41.

 冷え込んだ空気によってアリスは目を覚ました。半身を起こしながら、ケルトを掻き抱きぼんやりとした目で辺りを見渡す。まだ、日の出間もない時間で空気は澄んでいて日は優しい。滅多にない急激な冷え込みは眠気から意識を引き離すのを容易にした。アリスはそれを確かなものにする為にベッドから這い出る。屋敷はもう既にすっかり起きてしまっているようで、生活の音が微かに聞こえてきていた。やはり客人という立場からか、疎外感を感じた。
 地所を譲り受け、富豪の仲間入りを果たしたアリスだったが、片方はシオンの郊外にある別荘、他方はコルネリウスが貸借していた屋敷で、その名義が移りその貸借料が入ってくるというからくりだったから肝心の居住区がなく、更に1年の属州勤務が内定しており急いで決める必要もないという状態だったので、任期までセレンの屋敷に逗留することが自然と決まっていた。
 しかし、今はそう悠々とはしていられない。家族がいる、――家族。なんと心地よい響きか。これ以上の仕合せはない。初めてアリスは全てを手に入れたのだ。
家族を養わなければならない。その家主が家なき子であっていいはずがなかった。それに、ユリアとロザリアはセレンと一緒にさせてはならないと感じていた。あの2人は身内の贔屓目であるにしてもそこそこ綺麗だから、よく用心しておかないと間違いが起こらないとは限らない。
しかし、そう簡単にできることではなかった。金策も必要になってくるし、手本もなく元老院階級の生活など出来はしない。それに相応しくなるようにどうやって家族を導けばよいかなどと知るはずもなく、結局のところその権化であるセレンに相談しなければならなかった。
 セレンは一人一人と会話を持ちその意見を汲んで、それぞれが望む生活を提供した。アウルスとロザリアには家庭教師を付けて勉学を修めることになり、そしてユリアには彼女がそう頑迷に望んだので――
「あら、姉さん、早いのね」
 様子を見に来たユリアの声で思考が遮られる。のろりとしたアリスの動作などお構いなしに彼女は一度引っ込み、朝の準備に必要な諸々を用意して再び姿を現し、アリスの着替えの手伝いに従事した。
 そう、ユリアはここの召使と似たようなことをやっている。元老院階級の生活なんて真っ平だといい、慎ましくとも安住の職を選んだ。
 もしかすると彼女が1番、己を持っているのかも知れない。身の丈を知り、過不足ない生活を求める。
 だから、性格が合わなかったのだろうかとアリスはようやく気が付いた。アリスは夢を見る愚かしい若者であり理想主義者だ。  ユリアは慣れた様子で身の回りをすべて行い、その間は軽く二言三言くらいしか喋らなかった。
 すっかり活動的な姿に生まれ変わると、彼女は部屋をでた。
 この屋敷はロの字型の建物で、部屋を出ると回廊を挟んで中庭が見え、そこではセレンが水浴びをしていたのか、半裸で水滴を拭っているところだった。
 細いながらも引き締まった身体はある種の霊感に導かれた均整があった。こういうものは芸術の対象になったりするのかも知れないが、生憎そんな素養はアリスにはない。ただ、子供じみた感想を抱くだけだ。
「この寒い中よくやるな」
 回廊と中庭の境にある柱に身体を預ける。
「習慣だからね。慣れれば割と楽しいものだよ」
 セレンはタオルを側に控えていたテオドラに渡し、代わりに服を受け取って羽織った。そしてアリスの下に歩みより、頬に挨拶のキスをする。
「おはよう。今日は早いね」
「ん、おはよう。そういう日もある」
一通り挨拶の後、セレンが書斎に歩を向けたので、回廊を並んで歩く。その間、他愛ない話題から日常的な話題が続いた。
「君のきょうだいはこの生活にはもう慣れた?」
「お前の方が知ってるだろ」
 とりわけ、ロザリアに関しては。あれから10日程度しか経っていないが、ロザリアへの配慮の仕方といったら過保護と言ってもいいくらいだ。ロザリアもロザリアで初心な少女然とした雰囲気で一々セレンの嗜虐心を刺激するような態度を取っていたし。
「私の前では取り繕うよ。人にはよく見せたいものだろう」
「……戸惑っていたときもあったが、意外と順応は早いかもしれない。ただ、教師というものにはまだ慣れてはいないな」
 アリスがそう答える。人にちゃんとものを教わるということなど完全に未知の体験だから、それも当然だった。
「しかし、どうしてあの2人には勉学を?」
 もっとも素朴な疑問だった。確かに生きることには多少の知識は必要かもしれないが2人に授けられようとしているものは本格的なものだ。
「君のきょうだいだからね。いいものを持っているかも知れない。人材はいつでもどれだけいても多いということはない」
 微かに真剣な色を加えてセレンはそう言った。当然、そういうことを考えているだろうと思ったが、果たしてアウルスやロザリアが相応しいかと問われて、この世界に合っていると断言はできない。アウルスは女きょうだいに挟まれているからか荒事を避けて生きているような奴だし、ロザリアには政治なんていう禍々しいものに触れて欲しくない。
 しかし、2人とも意欲を持って勉学に臨んでいるのは確かだ。あらゆる日常の雑務から開放され他にやることもない。あって困るものでもないし、政治家ではなく学者になるのであれば、確かに果てしない意義を持つ。なにも全てが政治に結びつくというものでもないのだから、アリスも授けることに抵抗があるわけではなかったがセレンがそれを意図している点が素直に受け取れない最大の要因だった。
 加えてセレンが準備よく家庭教師やお付きの使用人たちを手際よく手配していたものだからイマイチ信頼が置けないとしてもそれは不自然なことではないだろう。どうしても邪まなものを感じてしまう。
 彼はアリスが迎えに行くことを予期していたのだろうか。もしかするとそうかも知れない。彼女がどれだけ妹たちを大切に思っていたかは知っているはずだし、安定した生活を手に入れた以上躊躇う理由がないことも分かっていたのだろう。
 話している間にも歩みは進み、書斎に到着した。
入ると、夜の間に届いた手紙が山と詰まれていて、セレンはその一つ一つを手早く目を通し、しかしその挙措は洗練されていた。アリスにはその一通一通の価値はさっぱり分からなかったが、セレンは明確に扱いを変えていた。とりわけ、ある一通を開くなり満足に満ちた表情を見せた。
それが一区切りになってセレンは書斎で手持ち無沙汰に突っ立っていたアリスに意識を向けた。
「今日は饗宴の前にコルネリウスのところに伺候に行くのだけど、同行するかい?」
「エテルノのこと?」
 彼女は3、2日前から風邪で寝込んでいるという知らせが届いていた。
「まあね。お見舞いも兼ねて。君も来ると彼女も喜ぶだろう」
「お前1人の方がいいと思うけど」
 探るように言うと、彼は苦笑した。
「まぁ、その辺りは配慮するが、プブリウスが君にも会っておきたいと言っていたからね。とりあえず付いてきて貰うよ」
 結局の所、拒否する選択肢はないらしい。だったら、最初から意見なんて聞かなければよいのに。
 まだ山は半分くらいだったが、それにはもう興味をセレンは示さず、テオドラを呼び、外出の準備を命じていた。
 数十分かけて装いも全く新たにした後、2人はルフィヌス邸に赴いた。
 さすがに大貴族の有力者の元には長蛇の列が並んでいて、恐らく半分以上は明日に回されると思える量だった。
 プブリウスはセレンを認めると特別待遇で邸内に入れ、それまでの伺候を打ち切り長い時間順番を待っていた庇護民たちを追い払った。
 アンティークで飾られた応接間に通されたが、セレンはエテルノを優先し、彼女の元に姿を消したから、そこにはプブリウスとアリスが残された。
 蜂蜜水を勧められ、アリスはプブリウスの向かいに座った。今見れば、確かにエテルノと似ているところがあった。勘のいい人間なら気付きもしただろう。
「どうだ。この世界にも慣れたか」
「ええ、多少は。饗宴は苦手ですが」
「まぁ、時間が解決してくれる問題もある。しかし、近い内にそんなものに煩わされることもなくなる筈だ」
「どういうことですか」
 プブリウスは予測が外れたように間抜けな顔でアリスを見た。
「何も知らない?」
「何のことですか」
 全く心辺りがなかったらアリスは物怖じすることなく言い返す。プブリウスは切り口を変えるようにまた引き締まった顔を見せた。
「セレンの任期は半年だ。夏には戻ってくる。つまり、再来年の執政官選挙に出馬することが可能だ」
 その言葉には驚きを隠せなかった。しかし前ほどその言葉に劣等感を抱くことはなかった。セレンがそう階段を登っていくことも嫉妬の対象ではなくなっていた。
「執政官選挙に出るのですか? 当選する見込みがあるとは思えないのですが」
 いくら老王やプブリウスに評価されているからと言って、執政官にはそう簡単に当選するものではない。セレンは全くといっていいほど功績を挙げていないし、民衆の好奇を買っているとはいえ、本来それを大々的に行う造営官に歴任していないから、支持は確かではない。そんな中でもし本当に出馬するとしたら何か、別の意図があるのだと思わなければ納得できないようなことだ。
「その時には状況が変わっているかも知れない。今が永劫に続くわけではない」
 何かを仄めかしているプブリウスだが、アリスには全く分からなかった。属州総督で彼が功を挙げることの期待とも取れるし、それとも、全く彼の存在そのものの価値が変わっていくとも取れる。
 しかし、本質に関わることではある。そういう彼の存在のあやふやさは薄々とは感じていたが、深く踏み込めずにいた。踏み込んだら最後どこまでも引き摺られてしまうのが分かっていたし、それだけを決意するだけの勇気がなく、いや、本当は今更なのだが、ともかく彼女はそこに触れることだけは避けてきた。
「話しておきたいこととはこのことですか?」
 アリスが少し不機嫌に話題を変えたのを見てプブリウスは年上の余裕か微笑んだ。
「いや、では本題に移ろうか。個人的なものだ。ただ君の親切心に訴えて頼みたいのだが私の不在の間、エテルノのことを気に掛けてもらいたい」
 一転して本当に個人的なことだったからアリスは拍子抜けしたのを表に出さないようにすることに必死だったが、それでも多分プブリウスには気付かれただろう。彼は苦笑し、その親ばかの言い訳を始めた。
「勿論、リキヌスがいるし、心配しているわけではないのだが、彼も忙しい。中々自由な時間はとれなくなるかも知れない。彼の他に頼めるとしたら君だけだ。あの娘の友人は君たちだけだからな。――私は5年も空ける。やはり心配の種は少しでも減らしておきたいのだ」
 言っていることは尤もだったが、やっていることは完全に行き過ぎだ。エテルノは賢明な女性だから、そんな心配は杞憂に過ぎないだろう。友人が少ないというのは心配の種にはなるだろうが、エテルの性格は元々そう多くの友人に恵まれるタイプではない。
「まぁ、友人として、気は掛けています。今もこれからもです」
 セレンが戻って来てこの話はそこで打ち切られた。丁度タイミングも良かったし、アリスはセレンに話を振った。
「エテルノはどうだった?」
「うん、割と元気だったよ。君も来ていると聞いて喜んでいた」  時を置かずして、セレンとプブリウスの話が始まりそうな雰囲気を見て取ってアリスはこの時間を利用してエテルノを見舞おうと席を外そうと腰を上げたが、即座に二人して引き止められた。 「何も君に知られたくない事を話すわけじゃない」
「むしろ、お前も知っておいた方がいいだろう。これからはな」  そして、セレンは奴隷が持ってきていた水割りの葡萄酒を受け取り、アリスの隣に腰を下ろす。次期属州総督同士に相応しい会話はプブリウスから始まった。
「焦土作戦で土地を荒廃させられた者たちがクラウディウスに陳情を行っています」
「クラウディウスに?」
 セレンは些か驚いた様子だった。プブリウスはええ、と落ち着いた様子だ。
「彼には共和派も近づいている気配もあります」
 彼らは古きよき時代を標榜する懐古主義の集まりだ。
老王の権限は様々な異なる官職の権限を集めて王権としている。
元々は1人が併せ持つことはありえないことで、それを有り得ないとする状態に戻すことを、それを解して権限の分散を志している。頑強な人間が多く個人としては誉められる人種が多いが、強硬手段を執りかねない過激さがあるという。
「王位を継ごうとしている派閥に彼らがアプローチするとは意外だな」
「ヘリオスが即位すれば、周りの首領が力を得る。クラウディウスに付け込めば王政を廃せるかも知れない」
「いかなクラウディウスと言えどそこまで愚かではあるまい。今からの時代、昔の政体に戻ってどうするというのだ」
 セレンは憤然としていた。共和主義には反感を持っているらしい。プブリウスはそれより少しは冷静だった。
「権力を得れば人は変わるし、主義主張に現実は関わり合いを持たないものだ。事実、クラウディウスは変貌しつつある」
 それが、老王に反感を抱く者たちへの対応だというのだろう。セレンはそれを確認し、プブリウスが肯定を示した。
「ええ。先の戦争で資産を失った者がかなりいます。その補償は考えられていますが、規模が広範に亘っている上に市民も被害が多く彼らを優先せねばなりません。そうなると元老院議員には国体保持の義務がありますから、払った犠牲に補償は必要かということにもなります。流石に全くないという訳はありませんが、その観点から言うと1人に割り振れる額は当然少なくなる。歳出の観点でも支出は抑えたいですからね。しかし、彼らにはそれが不満でしょう」
「それは貴方が解決するべき問題のはずだ」
 確かに、次期総督であるプブリウスはそういった問題を捌くことを期待されてその職に就くはずだ。当事者であるはずの彼が客観的に述べる様はどこか可笑しかった。
 その指摘にもプブリウスはふてぶてしいと言える態度で応じた。
「勿論、そうです。私も当たっています。しかし、元々焦土戦を採ったことで不満が出ているのです。正々堂々と戦うべきだったと思っている議員は多い。ここまで犠牲を払う勝ち方を選ばなくても、と。被害を受けた奴らは尚更です。当然勝ったからいえることではあるのですが。彼らはそれを主導した私に反感がある。そして、反対だったクラウディウスに元に行く」
「クラウディウスは強硬論を唱えていたね」
「だが、今までのクラウディウスにとって彼らは反国家主義者と映っただろう。彼は決定には従ったのだから」
「だが、今は迎合している?」
「ええ。あの厳しい老人には似合わぬ態度で」
「しかし、安易な結論は出すべきではないな」
「確かにまだその面を出したわけではありませんからね。ですが、危険性はあります。これではヘリオス殿下の身さえ危うくなる」
 そこからは更に秘密めいた色を増してきた。アリスは完全に取り残され、セレンもプブリウスも真剣な表情で意見交換を行う。
政治の裏の話だ。議員たちの利害関係を整理したり、それで脅せる人間を選定したりスパイに使える人間を決めたり。
 ただ、アリスに分かるのはクラウディウスの動向を探ろうとしているというだけだった。
「だが、何をしようと奴らの思惑が完全にそのまま進むことはない」
 すっかり手を打ってしまったのか、セレンの声には張り詰めたものは消えていた。
「まぁ、そうですね」
 プブリウスも苦笑し、その意味を取れていないのはアリスだけだった。2人が留まれと言ったのに、全く説明しようとしないので、アリスは不機嫌さを装いセレンに噛み付いた。
「一体、何の話をしているんだ」
 その言葉にセレンはいくらか驚いた様子でアリスを見た。
「分からない?」
「ああ、全く」
「セレネス、貴方は彼女にまだ何も教えていないのでは」
 プブリウスは先までのアリスとの会話で確信を得ていたのかセレンに問う。
 セレンはそれにいくらかの疑問を示すものの、正しいことを認めた。
「え、ええ、ちゃんと話したことはないが、知っているとばかり思っていた」
アリスはその仕草をみて、もう完全に、どういう類のことかは悟ってしまった。ここで覚悟を決めねばならない。退路はとっくにないのだ。セレンの本性を聞き、どこまでも彼に左右されなければならない。
こうなることはずっと昔から分かっていた。自ら踏み出す勇気はなかったがこうして状況に流されるのであれば決心は意外と簡単についた。諦めともいうかも知れない。本当は自らの意志で決めるべきだったのだろうが、結果が変わらなければそれでもいいだろう。
なるべくして、という思いもあった。こうならなくては先には進めない。アリスは初めてセレンの存在に踏み込む覚悟を決めた。 名前は知っている。セレンではない名前。全然、隠されていないけど、他の人間はそれでも不審に思っていないのだから、この名前にはあまり意味がないと踏んでいたのだけど、そうでもないらしい。
だから、とりあえずこれで糸口を掴まなければ。
「セレネス?」
「そうだよ、アリーチェ」
 満足そうにセレンは頷いたが、それでは何も進んでいなかった。せっかくの糸口が簡単に切れてしまって、益々困惑の色を増すアリスに、プブリウスが2人の間を取り持った。
「それでは気付くはずがない。この国のどれだけが貴方の名前を覚えているものか」
 セレンは少し不服そうにしたが、自身で感じていることがあったのか、ちゃんと言葉で説明を始めた。
「どこから話そうか。――今、私はファビウス・リキヌスを名乗っているがこの名前をくれた人は、本当は私の大叔父なんだ。そして、彼は陛下の甥でもある。私には弟がいると言ったよね? 彼は私の一つ下で名はヘリオスという。私が月で弟は太陽だ。そう。私は陛下の孫であり、彼に最もその将来を嘱望され呪われた――父によってその存在を消し去られた哀れな王孫だよ。不思議に思うことはなかったか? 私はまだ20歳の若造なのに、ここまで優遇されている」
 それはそうだ。何かの配慮が働いているのは薄々気が付いていた。しかし、それが何の為によるのか、とてもアリスに予測の出来たことではない。ファビウスの子弟でありコルネリウスの恩顧を受けているのであれば不思議ではない出世スピードだった。総督になるまでは。
 今回の昇進で3つほど名誉あるコースの官職を飛ばしている。本来であれば35歳前後になる筈の総督職を15歳早く務めているから異例といえば異例だ。だが特例を認めてしまう戦争と言う情勢で特異性は大分薄められてしまっていた。それだけで彼の存在そのものを疑うのは不可能だ。
しかし、そうしかしだ。漸くアリスも思い出した。王族の忌まわしい出来事を。継承権を剥奪された王太子の代わりに一位に躍り出た行方知らずの王太孫。
 王族に近い名門に優遇されるセレンは確かに、その影を感じさせる者かもしれない。仮に、王族、しかも継承権の最上位に位置するなら出世は遅いくらいだ。ヘリオスは既に執政官を経験している。老王の健康状態は最悪に近く先は見えないのだから、幼い後継者たちを形だけでも作っておかねばならないと計画を前倒ししている。
「でも、なんだってこんな面倒なことをしてたの?」
 セレンは人悪く笑う。
「今話したとおりだ。折角セレンという身分を手に入れたのだから、それを活用しようと思ってね。お陰で、色々なことを見ることができた。おまけに、わたしに反対しそうな人たちは固まりつつあるからね。これは望外の成果だ。ヘリオスには感謝しないといけないな」
「その得たものを何に使う? 粛清でも考えているの?」
 咄嗟に出て来た問いがそれである事もセレンが排斥された一因のように思えた。多少なりともセレンの人となりを感じ取っていたアリスが抱いたものは当然、彼を幼い内から接していた人間も感じたはずだ。老王はその治世の初期を血に染めた。王族は皆殺し、その支持者たちも根こそぎに屠り去ったという。その犠牲者は粛清されただけで5000人程度には上ったはずだ。どうしてもそれがチラつく。老王に最も嘱望されたセレンが彼に似ても不思議はない。が、その懸念は簡単に否定された。
「ことはそんなに簡単ではないよ。でも纏まっていると、対応はしやすい」
 意外なことにこの国は一枚岩ではないのだ。保守、革新、穏健。加えて個々人の様々な欲望が織り交ざっている。
 その中でセレンとヘリオスの支持基盤は保守層だが、それが2人で割れている。コルネリウス、ファビウスを中心としたグループが未だ老王に絶対の忠誠を誓う中で、クラウディウス一派がヘリオスに重きを置き始めている。それに加え、先の戦争で決定的になった老王に反感を持つ層や共和派がヘリオスに近づいている。最大会派は穏健だが、統一されてはいない。
 なるほど、状態が見えてきた。
 この中に失踪していた王孫が突然戻ってきたら、当然混乱を生む。しかもその時期はアエテルヌムとの戦争の前夜だった。一大事件を巻き起こした当人、加えて継承権に関わる人物の存在はその時にはマイナスにしか働かないだろう。しかし、老王はセレンを対アエテルヌムで使いたかったに違いない。軍事的な才能の枯渇とセレン自身の才幹がそうさせた。だから、こんな周りくどいことを許したのだ。将来に懸念を生むかもしれないこの愚行を。 セレンもそれを利用しようと考えた。偽りの人物を政界に割り込ませることで、混乱の変わりに反感を与えた。そして、目標を達成したのを見て彼は王族に戻るのだ。その時、混乱は極地に達するだろう。
 それが来年の執政官選挙というわけだ。見る事ができないのは些か残念だったが、こうして先に知らされているのは悪い気はしなかった。
「私が王族と知っても、驚かないね」
 驚かれることを期待していたのか、セレンはおもちゃを取り上げられた子供のようだったが、アリスは平坦に答えた。
「別に、今更だろう。お前の魔法なんてな」
 本当は動揺していた。それが表に出なかっただけアリスも成長したのだろう。これだけ近かった人間が次代の国のトップだと聞いて狼狽しないはずはない。いくら薄々は感じてはいてもだ。
 そんな内心は他所にセレンはそれもそうだと笑み、話はまた表層の話題に戻っていった。
「ヘリオスがいる以上、彼らも下手な動きはできないが、私の存在で危機感を感じるようになるだろう。先鋭化するとも限らない。元々私は呪われた王孫だからね。排除しようとする動きは当然出てくるはずだ。父上のようにね」
 最後の言葉には、冷笑、いや自嘲を含んでいた。
「反対派は一つに纏めてしまいたい。しかし、できれば内乱は避けたいところだ。馬鹿げたことでもあるし、国力がもう残っていない。アエテルヌムの動きも気になる」
 セレンはそう言うと額を指でなぞった。
「だが、情勢的には不可避と見ざるを得ない。プブリウス、スッラにも悪い噂があるな」
 西の一際大きな島の総督だ。内海に浮かぶ島々を統括し流通も支配する。その上、そこは麦の一大生産地でもある。ガラッシアの喉元で優秀な人材を配すべき場所だった。もう、何年に渡って一人の総督がその任に当たっている。それがスッラであり、彼は優秀さとそれの当然の帰結としての野心家で有名だった。彼が心服していた老王の治世が終わりの見えている中、不穏な動きを始めている。
「ええ、彼には手を焼いています。私に対してはまだ従順な態度を装っていますが、裏では何をしているものやら」
「彼の統御を失うことは市民の安全を脅かすことになるのだ。無論、それが分かっているからのことだとは思うが。手は打たねばならん。私も微力を尽くしているが、やはりここは貴方に頼むのが筋だろう」
 信頼を示すように言うとプブリウスは軽く頭を下げた。
「国内がこう不透明な情勢の中での更に講和条約があるな。これでは講和が必要なのはガラッシアの方になるか。足元を見られるわけにはいかないが……」
「全権委任はトゥルキュルティスです」
「分かっている」
 急に不機嫌になり、セレンは押し黙った。話はこれで終わりだという雰囲気が覆った。
今度こそ、エテルノを見舞おうと腰を上げても邪魔は入らなかったから、判断は正しかったのだろう。
アリスが部屋を訪うとエテルノは半身を起こして彼女を迎え、 「どうぞ、すみません。こんな姿ですけど」とは言う彼女だったが、髪はちゃんと梳っており、身に纏っているものも上等な絹で出来たものだ。見苦しい箇所などどこにもない。だが、咳をし、頬がやや赤い姿はやはり病人だった。
「あまり長居はしない。身体に障るといけないからな」
「体調は前よりいいです。そろそろ戻していかないといけませんし、大丈夫です」
「そう、ならいいけど」
 知らず優しい声になっていた。セレンやロザリアに対するのとも違う。ミーネとも違う。同年代の友人というのはこういうものなのだろうか。
「父とはどのような話を?」
 エテルノが水を向け、アリスはそれを大まかに手短くまとめて話した。エテルノはそれを聞いて苦笑を漏らしたが、楽しそうだった。
「少し過保護気味なところがありますからね、父には。何年か離れていましたし、仕方のないことなのかもしれませんが。でも貴方も1年、南に行かれるのでしょう?」
 結局、セレンが帰ってくるのが最も早い。しかし、選挙の準備もあるだろうし、あまりエテルノに構ってはいられないだろう。その間、彼女は独りだ。
 アリスが考えたことにエテルノも思い至ったのか、慮るように言った。
「私は大丈夫ですよ。もう子供ではありません。その間は学問にでも捧げようと思っています。神殿の改修の件も大詰めですし、時間を持て余すことはありません」
 神殿のことはアリスは何も知らなかったから尋ね、今度はエテルノが喋る番となって彼女は熱心に語った。材料や規模を事細かに喋れど根底に流れているのはセレンに対する想いで、アリスは自分が多少なりともそれを複雑に感じていることに驚いた。
 その話が呼び水となって話はどんどんわき道にそれて行き、結局、今日のメンイベントにまで行き着いた。
「貴女には一つ、お願いがあるのです」
 いつになく神妙な面持ちでエテルノは話を切り出す。アリスが先を促すと頷いて話し始めた。
「今日の、アエテルヌムの使者の歓迎会ですが、私は出ることができません。ですから、お願いです、どうかセレンの同伴を務めてくださいませんか?」
 エテルノとしてはかなりの勇気と克己心が要ることだったに違いない。アリスも言われてそれがどれほどのことか推し量ることはできたが、しかし否定するよりなかった。
「私に勤まるものか」
「いいえ、十分に務まります。あなたなら。それにあの人を1人で行かせるよりは何倍だってマシです。ね、お分かりになるでしょう? 私たちにとっても貴女が務めてくれることが最も仕合せだと思います」
 微妙にお互いの胸の内を探り合う間が続き、その時ばかりは友人ではなかった。アリスもエテルノも慎重に深部に踏み込むのは避け、表層からお互いの感情を読み解こうと言葉を選んだ。
 それは多分お互いに論理的な思考から発するものではなかったが、それ故に本質を突いているところがあったのかもしれない。
 結局、エテルノに押し切られる形でその件には了承することになり、苦手である饗宴が更に気に重たいものになってしまった。  その気まずいものが通り過ぎると一転、場はまた再び滑り出し、時を忘れて話に花が咲いた。エテルノの健康を心配したセレンが顔を見せるまでそれは続き、あきれ果てた彼に2人して慌てたりと、子供っぽさが蘇ったりして中々楽しい時間だった。
 大規模な饗宴は午後の内から始まるので、話もそこそこに切り上げなければならなかった。また訪ねる約束を交わしてから分かれる。ルフィヌス邸からの帰る道中は饗宴が話の中心だった。
「で、今日は君が私のお相手をしてくれるわけだ」
「ただの目付け役だ。なんの特典も付いてこないぞ」
「君を連れて歩けるだけでメンイベントだけどね。まぁ、ちゃんとした君を見るのも一興だろう。楽しみにしているよ。テオドラを貸そう」
 屋敷に戻ると、一息つく暇もなく饗宴に相応しい衣装の為の着せ替え人形にされた。
 何人もの使用人に囲まれテオドラが手際よく命令しているのを聞きながら、アリスの機嫌は悪くなる一方だったが、2時間掛けて準備を終えた後にロザリアから誉められるとそれだけが2時間を無駄にした慰めだった。
 セレンも言葉を尽くして褒め上げ、これが彼の人気の一因だろうが、アリスは気恥ずかしさを感じた。
 時間を見て、輿に乗り王宮へと出向く。まだ、完全には始まっていなかったがそれは半年前に出席した国王主催のパーティよりももっと豪華絢爛で、主賓が大帝国の帝妹であることに何の失礼も無かった。
 セレンに腕を預けているだけで、他の男は寄ってこなかったし、能動的な活動もする必要がなかったので、アリスは存分に観察することだけに意識を傾けられた。セレンが挨拶に出向く要人、反対に挨拶に来る若い貴族や平民の子息。その表情は様々だった。露骨に嫌悪を示す人物はいなかったが、中堅以上の層では、快く思っていないと思われる人物が多少なりともいた。それに態々挨拶するのだからセレンは維持が悪い。反対に同年代の人々は殆どが好意に彩られていた。
ヘリオスが主賓を伴って現れた時には、場は静まり返った。
 こんな宴を催しているが、まだ講和条約の目処は立っていない。敵意の篭った目を向けられたりしていたが、流石に権力者は泰然としていた。
一瞬の沈黙の後、宴は元通り。皆が自分の事に戻る。
 ヘリオスはセレンの元まで彼女を連れて2人を引き合わせた。
帝妹トゥルキュルティスは気品のある顔立ちをした明晰そうな少女だった。
ヘリオスが2人を紹介する間、彼女はセレンの見詰め、ヘリオスが彼女の手を取って口付けし、また顔を上げたときには、驚愕に目を見開いていた。
アリスの位置からはセレンの表情は覗えなかったが、おそらく内心はほくそ笑んでいただろうが鉄面皮だったに違いない。
それにしても彼女もたったそれだけの挙措でよく気付いたものだ。
時間を大分置き、皆が自らの興味のあるほうへと戻り、貴賓に意識を向けなくなったのを見計らってセレンはヘリオスやトゥルキュルティスと共に姿を消した。
 アリスは1人取り残され、手持ち無沙汰に突っ立っていることを余儀なくされた。
「女神に声を掛ける栄誉を私に下さいますかな」
 1人になった途端に声を掛けられる。これだからパーティは嫌いなんだと毒付きたくなる気持ちを押さえ振り返ると、ゴブレットを二つ持ったホルタスが立っていた。
 アリスは警戒を解き、彼が差し出したゴブレットを受け取って軽口を叩いた。
「今の台詞はちょっとどうかと思うぞ」
 ホルタスはどこ吹く風で飄々としている。
「別に本気なわけじゃないからいいんだ。それにしても心底嫌そうな顔をしていましたね」
 肩を竦めるだけに留め話を変える。
「今日は不作か?」
 ホルタスも女の噂が絶えない男だ。セレンのお気に入りの1人の若い貴族で、とかく目立つ存在であった。セレンは自分に似ている人間を好む。
「それどころじゃないでしょう。――大事な人たちが見えませんね」
 人目を引かないように退場していたのに、やはり気付く人間はいる。態々、ホルタスがそれをアリスに分からせる意図はなんだろう。アリスはただ、視線を意味ありげにやるだけで言質は何一つやらなかった。
「何の話でしょう。条約の話? 別な話? それともそのどちらともでしょうか?」
「さあな」
 アリスが貝になっているのを見てホルタスはアプローチの方法を変えた。
「トゥルキュルティスは聞くところによると国内では保守の信望が厚いそうですね」
「彼女の取りまとめならば、国内は納得するということでしょう。前帝に可愛がられた方です」
 アリスは注意深くホルタスの顔を見た。得意気に喋るというよりは達観しているような平易な喋り方だった。
「つまり、皇帝はあまりこの条約の中身には拘泥しないということです。分かっていますよ、アエテルヌムがあの敗北で失ったもはなにもないとね」
 そう言ってから、彼は一呼吸置き、
「幾人が、密偵でしょうね」
 グラスを持った手で周りを示した。その先にはガラッシアの要人に混じりアエテルヌムのそれらが談笑していた。
「ですが、皇帝にも予測できなかったこともあります」
 示し合わせたかのように、セレンたちがにやりとしたホルタスの顔の後ろに姿を現した。トゥルキュルティスは上首尾だったのが明白な上機嫌でありセレンは口を真一文字に結んで厳しい顔をしていた。
 セレンはアリスになど見向きもせずにその前を通り過ぎ、出口へと歩を進ませる。急いでアリスは彼を追いかけて声を掛けても全くの梨の礫だった。
その態度にカチンと来たアリスは、早足で宮殿を出、階段を下りきったセレンに向かって階上から声を荒げた。
「セレネス」
 漸くセレンは振り返り、それをアリスは見下ろした。
「一体どうした?」
 イラつきを隠しきれていない言葉にセレンは素早く冷厳に言い放った。
「君に話すことは何もない」


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