34.

 セレン・ファビウス・リキヌスは机の上に拡げた地図に視線を向けながら椅子に深く座り物憂げな表情を浮かべていた。考えなければならないことは数多くあり、その一つ一つが彼の年齢には重すぎるものだったが、彼を悩ましていることはそんなことではなかった。
 指揮する第10軍団からこの作戦に従事するに相応しい兵士を選抜し、更に支援軍からの援助と傭兵団から騎兵隊の供出を受けた軍はウェクティスから遠く離れ、アエテルヌム軍の軍営地を迂回してずっと北の方に軍営地を設営していた。ガラッシア本隊も第10軍団の進発とほぼ時を同じくしてアエテルヌムの軍営地に向かって進軍を開始している。決戦は近い。彼に課せられた任務はその勝敗に直接は影響しないが間接的には多大な貢献を果たすことだろう。
 本来であれば、敵軍の勢力(いくら不完全であるとはいっても)圏内で行動しなければいけないのだから、前執政官格級の指揮権を持つ司令官が求められるのだが、それは戦時という混乱の中の特例と自らの特権的な立場で幾らかの者を騙くらかして手に入れたものだった。
 現職執政官がコルネリウス・ルフィヌスであることも幸運だった。彼とは幼少の頃から交流があり現段階では大きな後ろ盾となり得る人物で、人柄もよく信頼できる。それに彼には大きな貸しがあった。
 彼が、積極的に支持してくれたのも事が簡単に運んだ要因の一つだった。コルネリウスは元老院で多大な影響力を持つ一族で、史上最多の執政官を輩出している家系だ。家柄だけ見れば王家に匹敵するほど古く高貴である。その一門を束ねているのがプブリウスであり、彼の力は今の老王が無視できるレベルではなかった。とは言ってもこの人事に王は消極的という訳ではなかった。プブリウスが必要とされたのは元老院に対してで、彼の存在で元老院は大きな反論はできないでいる。
 そうやって、国の重鎮たちを巻き込んでこの地位を手に入れたのだから、結果は残さなければならなかった。いや何よりこれは祖国の存亡を賭けた戦争なのだ。乾坤一擲の一撃を見舞うのはこの時にしかなく、これを逃せば敗北の可能性も高くなる。その時の為に国王は計画を進めてきたのだから、この先のことは考えるだけ無駄というものだ。
 彼はどうやってこの任務を成功させるかに心を向けた。まずはルートを特定することが先だった。焦土作戦によって穀物の供給ルートはかなり絞られているのだから、デルタ三国からの輸送に頼っていると見て間違いない。そうなると距離が遠大になるから、兵糧庫を設置しているだろう。占領した廃墟を使っているか新たに建造しているかは分からないが大した防御力はない可能性が高い。相手はそこを攻撃されるとは思ってはいないだろうと想定されるので、そこが唯一の付け目だった。
 輸送には当然、整備されている幹線道路を使う筈だ。幹線道路は本来軍用物資を輸送する為の道路であり、効率を最もその理念に置いている。それを使わないとはとても考えられない。一日の遅滞が致命的になり得る量なのだから、敵に把握されやすいというデメリットはそれを躊躇わせる要因にはならないだろう。
幹線道路は自国内であるからガラッシアが詳細な地図を持っていて、強さも弱さも白日の元にあった。森林の真ん中を突っ切っているものもあれば、丘陵を突っ切った視界の悪い道も、それらを全部把握しているから、問題はないはずだった。
 そういうのまで勘案し尽して出した結論はとにかく早く兵糧庫の位置を特定してルートを特定すること、だった。それには偵察を向かせていたから、間もなく報告が入るだろう。結局のところ、それ待ちだった。
いずれ時が運んでくるとは分かっていてもどうにも落ち着かない気持ちだった。敵地のど真ん中で軍営しているというのに全く脅威を感じないという、作戦の遂行を容易にさせると思われる明白な証拠もなんの安らぎも与えてはくれなかった。その事象は敵が少ない拠点とそれを結ぶ道しか支配できていないので、面ではない力を線を切ることは比較的容易だろうと思わせるのだが、元々、想定していたこともあり、あまり喜びには変換されなかった。
「随分と険しい顔をしてるな」
 暇つぶしなのか、結構な時間、居座って椅子の一つを占領しているアリスが、詰まらなそうにセレンが持ってきていた本に目を通している。スラム街の出身と聞いていたが文字は読めるらしい。意外な発見だった。アリスはその退屈そうな瞳を紙面から離してセレンの方に向けた。その瞳は益々彼女を魅力的なものにしていたが、
「考えなきゃいけないことが多いからね。君みたいに状況に流されるだけじゃ生きていけないんだよ」
 彼女は分不相応に自尊心が強かったから少し突っつくと簡単に臍を曲げた。情報に疎いということは何度も指摘したことだったが全く改善が見られてなかった。それも仕方のないことで傭兵団の隊長如きでは状況を作る側ではなく流される側であることは勿論だし、元々傭兵団自体が状況の中で生きているものだ。だから、その一部であるアリスがその枠を超える能力を持っていることは殆ど望めない。そうである筈なのに自分が意外な程大きく失望の念を抱いていることもまた事実だった。
彼女とは住んでいる世界は違うが隔絶はされていない。彼が見出した原石は傭兵団などという下手な研磨師の所為で変な形に仕上がってしまいそうで、どうにかして綺麗に形を整え直されなければいけない。そうしないとこの石に価値はなくなってしまうだろう。
 彼女は得がたいオーパルの原石なのだから大事に大事に扱わないといけない。決して、使い捨てのできる駒ではないのだから。
「別に好きで流されてるわけじゃない」
 投げやりなのは諦めが多分に混じっているように感じた。彼女の家柄では見るのもおこがましい夢であることは間違いない。しかし、彼女自身はそれを夢見るに足るだろう。それと中途半端にそういう人間と付き合える環境が彼女を複雑にしているのかも知れなかった。
 それを見て取って、セレンは少しだけに彼女に優しくしておこうと思った。絶望されては困ったことになる。
「運命神(フォルトゥナ)に祈りたまえ。聞き届けられる頃には道が開けているかもしれない」
 彼女は知り得ないことだろうが家柄など本当は関係なかった。才能さえあり、有力者に気に入れられれば道が開かれることに先例がないわけではない。そして、――これも彼女は知りえないことの一つだが――彼女はその有力者の伝手を知らずの内に持っている。それもかなり有力な繋がりを。
 そういう内面の思惑を察知したのか不審そうにアリスはセレンを見やった。彼の言葉はもう既にちょっとばかり英雄の風を思わせるだけの奇妙な若者の戯言ではなくなっていたので――明らかに有力者の眷属で自身も権力のある人間の言葉は一つ一つが否応なく重くなるものだ――それを聞き逃さまいとしている。
 何かを見極めるようにセレンを見詰め、結局測りかねたのかそれを解いて、首を振った。
 それに見てからセレンはまた口を開いた。
「それにしても、こんなところで油を売ってる暇なんてあるの?」
 アリスはその問題を見ないようにしていたのか少しばかり、嫌そうな顔をした。
「部隊の統御は隊長の仕事だ、私が口を挟むことじゃない。それに、私は必要以上に姿を見せない方がいいだろう。今は」
 借り出した騎兵隊は800騎で、それは傭兵団では2隊に分けられているらしかった。その統一の指揮官がアリスであり、確かに彼女の言うことは間違ってはいないが、正しくもなかった。
 彼女はこの戦争中に引き起こした些末事に負い目を感じているようだったが、それで彼女の部隊内の権威が揺るいでいるとは見えなかった。外から見る限りでも騎兵隊にとって彼女は信頼すべき総司令であるようにしか見えず亀裂は感じられない。同志といわれる横の繋がりばかりが強調されるかの傭兵団にあって、独裁的な強固な指揮権を持つことになったアリスは異色の存在ではあるが、それが逆に指揮官として一種のカリスマを与えているようだ。少なくとも騎兵隊の中ではそう見える。シャルトルで発揮した騎兵隊の指揮能力の高さは騎兵隊の中では説得力があるのだろう。
「それなら、自分の天幕に引き篭もっておきなさい。私のところにそう頻繁に来ると謂れのない噂が立つよ」
 セレンのそういう物言いにアリスは怪訝そうに目を丸めて首を傾けただけだった。
「何が?」
 驚いたことにそういう類のことは全くの無知であるらしかった。これだけの容姿の人間がそれほどまでに無頓着であったことは些か興を覚えたが、目下の所、自らの好奇心を満たしている余裕はなかったので、適切と思われる措置を取った。
「君と私が不適切な関係にあるって」
「はぁ?」
 彼女は素っ頓狂な声を上げ、一瞬理解に苦しんだように見えたが、それを通り過ぎると途端に顔を真っ赤にした。
「そんな馬鹿なことがあるものか。私とお前がそんな――」
 絶句して最後まで言葉は続かなかった。
「私を快く思っていない人間は幾らでもいる。私は曰く付きだからね。そういう連中に取っては何でも材料になるさ」
 何もない所からいきなり現れてファビウス氏族を名乗り、ルフィヌスの支持を得た人間が信頼に足るかと言われれば、間違いなく信用できない。後ろ盾が著名過ぎる。何か陰謀でもあるのではないかと邪推されても全く文句は言えなかった。
 そういう風に元老院と少しの緊張を以って相対するのは悪いことではなかった。いずれそれは未来に生きてくるだろう。だから、アリスとの関係で何と言われようとそれをセレンが配慮するつもりはなかった。態々、ここでそれを話題にしたのはただ単に遊びに過ぎない。
「私と親しくすると巻き込まれるよ。色々なことにね」
 意味ありげに言うと、アリスは途端に天邪鬼の性質を表に出した。
「私にそっちの世界のことなんて関係ない」
 何が彼女の劣等感を刺戟したのかは分からなかったがきっと些細なことではあったのだろう。だが、そう言われるとセレンは主導権を取り戻したくなるタイプだった。
 「じゃあ、実を伴ってもいいわけだ。――言っておくが、私はそれほど人格者ではないよ」
 アリスはじっと挑発的な笑みを浮かべて見下ろすセレンを、混じり気のない漆黒の瞳で見詰める。そして、彼女は彼に負けないくらいな皮肉的な笑みを浮かべた。
「お前には、シオンでよろしくしている女がいるんじゃないのか」
 想定したのとは方向の違う切り返しだった。彼女の顔を覗くと、そこには様々な感情を見て取ることができた。アリスはプブリウスの娘にえらくご執心らしい。まったく彼女らしくない。
「言ったろう。私はそんなに誉められた人間ではないよ」
 その答えに彼女が満足しなかったのは明らかで、途端に熱が冷めたようにまた投げやりに返してきた。
「そう。――どうぞ。ご自由に」
 セレンがそれに苦笑して、椅子から手を離したのと殆ど同時に部下が姿を表した。
「失礼します」
敬礼をしてからセレンに相対した下士官は、入ってくる時に未だにいるアリスを苦々しげに一瞥を寄越していたが、それがガラッシアの大方の反応だろう。ガラッシア兵にはプライドがあり、傭兵団とは相容れるものではない。その傭兵と懇意にしている指揮官を彼らはどう思っているか、聞きたい気持ちはあったが、どうせ聞いても素直な返答は期待できないことは分かりきっていた。地位に差があるとこういう事もままならない。
「――て、偵察に向かわせていた部隊が帰還しました」
 セレンが穴が開くほどじっと見詰めていたからか下士官は緊張が表に出たらしく、少しどもった。
 このもう職歴もピークの屈強な元百人隊長が、ひょろひょろとした若い少年の様な人間の前で緊張しているなど俄かには信じられなかったが、あり得ることらしい。セレンのお高く止まった態度は少なくとも侮られることからは彼を回避させた。
「よろしい。隊長をここへ」
 報告を受けて内心、ほっとしていたが、セレンは務めて冷静に振舞った。予測していない事柄にすら動じない素振りを見せないといけないのに、全く想像の付く報告に一喜一憂していることなど知られて何の得になることはない。
天幕の外で待たされていたのだろう。直ぐに連れて来られたのは百人隊長で、彼は詳細に渡って報告を始めた。
 それに一々頷き、セレンは自らの聞きたいことだけを抜き取ろうと質問した。
「では、エニャティア街道を使っているのだな?」
「はい。それ自体はすぐに見つかりました。夥しい荷車が往来していましたから。我々は街道を遠くに置きながら北上してどこでしているのか突き止めようと行動しました。フィンニアの南に兵糧庫が立っているのを視認しました。見晴らしの良い平野の街道の脇です。防備には2個大隊ほどが駐在していました。軍装を見る限り、アエテルヌムではありませんでした。デルタ三国のいずれかだと思われます」
 役に立たないデルタの兵はそんなことに使われているらしい。しかし、これで必要なものは揃った。後は細部を調整するだけだ。
「ご苦労だった。下がって休むといい」
 百人隊長は敬礼して下がる。セレンは報告を元に少しばかり考えを巡らせてから、下官に命令を伝えた。
「戦略会議を開く。幕僚を招集してくれ」
 彼も敬礼をした後に、姿を消し、天幕の中はまた、再びセレンとアリスだけになった。
「やっと条件が揃ったな」
 アリスが全く普通の様子でセレンに言う。後を引かないのは彼女らしいと言えば彼女らしい。それか、関心がもっと別の物に移ったかだ。彼女も彼女なりに戦術を構築していたのだろう。これだけのお膳立てがあれば、セレンの思惑をなぞるのも容易いだろうが、自発的に行ったのは彼女の性向を示す一つの証拠になるだろう。
「ああ。そうだね。これでやっと行動に移せる」
「安心したか?」
 セレンがアリスに視線を向けると、彼女は意地悪そうに微笑んでいる。
 少し得意そうにしているアリスは何となく癪に障った。
可及的速やかに開かれた戦略会議は、会議とは名ばかりでセレンの計画を幕僚に理解させる為だけに催されただけだった。どういう行動を取って欲しいかを丁寧に説明し、意識の統一を図る。
 結びに、激励の言葉を挟んでその会議は終わった。隊長たちは散会し、そのまま各隊で小さな会議を開いて今決まったことを配下に教えるだろう。
 出陣したのは翌日だった。
 行軍は通常速度で2日で済み強行軍は必要ない。軍営地を撤収し、荷獣は先行させる。その他攻城兵器の作成に必要な材木も運んだ。
 丁度、日の出と共に電撃戦で姿を表したガラッシア兵に、兵糧庫の防護部隊は衝撃を受けたようで、上や下への大騒ぎを経て防備を固めた。兵糧庫は木の柵で周囲を囲まれた平坦な作りになっていた。堀もないし塁もない。それは元々、攻撃されるとは思っていなかったからだろう。本来であれば敵陣内に設営するのだから、その可能性を排除するべきではないのだが、そんなことまで気が回らなかったとしても無理はない。焦土作戦は相手に相当量の焦りを生ませたのかもしれない。
勝利をこの時点で確信したがセレンはまず、軍営を築き、その後に戦闘体制に入って戦列を並べ、じりじりと圧迫した。
騎兵は敵の陣地の背後に迂回させるように配置した。単純な攻囲戦になると見通せた以上騎兵隊は追撃ぐらいにしか用途がない。  敵はガラッシア軍に数で適わないと悟って兵糧庫の陣地の中で兵を並べ、入り口は簡易に丸太を積み上げて封鎖した。柵の前に弓兵が構えているのが遠目でも分かる。
 セレンは攻城兵器を押し並べて動員した。防御施設を破壊する為の亀甲車(防矢の為に屋根が付いている破壊槌)と高い位置から射掛ける事によって優位を図る攻城塔。これは、圧倒的な技術力の差を眼前に広げて戦意を挫く目的もあったが、流石に行った段階ではどのような効果を生んだか分からなかった。
重装歩兵には亀甲陣を組ませ、待機させた。
攻城兵器をまず前進させて、柵の前で待ち構えている敵兵に対して射降ろさせる。相手も盾で防ぎ、火矢や松明を返してきたが、それは攻城兵器の全面に張った荷獣の皮に弾かれて目的を果たせなかった。初期の段階では攻撃の人数は相手が勝っていたが、攻城兵器の有利な点を存分に生かし、戦況ではその段階で既に圧倒的だった。
亀甲車が門の前にとうとう張り付き、轟音を立てて門を壊しに掛かる。
その音か、その状況かに怖気付いたのか、明らかに相手の士気が減じるのをセレンは感じ取った。
その時だと、思い定め、セレンは亀甲陣を組んだ重装歩兵に前進を命じた。セレンは激励に馬を駆り、指揮官の証である紅の大マントは士気を盛り上げるように翻り空中に靡く。
 軍団兵に対する攻撃は強くなかった。一斉に動き始めた整然と訓練された本物の兵士を見て圧倒されたのと攻城塔の攻撃が利いている。しかし、幾らの矢は盾を貫いて軍団兵を傷つけた。
 軍団兵が怖気づくのを百人隊長が叱咤して先に進ませていく。重装歩兵の一隊が亀甲車の後ろに到達したと思った時に、とうとう門を破壊槌で壊した。
それで、勝敗は決したも同然だった。兵士が雪崩れ込み殺戮が始まる。相手は反対の出口から我先にと逃げ出した。そちらに逃げればアリスの騎兵隊の出番だった。彼女に任せておけば問題はないだろう。案の定、短い時間で掃討を終えた騎兵隊が帰還した。
「捕虜の扱いはいかが致しますか?」
戦果の報告に来たアリスが事務的な口調でセレンに報告を終える。
「帰してやれ。アエテルヌムの人間ではない者を殺しても意味はない」
兵糧庫には火を放ち、軍営地に撤収した。炎を見て、最初から勝利は見えていたが、セレンはやっと安堵で胸を撫で下ろした。しかし、これは決定的な素因にはなり得ない勝利であることには変わりはない。これに伴うであろう会戦でどちらに女神が微笑むかはまだ分からなかった。


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