりにも世俗的なこと、自己嫌悪を抱いてさえいるようなみっともない些末事で彼の失望を買う事は明らかだったし――他人の評価を気にする事はありえない事だったが――それに、彼に話したからといってそれが万事解決を見るような事も望めないし、何より、そんな事まで話すような間柄でもない。これはちょっとした未来の不鮮明さと己の馬鹿みたいな虚栄心からもたらされるもので、相談したからどうなるという問題でもなく故にアリスが今回家族を訪ったりするような事は絶対に起きない。アリスは分不相応にそれを持っている人間であり、少なくとも未だ嘗てそれが満たされた事はなかった。
「――そうか。まぁ私には関係のないことだ。着いたよ」
 何時の間にか、馬車は目的地に到着して止まっており、御者が扉を開けた。まずセレンが降りて、アリスが慣れないスカートに四苦八苦するのを助けながら降ろした。
「今日は有意義だったよ、じゃあね。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 アリスにとってはもっとずっと有意義だった。挨拶を交わし、そしてセレンは再び馬車に乗り去って行った。石畳の上を転がる騒音が聞こえなくなり、アリスは自分の天幕に戻ろうと踵を返した。
郊外に張られた天幕は波状的に広がっていて辺りを覆い尽くさんとしていた。もう2000人は集まってきている残りは4隊ほどだ。 アリスはその合間を進み、配された個人用のそれに歩みを進める。それにしても、今日は幸運だった。まさか、何の利点もないと思われたパーティでエテルノとセレンに会えたし、そのおかげで気分は上向いてきて、少なくとも虚無主義に走らなくて済みそうだ。
今度の仕事が終われば(そして生き残れば)もっと色んなことを話せるというのは何故か心に平穏をもたらしてくれた。だから、暫くは義務に心を傾けよう。
 そんな事を考えながら歩みを進め彼女に配された筈の天幕の前まで来てみれば、微かに明りが漏れていた。不思議に思いながらも幕を潜ると直ぐに理由が分かった。
「遅かったわね」
間髪を入れず降ってくる声はミーネのものだった。低く抑制された声は、彼女を知らない者ならいざ知らず、人となりを知りすぎるほど知っていたアリスには何を意味するかなど考えるまでもなかった。
 個人用に張られた天幕というのは手狭なもので、奥の簡易のベッドと幕で申し訳程度に隔てられた入り口に面している何の為か多分執務の為だろう机があるだけの簡単なものだ。ミーネは執務用の机に腰掛けていた。机に肘で杖を突き、そして全く私的な時の気安さは欠片も存在せず総長としての傲岸な眼差しをアリスに向けて。
「そんな所に突っ立ってないで、こっちに来たらどう?」
問いかけで発せられた言葉だったが、拒否権など毛頭存在する筈もなく、アリスはまだ上手く状況が飲み込めないままその命令に従い、机の前に直立した。
「それで、何か抗弁はあるかしら?」
当然見上げる恰好になっているミーネだったが、そんな事は彼女の威力になんの陰りも見せなかった。
「いえ」
こういう時に何か一瞬躊躇いでも見せるのは愚の骨頂であり、それに答えは決まり切っていたのだから考えたところで仕方がない。
「そう。勿論よね。貴女は楽しく私の命令に抗って一夜を過ごしたのですもの」
冷笑めいた声は本当に彼女の怒りを端的に表していて、内心アリスはびっくりした。よもやそんなパーティごときでこんな叱責をくらうとは思ってなかったし、ミーネが些細な事で怒るような人間だとはついぞ知らなかった。
「折角、立ててあげた計画が全部台無しよ。全く親の心子知らずとはよく言ったものだと思わない?」
ミーネはアリスがどう聞いているかなどお構い無しにとうとうと喋り続けた。
「国王への拝謁も許されたのに。勿体無いチャンスを潰したわね。陛下は流石に名君と称えられる御仁だったわ。貴女みたいな人種が感銘を受けそうな人でもね」
 意地悪く言ったが、その事ではアリスの天秤は既に旧友の方に傾いていたからその傷は余り深くなかった。少しも残念に思う気持ちがない訳ではなかったが、しかし今夜が最後の機会だとは何故か思えなくてその所為で惜しむ気持ちは殆どない。多分、反対にエテルノやセレンに会えたのはそれよりもずっと幸運な事で得がたい替え難い事だ。
「それで、私に何かいう事があるでしょう?」
深い翠色をした目が何かを期待してアリスを覗き上げる。
 一瞬、なんの事か危うく聞き返す所だったが、そこは時か自分の運に助けられて一体彼女が何を欲しているかに気が付いた。気が付いたのは良かったが、そこでやっぱり躊躇った。自分では過失あったとは認められないし、それで頭を下げるなど自尊心が許さない。
しかし、理不尽な事は本当は理不尽でもなんでもなくそれが日常であるという事は薄々気が付いていて、それで言えば今回の事はまったく軽い方なのでそこで己を曲げて悪い事などない。ほんの少し自尊心に傷が付くだけで。
「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」
あざとらしい言葉は耳に痛過ぎる程響き、ミーネもそれに気付かないわけがなかったがそれで手打ちにするつもりらしく、ぱっと雰囲気を柔和に崩した。それでたちどころに気が付いた。ミーネの一連の言動は全部ふりだったと。打って変わった軽やかな笑みをミーネは浮かべた。
「それにしても、もうとっくの昔に帰って来てると思ってたわ。イヤになって途中で帰ったんだとばかり。それが私より遅く帰ってくるなんてね。何してたの?」
興味津々と言った感じの問いに、長い説明は不要だった。
「セレンと会ってた」
「セレン? ああ、ウィオーラに。――そう、こっちに来てたの」
 すっと興味が失せたように瞳の輝きが失せる。
「私に何か言付けは?」
 そういえば、彼女とは交流があった筈で、ぷっつりと手がかりもなく消えたらしかったから何かしらの言い訳があってもよさそうなものだったが、セレンはミーネの事には触れもしなかった。 「そう。――まぁ、いいわ。で、――そうか、出席してたって事は士官か」
 ミーネは1人納得した様子で、何故か寂しそうに首を横に振った。「羨ましいわね」と小さな呟きが聞こえ、ちらりと彼女の影が見えた気がして、はっとアリスは胸を突かれた。そういえば、ここ最近のミーネの挙動はアリスと比しても十分に可笑しい。ガラッシアまでの道のりのはしゃぎ様も尋常じゃなかったし、責任感の欠ける行動をちらほらと犯している。何かを抱えててそれを何かしらかで表に出ないようにしているのだが、緊張が永遠に続くはずもなくふとした拍子に表に出てきてしまう。そういう事が彼女のような人間にも起こる事は信じられなかったが、彼女も生身の人間であり、アリスとは3歳しか違わない歳であればそんな事は不思議ではないのかも知れない。
 ミーネは感情の狭間などなかったかのようにまた軽やかに語を継いだ。
「それで、楽しく過ごしてたってわけ。貴女も意外に隅に置けないわね。――まぁ、普通放っておかないか」
「別に、知人というだけだ」
ミーネはそういうのに絡めて人をからかうのが好きな人で、アリスは適当に受け流すことを覚えていて今回もそれに倣った。もう、使い古された御馴染みの手だった。
「ふふ、知らないのは当人ばかりってね。――楽しみを壊すような事はしないわ。今日はもう寝なさい。明日は早いわよ」
 ミーネは腰を上げ、出て行こうと天幕の入り口まで歩を進めた所で何かしかけた事を忘れていたように振り向いた。
「そうだ、着替えなきゃね。貴女、独りじゃ無理でしょ」
 まったくその通りだったので、アリスは頷くしかなく、またミーネに人形遊びのように散々遊ばれた後はもうそのまま、ベッドにもぐり込んだ。疲れていたのか簡単にまどろみの内に入り、それが深い眠りになるまでには殆ど時を置かなかった。
 アリスは誰かから、揺り動かされるのに気が付いて目が覚めた。
「なんだ?」起き抜けの擦れた声で状況を確かめようとすると、起きた事に気付いたのか手が離れた。アリスは片腕を枕に反対側を向いて寝ていたので、誰が来たのか確かめようと半分眠っている身体に鞭打って半身を起こし、眠気まなこを彼か彼女かに寄越した。
 彼か彼女かは彼女で、マリウスの従者の一人だった。小奇麗にした身なりで自らに自信の深そうな顔立ちをしていたが、アリスが起床時特有の不機嫌そうな目で見つめると途端に顔を伏せた。 「あ、あの、マリウス様がお呼びです。天幕に来るようにと」
 マリウスが? 一体なんの話だろう。仕事の話の筈だろうが、アリスを態々直接呼ぶなんて普通ではあり得ない。一隊長が団長に呼ばれるなんて通常の事ではなく、、一瞬、またおかしな事に巻き込まれそうだと予感が胸を過ぎたが、どうしようもない。命令への返答は一つしかない。
「分かった。――ああ、水を持って来てくれ」
了承を伝えると直ぐに出て行こうとした彼女に後ろから一つだけ命令すると、彼女はくるりと回って頭を下げて了解の意を伝えてから、消えていった。彼女がそれを持ってくるまでの間にアリスは着替えようとベッドから這い出した。今日は昨日みたいなおめかしをする必要がないのでいつも通りの地味な機能性に優れた服の袖を通す。ズボンを履き、上着を羽織りその時にいつも巻き込んでしまう髪を煩わしく引っ張り出した時に、従者は洗面器に水を張って再び姿を現した。
「そこに置いて。ありがとう下がっていい」
一礼して従者が出て行ってから、アリスはそれで顔を洗った。ひんやりと気持ちよく完全に目を覚まさせてくれる。タオルで顔を拭いてから、命令通りマリウスの天幕へと向かった。
そこにはマリウスの姿はしかなかった。
「遅いぞ」
マリウスが何の感情も見せずにそれだけ言った。
「申し訳ありません」
「よい。――気分はどうだ? 二日酔いは?」
 彼はアリスが下戸だという事を知らない。この一言はアリスの交遊関係の狭さを端的に物語るし、彼の彼女に対する興味の薄さも表すだろう。はたまた、リーダーにありがちな下位の者への好奇心の薄さから発していたのかもしれない。
「問題ありません」
「羨ましいことだ。――さて、呼んだ理由だが」
 泰然とわざと話を伸ばしているように見えるマリウスに対して苛々した。もっと端的に指令を下すべきだ。部下は自分がどんな運命に晒されるのか気が気でならないものだから、とても平常心ではいられない。
 そんなアリスの心情は殆ど顔に出ていたのだろう、マリウスは小さく笑ってから机の上に封筒を6、7枚出した。全部、高品質のものである事は遠目からでも容易に分かった。宛名はラザラ、とかフラクリナとかの都市だ。
「命令書だ。これらは陛下の祐筆であり、地方議会の議長への命令文だ」
 アリスはそれを手に取った。封蝋が厳重にしてあり、紋章が王家のもので祐筆である事を最も簡単に保証している。封筒への興味はそれでしばらく収まり、またマリウスに視線を戻し、どういう意図なのか目顔で尋ねる。
「我々の仕事はそれだ。その令状を地方のじいさん共に見せる、と言っても差し支えないかも知れんな。粗確実に呈示は求められるだろう」
 含みがありそうにくつくつと笑うマリウスは、初めて人間らしさが表に出て来たかのようだった。
 それはともかくとして、このマリウスの説明だけでは全く要領が得なかった。前後関係が不明確だし、ただ、呈示するだけというそれだけの行動の為にアリスが呼ばれるのはあり得ない。隊長の中での序列は最も低いけれど、だからといって最も劣っているわけではなかった。アリスは自分の軍人としての才能に自信を持っていたし、それが例え第一隊の隊長と比べても落ちるとは考えられない。
 マリウスが自発的に喋るとは思えなかったから彼女は水を向ける事にした。
「私は何をすればよろしいのですか?」
 マリウスは今度こそ本当ににやっと笑った。そして、祐筆を放り出した机の上に地図を拡げる。シオンの位置をアリスにも確かめさせてから指で、なぞり始めた。
「ここがウェクティス。本州と属州を分ける街だ」
丁度、北の国境とシオンの距離の半分くらいに位置する街を指す。ガラッシアは、本州と属州に分かれていて、――殆どの属州と本州の差はなくなっていたが、――それの北の境界がウェクティスという。アリスは頷いて先を促した。
「ウェクティスの以北を三分割する。西、東、中央」
縦に大雑把にマリウスはなぞった。
「それに伴い、傭兵団も三分割だ。各4隊の計算だな。西を私が、東をアニタが、中央をルクセンブルクが担当する」
「ミーネが?」
 驚いて話の腰を折ってしまった。ミーネが軍事で名を覗かせるのは初めてだった。この種の才能の乏しさをミーネは隠そうともしていなかったし、それは殆ど傭兵団の公然の秘密だった筈だ。 「そう、ルクセンブルクだ。当然だろう。我ら3人のみが他の隊長に命令できる」
嫌な顔をする事もなくマリウスはアリスの問いに答えた。理由は当然のものだったが、ミーネに長をさせるとして、――組織を運営には無論定評があるが――誰か軍事では別の人間が担当しなければ、それまで担当されるとなると心許なさ過ぎる。とそこでようやく気付き始めた。呼ばれた理由に。そして、こんなそれこそ幹部が話す内容に立ち入っている訳に。
 驚きが顔に出ていたのだろう。またマリウスがにやりとした。
「私、ですか?」
「そうだ。今のお前の正式な立ち位置はルクセンブルクの副官、つまり彼女の指揮下の隊の掌握だ。それには騎兵隊の隊長を兼任していては具合が悪いからな。取り上げさて貰ったぞ」
 イウェールからの道すがら、部下たちから、何度も呼称を言い直されていたのはこの為だったらしい。なるほど、あの時点でアリスの立場は本当に微妙なものだったのだ。
「適任は他にいるかと思われますが」
 内心、かなり嬉しかった癖して、アリスは取り澄ましてそう言った。こういっても今更それが取り上げられる事などあるまいし、余程明確にアリスの地位を保証する言葉も聞けるだろう。
「資格の面ではな。だが、分かるだろうが、お前以外の適任者はおるまい。ルクセンブルクと近く、隊長を経験し、名が通ってる――良きにしろ、悪きにしろ、――それに、テミリオンでお前は幾ら指揮した? 100か? 200か? それほど実戦で指揮した隊長など私たちの中にはおるまいよ」
その言葉はアリスの虚栄心を満足させるに足る内容で、一時先に待つ暗い未来を忘れかける程の高揚を彼女にもたらした。
アリスは運が良かった。その運を運んできたのは間違いなくミーネだ。後、セレンを加えてもいい。テミリオンでの活躍は大きく損なう面もあったにせよ、プラスの面がそれを遥かに凌いでいる。
「それで、話を戻そう。軍を三つに分けてまで何をするかだが、これは追って文書でも伝えるが、作物をダメにしろ」
「は?」
 理解できずにそんな間抜けな返答を寄越した。高揚した気分も一気に消し飛んでしまった。
「担当する地域の作物を飢えるざるを得ない程度に残して、残りを焼却でもいいし消費してしまってもいいが兎に角、使えないようにしろ。それが私たちに与えられた任務だ」
 暫く、声が出なかった。マリウスは何気なく話していたが、それは国に深刻なダメージを与えかねない作戦であり、殆ど最後の手段に近いものだ。
「焦土作戦……」
「そうだ。陛下はそれを採られる事にした」
「何故です。陛下は兵法の名家であらせられるはず」
「その陛下がこれを選んだのだ。勝算を考えての事だろう」
納得いく筈もなかった。相手は強国だし、多分、10万近い兵力を送ってくるとは聞いていたが、端から焦土作戦というのはもう負ける気でいるみたいだ。相手の将すらまだ分かっていない状態で。
「陛下は病でそう遠くにはお出になれない。ウェクティスまでが限界だそうだ。だが、当然、ガラッシアはアエテルヌム軍をまず最初、国境で出迎える。その将軍は誰だと思う? きっとお前は知らない。この国で有名な軍人は陛下だけだからな」
では、少なくとも国王は自ら以外は負けると思っているらしい。それが本当に真実なのか、いや、30年、この国は戦争をしていない。それに伴う人材の枯渇があってもそれは確かにあり得る話だ。
「ともかく、そういう事は我々には関係のない事だ。私たちは命令に従っていればよい。」
 マリウスは地図を畳み、その下にあった祐筆を纏めてアリスに手渡した。それがアリスの担当する壊すべき街なのだ。7つ。一体何人住んでいるのだろう。
 マリウスが退室を促す仕草をしてので、一礼して天幕を出た。もう、隊は準備を始めている。今日の朝着いた隊もいくつかあった筈で終結はほぼ完了しているだろう。
 それらを横切りながら、自分の天幕に戻っていっている間に、人が少しばかり集っているのを見つけた。そこは街道沿いで、ラッパや太鼓の音楽の所為で近づかずともその理由が容易に分かろうというものだった。
 ガラッシア軍が行軍していた。
 傭兵とは比べ物にならないくらいの規模でその上整然としていて、制服で統一されているし、先頭にいる司令官らしき男がマントを翻して馬を御しているのも様になっていた。
 彼らはこれから国境に向かうのだろう。侵攻してくるアエテルヌム軍を防ぐ為に。その成果を誰も期待していないとしても。
 アリスは歩みを止めて、マリウスとの会話を思い出しながらそれを見詰め、すると軍の厳格な権威のある行軍の中に上辺だけのとても寒々しい空虚さがあるのを見出した。彼らは自らの運命を知らないのだ。
 何列目か分からなかったが大分後ろの方に士官たちが、馬を進めているのが見えた。何の義務もない士官候補生たる紅章付き大隊長たちで、和やかに談笑していた。その中にアリスはセレンを見出した。
 別に彼女だけでなくてもセレンを知っている人間であれば直ぐに見つけられただろう。
 一際、振る舞いが一々大物振っていて品性のある秀麗な容貌も目を惹くし鮮やかな藤色の髪も注目を集める。他の連中とは明らかに一線を画す存在に見え、アリスはずっと彼を目で追っていた。彼も国王陛下の駒の一つだ。これから待ち受ける運命など知るよしもないし国王の描いている作戦など想像もしていないだろう。そう思うと少しばかり彼の身が心配だった。負けるのを前提としている戦で死ぬべき人間では決してない。
 ふとした拍子で彼もアリスに気付いたようだった。少なくともアリスは気付いたと思った。目が合い、セレンは不敵な笑みをアリスに向けてから小さく頷いた。
 それだけで十分だった。意志は通じ、彼に対する心配など途端に消え去った。アリスも頷き見せて、そこで視線を切り、歩みを再開した。


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