30.

 アリスは自分の天幕の中で机の上に乱雑に置かれた赤い封蝋を見詰めながら、ミーネとの話を思い出していた。彼女によれば、やはり焦土作戦というものは土地を基盤にする貴族からの受けは悪かったらしく、元老院は紛糾したという。
 元老院。貴族と有力な平民から成る終身の諮問機関。官職との繋がりが強くある一定の勢力で歴史は非常に長く、もしかするとガラッシアという国そのものかも知れない。いや、ガラッシアだけでなく、今から戦争をするアエテルヌムも同源の元老院を持っている。いわば、前帝国の古き善き遺産だった。
 その元老院の意思も簡単に老王は無下にできる。王といってもその権力の源泉は不安定でその地位の確保には個人的な資質がものを言うのだが、老王は流石、名君と称されるように元老院を遥かに超える権力を保持しているのだ。
 アリスはそういった小さな表面に表れた深い政治の駆け引きの結果に少しばかり気を取られた。海千山千が集う禍々しい場所は恐ろしく彼女を惹き付けた。アリスは虚栄心も野心も強い人間だったから上を目指さずにはおれなかったが、その虚栄心と野心がのさばるのを長年防いだ諦めと怠惰が無駄なことはやめろと囁きかけてきた。全くこの時ばっかりは諦めの言う通りだったので、思索を打ち切った。ふと最後に一つだけ心に浮かぶ。あのセレンはそのアリスが恋焦がれた世界にとっくの昔に身を投じているのだ。いや、と浮かんできた一瞬の内に心を支配した惨めな嫉妬を必死になって打ち消した。
 あれは元のあるべき地位に戻っただけだ。元々生まれから違うのだから、出世した同輩を妬むみたくはこれ以上馬鹿馬鹿しい事があるだろうか?
 それにアリスは自ら、その道を捨てたのだ。貧しくても才能があれば報われる道が細くともこの国にはあり、彼女は自分の才能に自信を持っていたから、その道を渡りきる自信はあった。だがその芽はとうの昔に摘み取っていたし、それを他人に転嫁した所でどうしようもない。
 なんとかそんな雑念を振り払ってアリスは仕事の方に考えを向けようと努力した。今度の仕事は中々骨が折れる問題があってその問題から目を逸らしたかったのだろう。だからきっとこんな建設的でない事を考えてしまったのだ。
 ミーネの軍団に振り振り分けられたのはアリスの指揮下で今は当時の副官が率いている第1、2騎兵隊と、第9、10の歩兵隊だった。ルクセンブルクの元に纏められているとはいえ、実質的な指揮官はアリスで、しかし隊を跨ぐような指揮官としての彼女は人望がひどく不足していた。出世があまりにも早すぎたし、その速さを納得させるような功績も年齢が生む円熟さもない。傭兵団での功績といえばシャルトルでのものしかなく、それはミーネやマリウスらに認められるには十分だったかも知れないが階下の人間にはまるで分からない才能でしかない。それに消しがたい大きな汚点があった。それは麾下だった騎兵隊からは取り除く事は成功していたが歩兵隊の間では未だ根強く、彼女に対する感情の主流を占めていた。
 年も悪い。まだ20歳に満たないというのは指揮官という役職では不利益しか齎す事はなく、ミーネが若くして登ったのは彼女がセレンと同タイプの人種だったからで、歳の不利益を感じさせない振る舞いが多分に含まれているのをアリスは感じていた。アリスにそんなアドバンテージはない。ガラッシアの出身といってもスラム街だし、正規の教育も受けていない、本当は指揮下の、ほんの数年前まで同僚だった連中と何ら変わらない。アリス程度の才能の持ち主ならいくらでもいるだろうし、そうだとしたら、彼女と他のまだ一平卒に甘んじている人間との差は些細な幸運の差だろう。例えば、セレンに認められたとか、ミーネに気に入られたとか、そんな類のだ。
  だから、アリスには指導者たるべき美徳を何一つ持っていないと自分では思っていた。更に印象が最初から悪い。
   それをどうやって乗り切るかという事が目下のところ1番の問題だった。この仕事は失敗する訳にはいかない。人生が掛かっているといってよいし、それ以上に生涯に一度あるかないかの祖国側に立って戦える機会だ。似非に過ぎないが国軍と似たような立場に立てる。義務も見返りもそれとは大違いだったが祖国の命運と自分の働きが多少なりとも繋がっていると思うと、自分でもびっくりするくらいの感情が沸き起こっていた。何もしてくれなかった祖国なのに、どうしてそんな事を思うのだろうと思ったが、多分こたえは一つではないだろう。それに今はそんな探究心に任す余裕もない。必要とされるのは、自分の愛国心に鼓舞されたやる気とそれらを超越して自らを押さえ込める透徹した目だ。失敗は許されない。
 アリスは自分を追い込んでみて、そして、採るべき手段を見定めた。ここはどこまでも憎まれ役で通すべきだ。ミーネの真似事でもいいから傲然と強権的に振舞うべきだ。下手に迎合的な態度はこの状況下では最も下策であると考えた。幸いに命を捨てろという命令は出しそうにない。そうなってしまっては信望のない指揮官ほど惨めなものはなかったが、今回はまだ信望のない指揮官でも務まる。いくら反感を抱かれていても、それだけの事で命令を聞かないほど統制が取れないわけではないし、それに全部が全部敵というわけでもない。少なくとも、騎兵隊には忠誠を期待できたから彼らを上手く使えば何とかなるはずだ。 こう覚悟を決めた後、まず、アリスはミーネを臨席させた上で隊長格を全員集め、会議を開いた。5人の少壮の(とは言ってもアリスよりも10は年上の連中ばかりだったが)隊長たちが雁首を揃えて円卓に座り、幾人かがアリスが主導する事に眉を顰めたがルクセンブルクの前ではそれを言葉にするだけの勇気はなかった。 ルクセンブルクは強権的な指導者だったし、何もその容貌だけでこの世界を渡ってきたわけではない。彼女の意に沿わなかった人間がこの傭兵団でどうなったかを隊長まで登った人間が知らない筈がなかった。
   アリスはそのミーネを使う自分の方針に満足した。たとい、自分に権威が足りないとしても、誰かの権威を利用すれば全く問題はない。アリスが幾ら有能さの引き換えに人望がなくてもそれは彼女が完全な指揮官にならなければ問題にはならない。中間管理職では有能さこそが最もものを言うのだ。
  主導権を握ったアリスは次々と計画を決めて行った。傭兵団は兵力を三等分していたからルクセンブルクには1000余りが指揮下にあったが、大きな更にそれを分けようかそれとも一つに纏めたままで行くか迷っていた。
  焦土作戦はアリスが好む所ではなかったが、好まざるからといってそれの本質を見誤るほど軍事的な才能に乏しくはなかった。最も効率的な方法はもう既に破壊するべき場所が決まっていたので考え出す必要はなかったがそれの実行の方法に迷っていたのだった。
   こういう作戦では実行する側に優れた規律が必要だ。自国軍が行っても恨みを買うだろうにそれが傭兵で外国人を多く含む混成部隊が行ったとなればその比ではない。厳格に勅命を実行したとしてもだ。この仕事はどこまでも汚れ役で、それを押し付けられるのは傭兵であり(口惜しい思いはあったが今の所それは重要ではない)しかし、必要以上に恨まれることは避けたかった。それは打算抜きの私事に過ぎない拘りだったが捨てるつもりはなかった。これを捨てるという事はまったく彼女である事を辞める事と同義だ。
   だから、規律より効率を取る事は躊躇われた。傭兵は基本的に玉石混淆で規律も良いとは言いがたいし、言ってしまえば腕に覚えのあるアウトローの集まりだから、厳しい規律を求められない。隊長たちも一般兵の延長戦上にいる存在であり、アリスの意味のない拘りを理解したりはしないし、それを実行に移せもしないだろう。
 それはもう殆ど確定事項といって良いほど可能性の高い事だったから、自分の目の届かない所に置くのはやはり危険性が高い。
 時間はある。急ぐような事ではない。それに作戦を理解していない人間に指揮を任せて失敗するかも知れない。階下の人間から信用がなかったように彼女もまた下の人間を信用していなかった。 見かけ上の効率は捨てる事にした。
そこを決めてしまうと残りは簡単に決まった。最後にアリスは自身がマリウスの命令書を直接受け取っている事を煩いくらいに強調して、自らの指揮権の正当性を確かにするように心がけた。傭兵も上からの命令が絶対の職業軍人とは言え、その縛りは正規軍より緩いもので、その保証は基本的に個人の能力に帰される。それが欠けているアリスはマリウスやミーネの権威を利用するしかなかった。
会議とは名ばかりの会議が終わり、いよいよ実行に移すことになった。
 その仕事はやはり気持ちの良いものではなかった。物々しい軍団に押し寄せられた地方の議会の長が状況を理解する暇も与えられずに勅命の呈示を受け、その言葉を理解する間もなく街は破壊された。
「執政官に抗議の手紙を書きます」
 いくつかの街を破壊して同じようにある街を破壊している最中に、ある街の元老がそう言った。
「宜しいでしょう。しかし、戦時である事を貴公は理解するべきだと私は思いますが」
 平坦に返したアリスの声に、その表情に、元老は押し黙るしかなかった。最も効果的に人を従わせる軍事力というものを保有しているのはアリスだけで、既に覚悟を決めていた彼女には脅しもなんの効果はない。何より勅命で動いているという事はアリスが1番よく知っていた。国王のサインがされた勅命に、それも歴代の王の中でも最も王権の強い老王の勅命に逆らえる人間などいる筈がない。
「どうして、このような……」
 抵抗を諦めた地方の議長の疑問は多分、殆どの国民の気持ちを代弁するものだったろう。もしかしたら老王は何手も先を読んでいるのかもしれなかったが、消耗戦を最初に仕掛けるという手段は何も知らない民衆に賛同を得られるものではない。アリスもその意見には大いに賛成だったが、折角被っていた冷厳な顔を崩す事はしなかった。
「陛下の深謀遠慮に異議を挟むのですか」
「随分と、こちらの言葉に聡くていらっしゃるのですな」
「ありがとうございます」
 母語なのだから当然とは言わなかった。外人の入り混じる傭兵団でだれが自国民だか分かるものではない。人種の違いはそれを決定的にはしもしない。強い皮肉である事にも何も言わなかった。
 それ切り元老は黙って、廃墟になる街を見ていた。齢60を越えているかに見える彼は昔の内乱を思い出しているのかも知れない。35年前のそれはガラッシアの混迷期に起こった出来事だったので、今よりもずっと悲惨だった筈だ。それを仕掛けたのも今の老王で、国王陛下は青年の頃、残酷だったと聞く。
「貴女には分からないだろうが」
 どうしても何か言わなければやり切れなかったのだろう、もう一度開いた口は、しかし、その何かを言い切る前にどこからか聞こえてきた女の悲鳴に遮られた。
 元老とアリスは、その時ばかりは、反応を同じにして聞こえてきた方を向いた。しかし、そんな要人たちの目の付く場所で愚かな事をしている筈もなく、何が起こっているのか分からない。  だが、見当は容易に付く。アリスの指揮下でも起こってしまうのだから、本当に軍を二つに分けずに良かった。
「一体、どういう」
 正当な理由から発せられる正当な抗議をアリスは無視するような形で、騎兵隊の隊長を呼び付けた。
 直ぐに目の前に進み出た、隊長にアリスは命を下す。
「あれを犯した者を全員、捕らえよ」
 頭を下げて了承の意を示し、隊長は部下を連れて消えていった。
 乱暴や略奪は固く禁じてあった。それを破れば当然、上官の命令に逆らうのであって処罰の対象になる。その懲罰も明言してあったが、やはり意味はなかったようだ。大方の兵士はそのようなものは無視し、指揮官も大目に見るのが常態化している。
 ものの数分で隊長が3人捕縛して戻ってきた。見るからに頭の弱そうな顔をしていて、へらへらと自らの行動の意味も結果も理解しているとは思えない連中だった。
「全員、殺せ」
 特に感情も篭めなかったが故に、殊更、異様な響きを纏う。元からこうなった場合はそうしようと決めていて、感情に走っている事は否めなかったが、それを押さえつけるのは無理だった。
 祖国の人間が陵辱されるのを見るのは耐えがたかったし、それに女性としての心情も大きくその思いを支持している。
 だが、本当に処刑されるとは思っていなかった男たちが喚き始めた。それにアリスが目を遣ると恐怖で引きつった顔が反応を見せたが、数瞬で意気を取り戻して声を大きくした。
「些か、それはやりすぎでは」
 ここまで厳密に規定を運用するとは思っていなかった隊長が苦言を呈したが、既に平衡感覚を失っていたアリスに何を言っても無駄だった。
 小娘の戯言はしかし、副指揮官という立場で決定的に威力を持ち、それよりも何よりも彼女は本質的に人を服従させる特質を持っていた。
彼女が時折見せる残酷な眼差しにこの場にいる人間は誰一人として抗う事が出来ず、それを今この場で発揮されたら、哀れな男たちの末路は確定的だった。
「どうした」
 中々実行に移らない隊長に向かって一瞥を投げる。底冷えするような冷酷な声に隊長は心底どう行動していいか分からなかった。
「何か、私の判断に誤りでもあるか」
 そう言ってしまえば、アリスは法的に完璧な手順を踏んで規定に効力を持たせていたし、処罰方法は文書でだけでなく口頭でも伝えている。知らなかったでは済まされない。
 ただ厳格に規定の運用を求めているだけだ。それに何らおかしい点はない。ただ、慣例に反しているというだけで。
 逆らう術などなかった。
 全てを諦めた隊長は部下に命令を下した。不満そうな部下も命令には逆らえなかった。大声で喚き散らす元仲間を強引に黙らせる。その時に初めてアリスは気付いたのだが、辺りは異様に静かだった。じっと、挙動に注視して、だが見世物を楽しんでいる様子ではない。アリスとそれ以外の意志の差が最も端的に表れていた瞬間だった。
 少しの躊躇の後、処刑は実行された。
 それをアリスは残酷な気分で眺めていた。
 全てが終わってから、ちらりと元老を見ると驚きを隠せていない目でアリスを見ていた。


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