29.

遠いガラッシアで老王や貴族達、傭兵たちが戦争に備え、大童になる少し前、帝妹キリキア公爵は典型的に華やかな女性の部屋を訪っていた。ふわふわとした雰囲気に採光も明るく馨しい花の香りで彩られた部屋は俗に言う男性に好かれ易い女性の体現のようなものだった。彼女自身の部屋はもっと人を拒絶すると感じたがその持ち主である姉は人当たりのいい人だったので、多分こんな雰囲気になるのだ。
同じ母を持つ6歳上の温和な姉は結婚に失敗して今は帝宮に戻ってきていた。失敗するも何も結婚したばかりの夫たる人物が兄の――異母兄弟で帝位を継いだ――最初の毒牙に掛かって、反逆罪やら何や適当な罪を被せられて殺されたのだから、失敗というよりは破壊されたという方が正しいかも知れない。尤も夫婦仲は決して良好だとは言えなかったらしいのだが。
姉は心優しい、意志薄弱の可憐な人で、夫を殺されたのに傲岸不遜の兄の前に出るとまともに口も利けない人だったから、その兄に敢然と立ち向かって殺された剛毅な夫君とは合うはずもなかった。所詮は政略結婚に振り回されただけの哀れな女の1人で、あの兄が先帝に習って有益な使い道を思いついたら今咲いている慎ましい笑顔がまた翳るのだろうかと思うと、憐憫の情が姉に向ける視線に僅かながらでも含まれることは仕方のない事だった。この姉に対しては複雑な感情を持っていて、小動物のような弱い姿には苛立ちを覚えもするが優しくて心細やかな姉をとても好きな自分があってどういう対応をしていいのかよく分からなかった。でも、結局の所、こうして態々訪っているのだから結果は分からずとも分かっているのかも知れない。
 その姉が、優雅な仕草でポットを傾けた。カップに注がれたお茶がまたとてもいい香りだった。
「それで、貴女はまた、反抗ばかりしているの?」
優し気で慈愛に満ちた声はとても心地よい。
「でも、だって、認められないよ、絶対に。黙認なんてできない」
 この姉は政治的な事に全く無縁で野心からも虚栄心からも自由な人だったから、何の心配もなく自分の意見が言えた。この姉によって不利益な立場に追い込まれるような事態は全く想像できない。可哀相に自分を翻弄している世界には興味も素養もなく、ただ成すがままで、出来うる限り自分の周りは平穏であって欲しいと願っているような人だった。
「貴女が語気を強めたところで止められる問題でもないでしょう。それに貴女がそうする事で、あれを喜ばせてるかも知れないわ」
 キリキア公爵はカップに口を付けた。その動作をどう受け取ったのか姉も苦笑してカップを取った。
暫しの沈黙が降り、落ち着いた頃を見計らって、また姉が口を開く。
「それに、本当に攻めるかどうかも定かではないのよ。騒ぎ過ぎれば貴女の方が白い目で見られるわ」
 ふと、時折感じる姉へのどうしようもない苛立ちがこの時も彼女の中に沸き起こった。このある種の諦めを言葉の端々に滲ませる姉は嫌いだった。情熱的な公爵閣下は自分を折る事を絶対にしない。
「私は自分に正直でありたいと思ってる。嫌な事は嫌だって、言うつもり。それに、夫の権益を守る事も妻の役目の重要な一つだよ」
 彼女の行動原理に根ざしていた為に何気なく出て来た夫や妻という言葉は、本来ならばこの姉の前では今は口に出してはいけない言葉だった。
姉は可愛い妹の言葉に対応する言葉が今までより少し遅れ、一瞬、瞳が揺らいだが、それを妹に勘付かれる間際で押さえ、いつもと変わらない調子で返答した。
「それは、あたし以外には言わない方が良いわね。あれにでも聞かれたりしたら、断罪の正当な剣を与える事になるわ」
 政治の場に疎い姉でも、今しがたの彼女の発言の過激さに気付かないわけがなかった。そもそも政略結婚というものを理解していなかったし、一国の皇女としての自覚も欠落していた。内心はどうあれそれでも表に動揺を出さなかったのは流石に姉としてのプライドに守られていたからだったろう。
「分かってるよ」自嘲して妹は言う。
「私は危険分子で不穏分子なの。こんなの言えるの、お姉ちゃんしかいないわ」
 ふと、姉は自分より6歳も下の妹――父帝の期待も高く、周りの者が英邁と誉めていた――の本質を見た気がした。妹を支えているのは知性でも地位でもなく、意志に過ぎなかった。彼女の婚約者は見たこともないし、風に聞いた事もなかったが、多分余程の傑物だったに違いない。少なくとも十数年この妹を縛り付けておく事が可能な程の。
 急に不安に駆られ、この妹には言ってはいけない類の言葉が口を突いた。
「余り、遠くへ行ってしまわないでね。あたしは兄妹で争う姿なんて見たくないわ」
 軽率な振舞いに当然の如く冷ややかなキリキア公爵の返答がある。
「それは、全部お兄様次第」
それからは他愛のない話が続き、日が傾いてオレンジが差す頃合にキリキア公爵は腰を上げた。
「それでは、お姉さま。これで失礼します」
 不幸な姉の一室は帝宮の最も辺鄙なところで滅多に人が訪れない場所にあった。そこから遠い道のりを経て外に出るには、兄の私室の前をどうしても通らねばならない。そこを通らねば皇族の居住区には入れないようになっていて、それも訪う人を減じさせる効果がある。明らかにそれを狙って兄は自らの私室をそこに持ってきて、外部と皇族を遮断しに掛かっていたが、キリキア公爵は父帝の遺言により遺贈された財産が邸宅だった為に、兄の制約を受ける必要もなく、尚且つ、反撥心が強い上にそれを可能にする地位にもあったから、自由に兄の私室の前を行ったり来たりしていた。
 この日もいつもの如くそれを従事して自宅に戻ろうと歩を進めていたのだが、丁度兄の私室を通り過ぎ、角を曲がったら、やっと帝宮から抜け出す廊下が見えてくる所で話声が聞こえた。
 彼女は好奇心に駆られ、気付かれないように声が聞き取れる範囲まで近づき、聞き耳を立てた。
「……陛下には何とお礼を申し上げればよいか分かりません。再び私のような者に光を当ててくださいまして」
 卑屈過ぎる程相手に阿っている声だった。少しばかり覗いてみると、兄が手前に居て、阿っている人間が兄に向かって話していたので何とか顔を見る事ができたが、見覚えのない顔だった。
態々、廊下で喋っているのは少しばかり不思議だったが、大方男が私室に引き上げる兄を呼び止める事に成功したのだろう。と言う事はつまり男は自由に帝宮に出入り出来る特権を得ている訳であり、それは皇帝陛下から賜ったのだろう。
 一体どういう事だろうと、彼女は不信感突き動かされ無作法を続けた。
「私に感謝するよりも己の幸運に感謝するべきだろう」
 にべもなく皇帝陛下は言い返したが、それで相手の感謝の度合いが減じたとはとても思えなかった。
 直感的にこれは南方への侵攻に幾らか関わっていると思った。  皇帝陛下は即位してから、組織の改編を行っているが、行政機構の改編は2、3の部署を統廃合し首を挿げ替えたりしただけで粗終了していて、特に驚くべき人事はしていない。
 畢竟、なんらかの立場を得たと見える彼はそれらと関係ない別な分野の話の筈で、それは軍事面の可能性が一番高い。最も兄の関心が強い事柄であるし、未だ北から北東ではウァレンシュタインと緊張が続いていて将軍が何人も張り付いていて動かせず、南方への遠征の最大の障害は将の確保の難しさにあると思われていたから、この懸案事項の解決を図った結果がこの哀れな男である可能性はある。
 それにあの顕示欲の強い兄の事だ。著名な将軍を使って自分の功にならない事を嫌って無名の人間を引っ張って来る事くらいはしそうだ。
 一頻り、頭を下げて男は引き返して行った。兄はそれに一瞥して私室のあるこちらの方へ歩いてきた。
 彼女は一瞬の内に自らの状況を知覚して、大いに慌て、取り繕うように覗いていた壁から離れた。それとほぼ同時に兄が彼女の姿を認めた。
「あまり、いい趣味とは言えんな」
全部知っていたような冷たい声を響かせて皇帝陛下は妹を見下ろした。
「どなたなのですか?」
 人をバカにしたような目にいつもの如く強い調子で見返しても兄は全く動じる素振りもなかったが、妹も妹で全く兄の重圧には動じない。
「カシウス・コンミテウス・スカルウォラ。知っているか?」
 微かにその響きには聞き覚えがあった。聞いて初めて思い出すような不明瞭な記憶が。
 暫しの間、微かな記憶を頼ってそれを鮮明にしようと足掻いて該当する人物を著名人のリストから起こした。彼は確か、何か父帝の、そう確か、父の趣味の演奏会に出席した時に居眠りをした所為で左遷させられた哀れな貴族の事だ。
 それが20数年前の話で、左遷されてから貴族の気位をすっかりと忘れてしまって一見卑屈なただ無益に歳を重ねただけの中年の男性になってしまったらしい。覚えている事が確かなら左遷されるまでその世代で宰相にと嘱望されていた筈だが。
「彼をまた中央に戻すのですか?」
「お前に関係のあることか?」
「あります」
 即答にくすりと兄は笑い、今の状況が彼を非常に上機嫌にさせているらしく思いの外、容易く天敵である筈の妹に腹の内を垣間見せた。
「ああ、戻す。地方での勤務自体に欠点はないし、評価も上々だ。将軍も務まろう」
 将軍。彼女はその言葉を聞き漏らさず、胸の中で反芻した。
 この時機に必要な将軍など南方しかない。つまりやはり南征を皇帝は意図しているのだ。
「老王の相手に彼が相応しいとはとても思えません」
「お前はどちらの心配をしているのだ? それにガラッシアを攻めるとは言ってはいない」
「では、攻めないのですか?」
「それはガラッシア次第だな。先日、結んだローアンジュ条約にかの国は不満を表明しているそうだが」
 締結した都市を以ってローアンジュ条約と呼ばれるアエテルヌム、コライユ、ボシュエ、イウェールの軍事同盟は、勿論、ガラッシア王国に取って死活問題になる条約であり、これが戦争の直接の原因になる可能性は十分に考えられた。デルタ域の三ヶ国は宗主権をアエテルヌムに認め、かの地に駐屯するアエテルヌム軍の維持費を三ヶ国で折衷し、その軍事力の庇護下に入る。大よそ、ローアンジュ条約の内容だが、これだけ露骨な挑発も珍しいだろう。少なくとも巧い手ではなく、いたずらに戦争を煽っているだけのようだ。
 しかし、この条約で注目すべき事は勢力圏を多大に広げたという事でなく、デルタ3ヶ国をすべてアエテルヌム覇権内に組み込んだ事によって100年近く接していなかったガラッシアとアエテルヌムの国境が再び接する事になってしまった事だった。これによって戦争はもはや不可避とキリキア公爵には思われた。ガラッシアも軽率な事はしまいが国境が一気に中間をすっ飛ばして隣接してしまってはとても平静な気分ではいられない。特に軍事面でのパワーバランスは哀しいほど違うのだから。
 この戦争の争いはデルタ三国になるだろう。勝った方がこれらを得る。ガラッシアが得れば大河を一つ得、一つに接して、アエテルヌム本国に迫るし、アエテルヌムが取れば、ガラッシアの喉元に短刀を突きつける。
 そして、どちらが勝つにしろ、今のままでは最終的な解決にはならない。――それくらい先を見通す力は彼女にあった。この戦争が終わっても、仮にガラッシアが勝っても問題を先送りにするだけだろうし、アエテルヌムが勝っても今はガラッシアを滅ぼすまでとは行くまい。
 翻って、キリキア公爵にはこの戦争の意義が全く見えなかった。ただでさえ、もう10年になる北方での戦線の維持で財政はひどく圧迫されていてこれ以上先の見えない戦争を始めるべきではない。ないが、多分、兄は父と同じで拡張主義者だ。これは戦争を止める有効な手立てにはならない。経済を重視する有力者たちを抱きこむ要因にはなるかも知れないが。
 故に、この兄には幼稚な反抗する以外取るべき手段は見えなかった。少なくとも彼女は裏で動くにしても対決姿勢だけは鮮明にしなければ満足しないような性格で、外からこの戦争を黙認すると見られる事だけは他のなによりも我慢がならなかった。
「あんな人間が司令官では老王の相手になるとはとても思えませんが」
「全てを勝つ必要はない。要は最後に勝っていればよいのだ」
 言葉遊びに近い言葉をかけられ、不信そうに兄を見上げた。
忌々しい事だが、兄は男性でも背の高い方で190cmを越えていたから、160cm台では見上げる角度は急になってしまう。
 精神的な優位は限りなく兄の方にあり、彼女は自分の無力さを痛感した。
「失礼します」
 どうしようもなくなって、逃げるように頭を下げて横を通り過ぎる。
「スカルウォラは独身だそうだぞ」
 勝ち誇ったような後ろから刺さる声に一瞬で歩みが止まった。それで負けをまた色濃くしてしまったが、振り返らない訳にはいかなかった。
「どういう意味ですか?」
「もし、奴が成功したらの話だ」
 唇を噛む。
 結局の所、いくら反抗しようと全権の長である彼に逆らう道は殆どないのだ。


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