43.

 如何わしい宿から姿を現した中年の男は朝の強い日差しに眩しそうに顔を顰めた。よれよれの軍装で、それはガラッシア正規軍団兵のものだった。折り目正しい軍人をこの南部属州で見ることは稀だ。深紅であったマントはくすんで栄光の輝きは全く消え去っていたが、印象とは違って解れは見えず、それだけでやや上等のものであることが知れた。
彼の所属する南部属州担当の第8軍団はガラッシア最弱と笑われてきた不名誉な軍団である。国境の守護を任せられてはいるのだが、南から責めてくるような確固たる意志を持った集団など数百年おらず、緊張感を失って久しい。加えて、いやそれに伴って、と言うべきか、残酷な上層、風見鶏の総督、強欲な退役兵によって命を掛けて国家を守護する軍団兵の大切な予算は私腹を肥やす恰好の餌食になっていた。
 男は、鄙びた州都の大通りを歩く。街は活気がなく、どうしようもない厭世が漂っていて、遠く喧嘩の声が聞こえたりした。朝から酒の力でも借りなければやっていけないのだ。
 元々、南部属州は諸民族が入り乱れていて、その間の対立も多く、老王の治世では開発ではなく現状維持に主眼を置かれて統治がなされたために、幸福という言葉が王国の中で最も遠い場所となっていた。尤も、今は北部属州の方が悲惨であるという話だったが。
それはともあれ、より良い暮らしを求めるためには住人が自ら努力せねばならないが、優秀なリーダーがいなければそんなことは不可能で、こんな辺境にはそのような人物はいなかった。そういう人間は大方首都で出世の為に心血を注いでいる。
 それが発展しない一因ではあったが、原因はそればかりではなく、貿易に使おうにも特産がなければ、鉱山は東部ほど豊かにあるわけではない。土地も農業に向いているというほど肥えているわけでもなかった。結局のところ、全く付加価値のない地域なのだ。だから、老王には見捨てられるし、不正も放って置かれる。ガラッシアが遥か昔、まだガラッシアではなく世界に覇を唱えていた頃、まだ黒き森が横たわる前は更に南や西の国との交易の要衝として栄えもしたが、それは過去というよりも伝説に近い。
 男はそんな街にあって浮いているほどの豪邸の前を通り過ぎた。顕示される優越感と強欲、そして絶対的な属州の支配者。以前は田舎の穏やかさがあったこの街を徐々に食いつぶした元凶の家が住民の希望や意欲を根こそぎ奪い去るように存在を顕示している。
 そんな属州に若い総督が派遣されたのはいつものことでもあり、総督の代替わりでもしかすると良くなるかもしれない、という希望を属州が持たなくなってから久しい頃だった。今度の総督は王孫だったが、それでも反応は然程変わらなかった。その王孫が優秀か暗愚か、それとも横暴かも分からなかったし、退役兵の牛耳るこの属州に、総督の権限が入り込む隙はどこにもない。
 だが、だれも予見し得なかったことであるが、赴任して一ヶ月もせずに総督は微かな変化を齎していた。
 総督の責務である巡回裁判は即断即決、その判決は公正にして明瞭だと専らの評判で、不正を疑う余地が全くないというし、穀物の給付の確立で、椋奪と破壊で疲弊していた属州民から飢えを取り除き、闘技場では剣闘士の試合が開催されるようになり、華やいだ雰囲気が少しばかり生まれ始めている。自費でそれを賄う彼に向かう視線の大半に好意が混じるようになったのも無理のないことだった。しかしそれだけでは長い絶望の中にあった属州民から完全な信望を得ることは不可能だった。総督の任期は半年、着任してすぐ、もう他の総督の影が見えるのだからそれも仕方がない。漸く齎された王家の庇護が永遠と続くとは誰も思わなかった。
そんな属州民の諦めなど気付かず若い総督は、いよいよ退役兵たちとの溝を深めて行った。切っ掛けは些細なことだっただろう。総督が慣行を無視したとかそういったものだ。今までの属州統治は無言の慣例をもとに行われていたので、慣行を知らない総督はまず属州の状態に驚き、そしてままならないことを知り貝になるか、それか古参兵たちに積極的に援助して自らの私服を肥やすかのどちらかだったが、今度の総督は王の孫――それも王位に最も近い王孫――だったから、権威が今までの総督とは桁が違いすぎる。おいそれと彼の行動を無視するわけにはいかず、そうやっている内に脈々と作られた慣行は全て吹っ飛ばされてしまったのだろう。とはいえ、古参兵たちがその現状に唯々諾々と従うはずもないと思える。
男は、そこまで思い出して嘆息した。この今まで無気力の底にあった属州が活性化しつつあるのは感謝するし嬉しいものだったが、それが行き過ぎるとただの毒にしかならない。
 ようやく目的地が目に入り、男はそれまで進ませていた歩を止め、上を仰いだ。先ほどの豪邸とは比べ物にならない粗末な総督の邸宅であり、彼を召喚したのは総督セレネスその人であった。
 男は野営長官と呼ばれる軍団を事務的に率いる古参兵である。
軍団の状態を1番よく把握していると自負している。軍団の状態は最悪に近かった。不遇は兵たちを腐らせ、士気の低下は著しく、脱走も絶えないし、乱闘騒ぎも稀にではない。なんとかまだ軍の上辺を取り繕っていられるが、それも限界だった。元々南部属州軍団の位置付けは微妙なのだ。諸民族の入り乱れている属州だから絶えず騒乱の可能性があるが、その現出の可能性は低い。暇を飽かし易く、さりとて全く緊張を解いていられるかといえばそうでもない。
 となれば軍人は荒くれ者が多いからちゃんと手綱を引いておかねば簡単に統御を喪失しまうが、歴代総督の総督にはその意思を感じることはできなかった。その結果が先の戦争での壊滅に近い被害で、再建の為に集めた新兵は待遇の悪さに早くも爆発寸前だった。
 恐らくそれも総督の耳に入っているだろう。当たり障りのない(彼だって自分の身は可愛かった)報告書を提出していたが、現状を包み隠すほど退役兵たちに恩義があるわけでもない。心付いた者ならきっと気付いてくれるだろうと期待して文言は微妙にしておいた。提出したものが目に止まったのかも知れない。
 彼は邸宅に足を踏み踏み入れた。衛兵に用件を伝えると行っていたのか簡単に通され、門をくぐると田舎には場違いな贅を尽くした建物が眼前に広がったが、派手さには品が無く趣味は悪いな、と男は思った。
 執事らしき男の奴隷が彼を案内したが、奴隷の服の方が男が着ていたものよりずっと上等で、失笑を堪え切れなかった。
 通された間には若い男女がいた。円卓があり、向かい合って座り、チェスをしている。形勢は女の方が圧倒的に有利で、勝負はほぼ見えていた。
 男が入って来たのに気付いて顔を向けた彼らは、若さの希望に眩しいくらいに彩られていて、男は思わず目を逸らしたくなった。恐らく20歳かそこらだろう。互いに端整な顔立ちをしていて、男の方はそれに気品が備わっている。これが新しく赴任してきた総督とその右腕である財務官だった。
「待っていたよ。野営長官」
 腰を上げ、笑顔を向けながら握手を求める総督は人好きのしそうな人物だった。次いで財務官が儀礼上と言った感じで形式張った挨拶をしたが、それに不思議と嫌悪感はなかった。
「ガイウス・クラッシアヌス。最古参で尊敬を集めていると聞きました」
 おそらく、財務官閣下が好意的にしようと努力しているのが透けて見えたからであろう、と男は分析した。丁寧な言葉遣いが、人物の雰囲気とは些かかけ離れた印象があり、そこは若さ故かと悪くは思わなかった。
「総督閣下直々のお召しとはいかなご用件でしょうか」
 2人の年齢を合わせたくらいの自分が下手に出なければならないのは馬鹿らしい気がしたが、それを押さえつけるだけの侵し難い権威が総督にはあった。それは豪邸という空間的な演出の効果かもしれないし、彼の生来のものかもしれなかったが、生まれながらの王であるということはこういうことなのか、と男は少し感心した。まるで人種が違う。
「貴方の報告は読みました。中々、趣味の悪い書き方をしますね」
 女が問いに答える。苦笑するしかなかった。
「わたしにはなんのことかさっぱり。学がないものでして」
「君は、この状態をどう思う?」
今度は総督が口を開いた。優しく人好きのする声だったが、底には冷たさが漂っている。それが独特な威厳というものに繋がっているのかも知れないと思った。
「権限のない私には何をどうこうできる力はありません」
 ちょっとした危険を冒したのはそうした高貴なる者の慈悲に縋ろうと思ったからだったのか彼自身にもわからない。
 総督は微笑んだ。鋭い目が細められると最初に見た人好きのする笑顔になった。
「ああ、もちろん。それは私の仕事だ」
 それがなにを指すのか深読みすることは避けた。しかし、気付かないというのは不可能だった。
 流石、向こう見ずな若者だ。恐れというものがない。自分にとっては首根っこを押さえつけられている残酷な連中だが、目の前の貴人たちにとっては彼らの財産を掠め取る盗賊に過ぎないのだ。自ずから考え方が違ってくるだろう。
「さて、本題に入るが、予算どおりの金があれば、君の思うとおりにやれるか?」
 属州を、つまり軍隊を平常に戻せるかと聞いている。それの他に、総督に心を向けられるか、とも聞いているようだったが、そればかりは彼にもわからなかった。
「平常の状態に戻すことはできます。ですが、今の属州に自由にできる金なんて」
「君がそのようなことを心配する必要はない」ぴしゃりと総督は言い放ち、男は口を噤んだ。「万事、君に任せよう。おそらく彼らが何か口を挟むだろうが、その時には私の名を出し、決して彼らに折れることのないように頼みたい。予算の要求は彼女に行えばいい」
 これがノンキャリアの最高位の義務であるが、内心では即答することにやや抵抗があった。態々20年兵役を勤め上げ、栄誉ある第一大隊主席百人隊長まで出世し、騎士階級に迎えられたというのに、数年でその地位と命を懸けねばならないとは。
それだけのものを捧げる恩義などないが、現状を彼自身も酷く嫌っているのも確かだ。それを取り除く事業に参加することは吝かではない。だが総督がどこまで意図しているのかは不明瞭で、この状況で上意下達にただ服するのはやはり気持ちの良いものではない。
男のそのような微妙な屈折を感じ取ったのか総督は彼に対するアプローチを変えた。
「君が苦労してきたように、今、属州は累卵の危うきにある」
雄弁さを以って野営長官の説得を試みようとこの措置の重要性を強調する。劇的、というほどではないが、抑揚の付け方には特徴があって、人をその気にさせる魔力を秘めていた。内容も空虚ではなく男が常々気に掛けていたところに過不足なく触れた。耳触りも良い。だが、決して良い事ばかりを述べたわけではなかった。見通しが暗いことも次げ、それを回避するのに必要なことを分かり易く断言した。極論に過ぎるところはあったかも知れないが、男から熟考する力を奪うのには十分過ぎる弁舌の才だった。明々白々の説得の際に総督は一言、付け加えた。
「王国の護り手である軍団兵が不遇の極致にあることを見過ごすことはできない。私はこの属州の風通しを良くしたいのだ。今、陛下の威光の当たる場所としてここより適当な箇所はないだろう」
 財務官は総督を冷ややかに見ていたが男に及ぼした影響は大きかった。
 人生において初めて熱意のある上官かも知れない。改革の意志、理想的な主張、それを現出させる為の現実的な手段、何もかもがこの属州に欠けていたものだ。熱に浮かされるような頭で男はそう考えた。
「死力を尽くします」
 思った時には口を衝いていた。総督は満足そうに頷き、2、3言葉を掛け、そして男を下がらせた。
 再び執事の案内で帰りの道中、いくらか冷静さを取り戻した彼は会話を反芻し、彼に従うことは属州の利益に、壊滅的な軍団の再建の一筋の光明になるかも知れないと思ったが、口車に乗せられた感は拭えなかった。


「で、彼を先兵に使うのか」
 貧乏そうな中年の男が出るのを目で追ってからアリスはセレンにそんなことを聞いた。
「先兵というか、最後の一押し、という所かな」
 退役兵が張り巡らしていた自己権益の網を散々引っかき回した後のこの所業で、彼らの怒りは頂点に達するに違いない。
 セレンは穏便に彼らを排除する、という選択肢は取らなかった。時間がなかったのもあるし、華々しい結果を求めたからでもある。それに退役兵たちは地元の名士たちとも繋がっている。その地元の諸部族はそれぞれで権力闘争を繰り広げている。これはもっけの幸いと彼は肯定的に捉えているようだ。
確かに、一枚岩でなければ付け入る隙は多くなった。セレンは部族の衝突の仲裁する総督という立場を利用して、これも彼が抜け目ないところだが、中立は取らず、どちらかに味方した。その判決理由は一方的だったが法を持ち出しての正当性に疑念はあり得なかった。そうして好意と反感を明確に分けて作り出し、味方と敵を峻別していった。今、属州ははっきりと総督派と退役兵派に別れている。
既に戦端が開かれた場合にも自派に靡く街が幾つか確保されていた。この州都とてそうだ。セレンはそういう街を戦略に則りつつ選択し、また戦いの場も設定するつもりだった。退役兵たちが拠る街で戦術的に選べる場所はもうそう多くない。それに完全に防御側に優位である場所はセレンの手腕によって彼の元にあった。そういう地は大概、経済的な要衝でもあるが、退役兵と王孫ではどちらに付くのが得か、彼らは流石に打算的な判断をした。 後は、軍団を整備すれば事はたり、同時に彼らへの明確な敵対表示になるというわけだった。
 戦闘になれば多少の不確定要素が出てくるが、功績が目に見えるという点では魅力的で、それはセレンが三つ指を差し出してでも渇望していることだろう。だからと言って彼が目先の栄誉のみに執心しているかといえばそうでない。南部属州は政治的な空白地でもあるのだ。広義的にはコルネリウスに属するのだろうが、その支配力は弱い。それに今回はその脆弱な影響力さえ排除しようとしている。
真っ白になったこの属州を覆うのは、彼の名か彼女の名で行われる属州の再建統治である。もちろん6つある属州の内の最弱のこの地であるから得られる影響力は微々たるものだろうが、コルネリウスの同盟者、最高位の王孫という立場からは一歩進むことができる。
 しかし、それらも目先に数えられるかも知れない、とアリスは思った。それらは全て手段だ。彼が王位を確実に手に入れる為の手段。そして手段には目的がなければならない。その目的をセレンの口から明確な言葉で聞いたことはまだなかった。  いや、本当は薄々なら知っている。だが、明確に知らされていないそれに意味はなかった。微かな失望が胸を過ぎったが、気付かないふりをして思考を現実に戻す。
「それにしても、彼は意外と優秀だな」
 提出された報告書から判断すれば相当な人材だ。当然目を通したであろう退役兵たちの目を潜るほど巧妙に隠しながら現状を報告していて、報告を読めば現状がどれほど逼迫していたかが認識させる。叩き上げだが、文才はあるようだ。彼が限界まで踏みとどまっているお陰で軍団は崩壊しなかったと言えるだろうが、現状を憂いているにも関わらずそれが専横を支えていたことは皮肉なことに事実だ。軍団が反乱でも起こせば属州の現状は広く衆目に触れたはずだから。
「確かに、思いがけないものだったな。その分でも私は非常に幸運だ」
「そうかもしれないな。しかし、薄ら寒い台詞ばかりだったな」
 彼女は先ほどの野営長官を一挙に味方に引き入れた一場面を思い出した。軍団の支配者がどちらに属するかは今後を占う上で外せない。報告書の手練といい、彼は表では運命論者に見えたが、実際には諦念した理想主義者というところで、それをひきつける為に必要なのは金でも個人的な魅力でもなく、理想であった。分かり易い共感する目標。それを呈示することによって彼が諦めかけていた属州の平穏、発展の夢を再び抱かせることに成功した。
「なに、必要に迫られたときに必要な手段を講じたまでだ」
 セレンは事も無げに言うが、正しい判断を的確に下せるというのは一種の才能だ。指導者として最も必要だろうと思われる。
 少しばかり彼女は彼に嫉妬を覚え、気付かず恨みがましい視線を送っていたのだろう彼は苦笑した。
「君の時には、別のアプローチを考えねばならないな」
「どんな」
「君には遠大な理想より、私が大事かどうかの方が利きそうだ」
 その言葉にアリスがどう反応したかは、セレンが思った通りと言った様子で口元を吊り上げたというだけで分かってしまうというものだ。
「では、500万か、それとも執政官の椅子かな」
「両方だな」
 臍を曲げた調子でアリスはそっぽを向いたが、それもまたセレンを楽しませただけだった。
「お詫びにオーパルを送ろう。スッラが任地で産出したものを寄越してきたんだが、中々すばらしいものでね。君に相応しかろう――尤も礼装しなければ宝の持ち腐れかもしれないが」
 生憎の話だったが、アリスは女性が好みそうなものには疎かった。というよりも自らの趣味、と言えるものが何一つない人間だった。目の前の優男は、戯曲を書いたり弁論の練習をしたり、芸術品の蒐集に精を出したりと多趣味振りを属州でも発揮していたが、アリスといえばそれを眺めているか無為に日々を過ごすかのどちらかだった。
 だから、いくら宝石を送られても喜ばないし、何の意味も成さないのだが、それをセレンは意図的に無視しているようだった。
「別に女が宝石で決まるとは思わんが、価値より低いものを身に付けることもまた、馬鹿げたことだよ。ついでに言うと、私の同伴をする令嬢が全部借り物で飾られているというのは頂けないなぁ」
 先のパーティで彼女を彩ったのは全てエテルノのものだった。流石に衣装ばかりは身長の関係上、自身のものだったが、化粧道具も装飾も全てエテルノのお下がりではセレンの面目の問題もあるのだろう。
 しかし、それを申し訳なく思ったりするほど出来た女であるわけがなかった。
「どうせ、あれの一回だけだ」
「とは、限らないよ。それに同伴だけの問題でもない。君も社交界と付き合っていかないといけないのだからね」
「私は笑われても別に気にしない」
 洗練された挙措とはとても無縁の生き方をしてきた。今更、それを隠したところで浅ましいだけだ。
「私の沽券に関わる――飾るだけで目先は変わるんだけどね。君は素材としては抜群だし」
セレンはそれでも反応がないのを見て諦めたように肩を竦め、話を戻した。
「何はともあれ、軍を確保までは順調に行っている。大きな最後の賭けに勝ったと言ってもいいだろう。もし、靡かせられなければ敵に利するし、一から軍を作らねばならなかったし、そうなれば優位を崩されかねん」
 視線を逸らしたままアリスはその言葉をなぞった。彼はそう言うがスカエウァの統御は限界だった。先の戦争の結果、ガラッシア軍は広範において血が入れ替わっている。その中で軍団の地位の低いこの属州に新しい荒くれ者たちがすんなりと順応できるとはとても思えない。恐らく彼が相手側に走ったら、軍団は瓦解しただろう。セレンがパトロンになることで第8軍団はそのままでいられるのだ。そして、相手方も正規軍を頼りにしていたとは思えない。セレンに反抗すると決断したときどこから軍を持ってくるのか彼女は感興を覚えていた。
 恐らく傭兵や金で釣った連中や、味方部族からの供出だろうが、それを指揮するのは骨のはずだ。それを纏めきる指揮官がいるだろうか。いや、いて貰わねば困る。多少なりとも戦争の形を作らねばこの騒乱を生み出した意味がない。
 互いが無言で思索に耽っている中、一瞬で和らいだものになった。突然の変容にアリスは理解が追いつかず、きょろきょろと辺りを見回したのは余り相応しい態度ではなかっただろう。
「かっか」
 未だ幼い子供が、部屋の入り口からこの部屋を覗いている。
「おお、どうした。ネルウィそんなところに隠れて。いいから此方に来なさい」
 10歳くらいだろうか、ネルウィと呼ばれた少年はおずおずと覗うように1度アリスを見、彼女の戸惑って困惑色を浮かべていた瞳にすら恐怖を感じたのか俯いてしまった。視線が離れたことをいいことに彼女は少年を無視してセレンに視線を滑らせる。それを感じ取ったのか少年はセレンの方に駆け寄った。
「なんだ、それは」
 じゃれているセレンを見ながら彼女は眉を寄せ、知らず詰問口調になっていた。
「人質」
 嬉しそうに構ってくるネルウィと遊びながらセレンは笑顔でそう言う。
一体どんな言葉が出てくるだろうかと予想の上を行く回答に対する絶句に気付いていないようにセレンは言葉を続けた。
「この子が最年少なのだが、妙に好かれてしまってね」
 あれだけ、仮面を被っていれば好かれもしよう。しかし、子供は意外と大人よりものを的確に感じ取ったりするものだ。もしかすると、彼は本当に優しいのだろうか。俄かには信じられないが、そういえば今はデルタの支配者も彼には懐いていた。そういう才能もあるということか?
 不審な目を向け続けるアリスにセレンはいよいよ苦笑した。
「私は好意には好意で返すよ。それに相手は子供だからね」
「ねえ、かっか。約束をまもってください」
 アリスと喋っていることに不満を持ったのか、子供が膨れ顔でセレンを見上げる。それにセレンははいはい、と優しく言って子供の手を引いて立ち上がった。
「じゃあ、後はよろしくね」
ぐいぐい引っ張っていく子供と少し窘めるような言葉を穏やかに滑らせる姿は親子のようだった。
 これではいつか子供を持った時には甘い父親になるだろうな、と苦笑が漏れる。
 セレンが子供を連れて姿を消えたのと、丁度同時に野営長官の見送りで席を外していた執事が姿を見せ、アリスの機嫌を伺った。
「お嬢様、何か、お飲みになられますか?」
「人質といっていたが、彼らはどこの?」
 丁度、質問がぶつけられる、と彼女は彼の親切を完全に無視した。執事は彼女の傲慢に眉一つ動かさず、義務に淡々と従った。
「諸部族の首領たちの子弟で御座います。一応、名目は留学ということになっております」
「なるほど、そういうことか」
 意義を理解したアリスは執事が投げてそのまま打ち捨てられていた話の穂を拾うことにした。
「では、蜂蜜水を頂戴――ああ、あとホルタスを呼んでくれ」
 思考を切り替え、仕事に向かうことにした。
 圧勝した証拠の残るチェスの台を脇へずらし、彼女は書類の山に取り掛かる。戦争を計画しているからと言って諸事雑務がなくなることはない。それもこれも元老院階級の椅子を手に入れる為の義務だ。


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