35.

「我々は復讐の時を与えてくれた神々に感謝せねばならない。戦友を殺し、国土を侵し、誇りを踏みにじった奴らは今や、乞食同然だ。肉すら食いつくし、水しか残っていない。もはや人を相手にしているのではない。幽鬼相手に誇り高きガラッシア軍団兵が遅れを取るのか? 屈辱を抱いたまま復讐を遂げずに散っていくことがガラッシア軍団兵に相応しいことなのか? 戦友諸君、今こそ、ガラッシア軍の力を見せ付ける時だ。ここで行動を起こさねば神々は我らに失望し、機会をこの腕から奪い去ってしまうだろう。この一戦にガラッシアの存亡が掛かっている。諸君、余は生涯一度も敗れたことがない。余と戦陣を交えた者は皆、惨めに敗れ去った。その余がおるのだ。神々の恩寵は我々にあり、不滅の神々の呪いは奴らに向いている。何も恐れるものはない。さあ、行こう。我らの誇りと国土を取り戻す為に。卑怯な手によって殺された者たちへの復讐の為に」
 整然と出発態勢が整っている軍団を見下ろして、老王は演説を終えた。暫しの沈黙を後、兵士たちは歓声を上げ、盾を鳴らす。  士気の高さを確認して、老王は命令を下した。
「進発」

 セレン・ファビウス・リキヌスが任務を成功させたという報は元老院議員の中ではあまり好意的に受け取られなかった。というのも、その報以前からアエテルヌムは何かに圧迫されているように見え、お互い平野に布陣し終わると、積極的に会戦を挑んで来る事数度、明らかに勝負を焦っていて、それを目の当たりにしてきた議員たちの目には彼の戦果はあまり際立って見えなかったからだ。
 しかし、実際には、何か他の物に圧迫されていたとはいえ、その上で、兵糧上の致命的な問題も抱えるようになっては、ますます勝利が遠のいてしまうのだから、大きな戦功であることには間違いない。それまでは議員たちは見通さなかった。それか意図的に無視している。
 元老院議員の間には嫉妬があるのだろう。まだ、若い20歳にもならない若輩が敗戦を続けた中で、しっかりと軍を纏め、兵士を鼓舞し1個軍団とは言え、ほぼ完全に掌握した。老王はそれを褒め称え、そして一個軍団を指揮できる法務官級の指揮権を与えて別働隊に任命していた。それだけで、やっかみの対象になるのに十分だったが、それに加え出自に多少なりとも人為的な何かを匂わせている。
 彼の存在自体が疑惑の目を向けられても仕方のないものだった。
 それに対して老王は何も対策を取るつもりはなかった。これは彼の問題で、力があれば乗り切るだろう。
 恩顧を与えた恰好になった幼い指揮官よりも老王の胸の内にしっかりと根をはる問題があり、それだけで今の老王は手一杯だった。作戦として、だったのだが、しかし兵士たちはそれを全く知らされていなかった為に、負け続けてことに対して自信をすっかりなくしてしまっていた。その兵士たちの士気を回復させなければならなかったし、セレン・リキヌスの他にも策謀を弄していいて、それらは今の段階で回収する必要はなかったが、注意は払っておかねばならない。
   まずは、兵の士気を回復させることが先で、老王は幾度となく繰り返された会戦の申し出を全て無視していた。負けの味を取り除くには勝利が必要だが、それを和らげるには時間がいった。兵たちには軍営地の保塁の増強などの労働も与えて、様々な問題に目を向けさせないようにした。
 その間に、老王は敵の状態を調べたり、布陣を見て、どういう性向の司令官なのか見定めようとしていた。
 漸く時機が適ったと判断したのは、セレン・リキヌスの報告が届いて、6日後だった。軍営地に貯蔵されていると思われる兵糧を食いつぶしそうな頃合を狙った。幕僚会議を招集して、意思の共有を図り、いよいよ決戦だという空気を皆に改めて実感させた。
 幕僚会議には歴々が鎮座していた。長卓の一片の短い箇所に老王が陣取り、その左右老王に手前から有力者が次々と腰を下ろす。
 それを彼は視界に収め、重々しく腰を下ろしていた。顔色は悪く、老いが実際の歳よりも多く彼を蝕んでいたが、それらは彼の威厳を損ねることはなかった。
 椅子に肘を立て、細く骨ばった指の腹で額を撫でながら座を睥睨する。
「余は今回の作戦を考えておった」
 仰々しく口を開く。老いという熟練を経て、彼の生来の他を圧するところのある雰囲気は衰えることを知らなかった。
 会議とはいっても名ばかりだった。彼の盟友が卒去してから、指揮官の人材不足に喘いでいる。後継の育成に失敗しているという謗りは免れないだろう。それは甘んじて受けるにしても、今を、老王一人で切り抜けなければならない状況に変わりはない。 「布陣は定石に則る。最右翼の騎兵隊の指揮はコルネリウス・ルフィヌス」
 政治的には信頼のおける人物だった。まだ若いが、人望厚く壮年の中では最も能力が高い。彼が指揮するということでこの騎兵隊を最重要視していることが分かるというものだ。
「右翼はテレンティウス。中央はアエミリウス・ブカ」  前執政官格の指揮権を持つ人間を次々と挙げる。二人とも可もなく不可もない人選で、幕僚たちはそれを黙って受け入れていた。
「左翼はヘリオス」
 その言葉が穏やかな水面に投じた一つの石になった。左手の最も手前に座っていたヘリオスはまだ若い18になったばかりの少年だった。穏やかで人のよい端整な顔立ちをした貴公子だが、指揮官の風貌ではない。しかし、既に執政官を務め、今は前執政官として軍隊命令権を持っていた。少年の時分で高位の官職を占める理由は一つしかない。彼は王位継承権第二位で現在最も王位に近い存在であり、老王の健康状態を考えれば数年でその座を掴む可能性とて決して低くはない、もっともなるたけ経験を積ませることも必要だった。
 しかし、王が彼を指揮官に選んだのはそればかりが理由ではなかった。人望はあり、指揮の能力に大きな瑕疵があるわけでもない。指揮官を降順に見て行ってもぎりぎりでその篩にかかるくらいの能力はあった。確かに賭けであることには違いないかも知れないが、元々、会戦自体が神々に支配される大きな賭けの一種でもある。その中では非常に小さな賭けだ。
「ヘリオス、問題はあるまい?」
 ざわめきを制する為に、孫に水を向けると穏やかな眼差しで王を見た。やおら軽く頭を下げる。
「仰せのままに。陛下」
 死を齎すかも知れない命令を受けたにしては、全く動じていなかった。出来がいいとの専らの評判に違わなかったが、老王はそれを歓迎する気分にはなれなかった。やはり大きく見劣りする。もう誰もが思い出さなくなって久しいが、王はやはり自分が愛した才能を忘れることはできなかった。だが、それは王個人の感傷に過ぎず、それに頼り切るのはあまりに馬鹿げている。今はヘリオスが有力な跡取りであることは否定できないのだし、元老院が王者の集まりではなくなってしまった以上、それとは別の確固たる軸を国家に据えなければならない。ここで、それなりの功績を期待させることは間違いではないだろう。
 もし、ここで確固たる地位を築くのであればそれもまた運命だ。
 王が再び口を開く素振りを見せると、幕僚は押し黙った。
「最左翼の騎兵隊はマルクス・ファビウス・リキヌス」
 セレンに名を与えた彼の遠い親戚だった。老王とも遠戚関係にある。人材難の中でも信頼度はそれなりに高い。これも妥当という人選だった。
「我々は騎兵戦力で相手を大きく上回っている。奴らは既に軍馬の維持も難しいという」
 相手の兵力は全体で8万近くに登り、ガラッシアは集めに集めて5万しか揃えられなかったが、細かく兵科ごとに見ていくと勝っている分野もあった。特に騎兵が勝っているのは大きい。こちらは10000を揃えているのに対し、相手は6000程度しか擁していない。それに元々騎兵は最終決戦であるこれからの会戦に投入することに予め決めていた為に、前線には殆ど送っていなかった。彼らは負けを知らないし、また、相手はどこにこれだけの陣容を隠していたのかと驚くだろう。
 とは言っても、騎兵戦力の戦術的重要性を相手も十二分に理解しているだろうから、その不足分を補おうと何らかの策を講じる筈だ。ただ、考えもなく突っ込んでくるような相手なら、態々、焦土作戦を使う必要などなかった。その割には安々と補給線を破壊されたが、もしかすると想像以上に彼の精神状態は悪いのかも知れない。半分はデルタの弱兵が混じり、残りの半分も新兵ばかり、そして自身は数10年振りに中央に復帰したばかりだと軍を運営するだけでも大変だろうし、打ち勝つべき相手が、一角の傑物である老王とくれば、とても平穏な精神衛生は望めないだろう。その中での失策の一つなのだろう。が、それは致命的になり得る。戦術的にも幅を狭める結果になっている。しかし、それを挽回する可能性も決してゼロではなかった。
 だから、慢心することなく色々なことを想定しておかなければならない。しかし、相手がいる以上できる限界というものはあった。
「諸君、健闘を祈る」
 細かな指示は行わなかった。その必要性はないと感じていたからだった。
 次の日に、全軍が整列した中で、老王は演説を行い、そして、戦いは幕を開けた。
 戦場になった所は丘に囲まれた5q平方くらいの平野で、どちらかというと数が物を言う戦場だった。
 数時間を掛けて、両陣営は配置を終え、向かい合っていた。老王は戦場を作っている丘の一つに登った。戦況を把握するためだった。遠くから、見ても相手は混成軍だった。前線にはデルタの兵が見える。こちらから見て、左がシャルトル、中央がボシュエ、右がコライユの軍だった。
「ヘリオス」
 老王は、孫に呼び掛けると孫は振り向き、その灰青色の透き通った目を祖父に向ける。老王が物言わず、ただ目を見ていると、ヘリオスは勘良くそれに頷いた。
 戦闘の口火を切ったのは、詰まらない小競合いだった。最左翼を指揮していたマルクス・リキヌスの指揮下の斥候と相手の最右翼の斥候がぶつかり、そのまま本格的な戦闘に発展した。左翼、中央、右翼の重装歩兵が、訓練の行き届いていない様子で動き始める。
 第一列として、お互いに配置していた軽装歩兵が、一頻り矢と投石を降り注いでから、横に避ける。老王はそれが終わった後、相手が前進してくるのを確認したが自軍が動くことを禁じた。相手の訓練が不徹底なのをみて、近づいてくる時には、列が乱れ、それを受けた方が、有利に戦況を運べると判断したからだ。あるいは間違っていたのかも知れない。しかし、それを突いてくるような天才はいなかった。
 ガラッシアの軍が動かないと知った相手の反応は中々、興を覚えるものだった。シャルトルは半ばくらいに歩を進めた後に咄嗟に進みを止め、隊列を戻し、体力を幾らばかりか回付させ、それから再び打ちかかってきたが、それ以外の列は乱れに乱れた戦列でそのまま襲い掛かってきた。互いにピルムを投げ、幾らかの軍団兵の盾を破壊してから白兵戦に突入する。まばらに討ちかかって来る敵を順に殺していくのは難しいことではなかった。戦列陣は密集していなければ、圧力も威力も全くない。シャルトルの賢明な判断も彼女だけ止まった為に付け入る隙ができ、ガラッシアの攻撃力を増す結果にしかならなかった。
 しかし、デルタの兵は殺しても殺しても、歩みが止まらなかった。味方の死体を乗り越え、次々と襲い掛かってくる。その所為で重装歩兵の三翼は全て膠着状態に陥った。中でも、左翼ヘリオスは初期では優位に立ったシャルトルに大分巻き返され、戦線の維持が危うかった為、老王は予備戦力の二個大隊を救援に遣らせた。
 老王は丘の上から戦況を見詰め、敵の意図を読み取った。敵は中央突破を図っているようだ。かなり厚みのある攻撃をしていたし、まだ、後ろには無傷のアエテルヌム本隊が残っている。それで老王も中央の層を厚くして耐え切ろうと予備戦力を次々と投入して足掻いているが、刻々と情勢はアエテルヌム優位に動いていった。いずれ、ガラッシア兵の体力が切れた時に、まだ無傷のアエテルヌム軍団兵を投入されたら元も子もない。それを防ぐには、彼らの意図が達成される前にこちらの意図を達成するしかない。
 老王はわけもなく最右翼の騎兵隊が交戦している方に視線を流した。プブリウスが破れば、その時に攻囲は完成する。が、先にこちらが破られればそれで終わりだ。だが、プブリウスがそれを火急に成し遂げられるかと思うと、絶対の信頼を置くことはできない。際どい綱渡りをしていると感じ、不安な気持ちを抑えることはできなかった。
 そして、セレン・リキヌスに騎兵隊の指揮を任せればよかった、と胸の内で考えている自分に気付いた。そしてプブリウスに左翼を、ヘリオスに補給線破壊を任せればよかったかもしれない。何よりセレン・リキヌスは眼前で最も働きのよいシャルトルの騎兵隊を作ったアリス・アルトゥーラを、マリウスに問うた時も扱いは難しいと面目なさそうに言っていた彼女を自在に扱えていたではないか。彼女が1万を率いることができるとは思わないが1000くらいで突破の端緒を開くことは十分に望めた。それらを会戦に全く関与し得ない任務に就けたのは失敗だった。どこかで元老院に配慮するところがあったのだろうか。無用な混乱は避けたかったし、身内で崩れるのも避けたかった。
 それが命取りになるかも知れないと気付き、老王は自らの弱気を心の中で詰った。それから目を逸らせようと老王はいらいらした様子で戦場を眺め、さらに戦況の暗転していた箇所に救援を送りつける命令を下した。伝令はひっきりなしに老王の元に届けられ、そしてその返答をもって元の所に帰って行く。
 ここはプブリウスに賭けるしかない。それだけはもう老王の手から離れていた。そうと思い定めた時、老王は戦場を睥睨できる丘を捨てた。
 紅の大マントは兵士の側に降り、激励を飛ばした。
 ここで踏ん張ることがガラッシアの勝利に繋がる。耐え切らねば敗北に繋がる。
 病勝ちであるという老王が力を振り絞って激励する様は兵士たちを奮起させた。
 劣勢の戦線で励ましていた時、一人の百人隊長が、老王を認め「ガラッシアの誇り高き王よ。私の武功を忘れ召されるな」と言うと一隊をまとめ、敵陣に突撃を敢行した。その百人隊長は先頭で突っ込んだ為に何人かを道連れに戦死してしまったが、それで敵の意気を大きく挫き、戦況を五分に戻すこともできた。  果てがないような押し合いが何時間も続き、プブリウスは失敗したのかも知れないと疲労困憊し、余り働かなくなった頭で諦めかけた頃、敵の圧力がぐらりと揺らいだ。
 賭けに勝ったのだ、と思い、その途端老王は力が蘇るのを感じた。プブリウスが敵の騎兵隊を破り重装歩兵の側面部に突撃したに違いない。
 老王は涸れた声で兵士を励まし、最終決戦用の第4列を投入した。味方の奮戦を見ていた第四列のベテランたちの攻勢は凄まじかった。その苛烈な巻き返しと、後方から突撃されたということで敵兵はとうとうパニックを起こし、味方を踏み潰し、圧殺し、我先に逃げようと後退し始めた。密集陣は1度崩れると建て直しは利かない。
 勝った。
 騎兵隊は追撃に移り、軍団兵の追撃の指揮はヘリオスとアエミリウスに任せ、テレンティウス指揮の中央は戦後処理の為にその場に残した。平野は血で染め上げられ、夥しい戦死者の死体が散乱していた。戦死者は殆どが圧力の均衡が崩れ、逃げようとした時に味方に踏み潰されたか密集陣の中で押し潰されたかした人間だった。これから、追撃で殺される人間はそれ以上になるだろう。1万か2万か。このアエテルヌム軍はほぼ壊滅することになる。勝った以上ガラッシアの損失は然程多くはないが、それでも丸々1個軍団程度の損失は出た筈だ。この決戦に至るまでの戦死者はそれを上回るし、それに焦土作戦によって北部は殆ど破壊した。会戦では完勝し、相手の当初の目標も全て叩き潰したが、どちらがダメージを負ったかと言われれば確実にガラッシアの方だった。国土の荒廃は非常に大きい損失であり復興に何年必要か、分かったものではない。
 しかし、それでも勝ったのだ。
 久しく忘れていた高揚感が老王の中にあった。
「セレン・リキヌスに伝令。我、会戦に勝てり。フィンニアに向かえ」


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