52.

「彼の名は何だったか?」
 遠く饗宴の喧騒の中、松明に照らされた入口からセレネスの元に近づいてくる人物の名前が出てこないので、背後に控えるノーメンクラトール(名前を覚えていて主人に教える奴隷)に尋ねると、彼はその職務通りに暫しの時間を掛けた後名前を繰り出した。先方に気づかれないように、口を殆ど動かさず、セレネスも耳を傾けている素振りを全く見せなかった。
「クィンティルス・カエシウス・ナシカ。息子がドミナスと同い年です。息子を2、3度、夜宴に招待したことがあります。今はアエテルヌムに留学しています」
 頷いてから、とうとうセレネスの前に立ったカエシウス・ナシカが差しだした手を友好ぶって握る。そして、繕った在り来たりな言葉を重ねる。
「息子さんはどうですか。期待も大きいでしょう」
 嬉しそうに微笑を浮かべる彼は中堅の元老院議員だ。執政官を任ずるのは時間の問題と思われているほどの人物で穏やかな人柄は正に穏健と言える。彼の反応は一つの指標になるので、セレネスはさり気なくも目を皿にして、挙措を見守った。
「華やかな彼の都市で、とても勉学に励んでいる、とは思えませんよ」
 気安い調子でナシカは言い、そこにセレネスに対して何か思う所を見出すことは難しい。胸を撫で下ろすと同時に、自分の声望が徐々に広がっていると確かな感触を感じた。やはり属州では行動を起こして正解だった。倫理に悖る行動もあり多少そこで声望を損なったが、得たものはそれを上回る。アリスのお披露目にもなったし、彼女が未だ完全に4個軍団を率い、セレネスの命に忠実だという事実は彼の存在を実際よりずっと大きくしていた。公式の場でセレネスに対する時、誰もがその圧力を感じている。
「貴方に言うことではないのかも知れませんがね、若者は今に生きるものですからそれでいいのかも知れませんが、親と言うのはどうも……」
 セレネスは苦笑して返す。それからは他愛もない世間話で時間をつぶしながら、所々に探りを織り交ぜたが、あまり益になる情報は得られなかった。
 彼と別れてぶらつくように邸宅を見て回る。部屋部屋で集まっている年齢層にバラつきがある。世代間の交流はあまりないようだ。そこまで公的な趣きが強い饗宴ではないからか。その中の一つ、一番若い人間が集まっている部屋に今夜の相手役として連れてきたロザリアを置いてきていた。
 彼女を秘書にして2カ月程経っていた。秘書としてはまあまあ及第点は十分に付けられるレベルであり、厳しい家庭教師の許での学業も多少苦しいながらもこなしているようだ。古参の無能な秘書たちからは多少苛められているようだが、それをセレネスに泣きついたりすることもなければ、不満を表に毛ほども出しもしない。芯はやはり強かった。図太さもよほどのものだろう。そのような環境でも彼女は自らの長所を十分に活用して、徐々に自らの地位を築いている。勿論、秘書たちの無能さがそれを助けている面もあるが、それは彼女の評価を不当にさせるほどのものでもない。
 それも自信になっているのだろう、セレネスから自由になって饗宴を楽しんでいた彼女は声を掛けようとする若者に囲われており、彼女がいるところは華やかになっていた。
 ロザリアはアリスと違って自分のルックスの良さも十分によく理解しているようで、装いも彼女を引き立たせるものを選び、振る舞いも彼女に相応しいものだった。その為に多少セレネスも助力したし、衣装は全て新調させた。テオドラには冷めた目で見られたがロザリアにはそれだけする価値はある。ウェーブの掛った髪は綺麗に梳られており、肌理の細かい肌には薄く化粧が施され、唇には朱が差してある。シルクの濃紺のチュニカに白いレースのストールを掛けていて、開いた首元には瞳と同色の宝石が輝いている。立ち居振る舞いは教育の一環で既に叩き込んであった。これで、男に受けないわけはない。
 ロザリアが遠く眺めていたセレネスに気付いたらしく一度目が合ったが、対応に忙しそうで抜け出せそうにはなかった。
 その所為で、一瞬、セレネスは単身になる時間が生まれた。セレネスは手持無沙汰に周りを見渡した。盛り上がっている箇所が何個もあれば、少数で固まっている者たちもいる。幾人かがセレネスの存在に気付き、囁き合うのが見えた。
 その独りのセレネスに、1人の女性が近づいてきた。
「珍しいわね。貴方が1人なんて」
 金髪が眩しく、セレネス相手にこんな口調で話せる人間は一人しかいない。
「相手に振られてしまってね」苦笑しながら、セレネスはルクセンブルクに答えた。彼女はロザリアの方に目を向ける。華となっている彼女を認めると何を思ったかセレンの方に向き直って腕を絡めてくる。それを拒む理由はなかったので、彼女の行動に従った。いくら外国人とはいえ、ワレンシュタインの貴族の娘が元首の孫の相手に相応しくないとは誰も思わない。金髪の目立つ美人は全くセレネスに負けてはいない。
 彼女を受け入れながらも、どうしても現状を疑問に思わずにはいられなかった。自らキャリアを絶ったと思えば、今もこうして絡んで来る。これまでの関係が純粋なものでなかったことくらい彼女も理解しているはずだが。そして、セレネスが現状の彼女に何の興味も抱かないことも。
 今の生活はエテルノが甲斐性を見せて支えているが、現状を維持するつもりなら援助を断ち切らせよう。無駄な出費を続けても仕方がない。
「友好的だとアリスもあれほどになるのかしらね」
「彼女はあの雰囲気が美しさを際立たせているところがあるから、無理だろう。ロザリアは人好きがする」
「貴方も誑かされるほどだもの。相当なものでしょうよ」
 アリスとは違ってロザリアには手厳しい。ロザリアは今年16だからルクセンブルクとは7つほど違う筈だ。アリスには向かなかった妬みのようなものが向いているのかも知れない。アリスにそれを向けても虚しいだけだが、ロザリアはそれを向けさせるような世俗的なものがある。逆にそれが男受けもするのだろう。
「溌剌としているし、打てば響く。そうそう嫌われるタイプではないよ」
「貴方のお気に入りの1人でしょう? 最近はずっと連れているもの」
「秘書をさせることにしたからね。連れ回さなければ意味がない」
 その言葉に彼女は驚いたらしくセレネスを見上げると「秘書? それはまた……」と二の句を繋げなかった。次いで諦めたように頭を振って零す。
「貴方はつくづく厳しい。現実を突きつけるから」
「まあ、優しくはないかもね。そこまで暇じゃない」
「嘘ばっかり。だからキライ」
 ルクセンブルクは絡ませた腕の力を強め、体を寄せた。
 セレネスは彼女を連れて、饗宴を回った。もっと気楽に付き合える元老院議員や騎士階級の人間に挨拶する。その中には若い人間も多分に含まれた。ロザリアが交わっていた層からは若干年上になり、少しずつ社会的義務も増えてきて憂鬱そうにしている。その中で1人とルクセンブルクは顔見知りらしく、セレネスに引き合わせる為に彼女は骨を折った。
「こちらバルナバ・フキルス。アリスの同期で、傭兵団では直属の私の部下で副財務担当。アリスと並んで若手の有望株だったわ」
 そこそこ有名な家柄の次男坊だ。詳しくは知らないが、傭兵団に行くだけの何かがあったのだろう。そして傭兵団での実績が買われて復帰を許されたのだろう。
「で、こちらは言わなくても分かる今を時めく王孫サマ。新しいアリスの飼い主よ」
 言葉に棘がある。バルナバはルクセンブルクのその物言いには慣れっこのようで平然と流してセレネスに対して礼を取った。
「お初にお目にかかります。お話はアリスから伺っています」
 ちらりとと見上げた視線には陰りがあった。アリスとまともに話しているということはそれなりの関係を築いていたと見える。それにしてはアリスから話を聞いたことはなかったが。尤も彼女は自分を話の話題にすることはないから、不思議ではないかも知れない。ともかく、彼は傭兵団時代を知っている人間であるということか。
「彼女は扱い難かっただろう」
「そうでもありません。彼女は優しいですよ」
 考えてみればアリスは傭兵団の中でミーネ以下の人間には自由に振る舞えたのだから、彼のような人間はアリスの我儘にただ付き合えばいい。そしてアリスは大概部下には寛大だ。
「その割には、最後の方、拒否されてたじゃない」
「ミーネ様!!」
 くすくすと笑い、ルクセンブルクはセレネスの背中に隠れる。総長だった頃の面影はない。ただ、彼女の洞察力というか知性はまだ鈍ってはおらず、それが手放すのを躊躇う最大の要因だ。精神的に持ち直してくれれば使いようはいくらでもあるのだが。
「しかし、バルナバか。覚えていよう。アリスを支えてやってくれ」
 複雑な表情を残して、バルナバは一礼した。
 たっぷりと義務は果たしたので、セレネスは早々に屋敷に戻ろうと騒がしい場から離れる。ルクセンブルクとも別れ、ロザリアもその段階になると解放されていて、いつの間にかセレネスに付き従っていた。人目に付かずに、エントランスに戻り、輿に乗り込むと、そこまで、ロザリアは付いてきた。彼女にはそれを許していた。他の奴隷は、輿に従って歩く。
「お疲れ様です。少し、顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」
 セレネスは輿の中で深く腰を降ろすと、ロザリアは首元に顔を近づいて匂いを確かめて言う。
「柄にもなく飲み過ぎたか」
 いつもより陽気にはなっていた。というよりも生来の性質が仮面の内から顔を覗かせている。やはり、自分はまだ若いのだろう。この情勢に少しばかり浮かれていた。そう自覚するだけマシなのか。
「珍しいですね。セレン様らしくないです」
 ロザリアは礼を失しない程度に気安く話すが加えてどこか人を安心させるようなものがある。その所為で彼女に対する態度はだいぶ甘くなっていた。それがアリスの血か、とかく彼女の弟妹には甘くなりがちだ。
「俺だって普通の人間だよ」
 首に手を回して髪を弄ると、上目遣いにセレネスを覗くロザリアの目は笑っていた。額に髪の上から唇を押しつける。
「もう、ミーネはよろしいんですか」
 非難の仕方がアリスに似ていたが、そんなことは構わず、更に非難が出かかっていた口を塞ぐ。拙くロザリアは受け入れて目を閉じる。
「酷い人ですよ。貴方は」
 解放されたロザリアは余韻に浸ることもなく鼻先でそんなことを言う。セレネスが更に無視して、白皙の首筋に唇を押しつけると、くぐもった声を漏らした。
「今更だろう、ねえ」
 そこから、またキスしようとするとロザリアはセレネスの首に腕を回して、自分のタイミングにしようと図る。
「そう、ですね」
 そして自分から軽く触れるだけのキスをする。まだ、あまり慣れておらず、離した後にはにかむように笑った。
「ねえ、ところで」愛を語るように鼻先で髪を弄りながら囁く。「明日、祖父さんに呼ばれているんだ。君も立ち会う? 元首に拝謁したことはないだろう?」
「宜しいんですか?」びっくり眼で彼女は言い、その反応はセレネスを楽しませた。
「いい経験になるだろう。歴史になる人だ。それがどういうものか、見ておくといい。もしかしたら失望するかも知れないが」
 死の淵でかろうじてこちらに留まっている祖父に威厳もあったものではないが、生きる伝説ではある。彼が賢王であったのは遥か昔だが、その名残には触れられるはずだ。
 ロザリアは興奮を隠すように身じろいだが、殆ど密着しているので反応は全て感じられる。セレネスはそれに微笑んで、明日に気を取られて気もそぞろになっていたロザリアをこちらに引き戻す。夜はまだまだ長かった。
 次の日、午前も一番で訪ねた宮殿はやはり静謐としていた。主の病が1000人と下らない奴隷、解放奴隷たちに暗い影を落としている。なんとなくこの雰囲気が嫌で、あまりこの宮殿には足を運んではいなかった。祖父との時間は殆どもう残されていないのに、薄情なことだとは思うが、祖父に対して何の感情も抱いたことはなかった。家族の中でも最も愛して貰ったのに、何も感じられない。
 ロザリアを連れたのはそう言った自分を直視したくないからかも知れない。もはや変わらない自分の本性を今更に知ったところで何の意味があるのか。
 逍遥回廊を案内をもとに進む。その間ロザリアは神経質にじっと目を伏せていた。
 寝室に着き、老王が身を沈めているところに近づくと、ロザリアが息を飲んだのが隣で分かった。目を閉じて横たえている祖父はますます、やつれていて、顔色は非常に悪い。ロザリアが衝撃を受けたとしても無理はなかった。
 セレネスが近づくと老王は片目を開けて彼を見る。眼の光があると、多少死が薄まった。
「それは?」
 視線がロザリアに流れたので、セレネスはロザリアの腰を引いて、祖父の前に引き出す。ロザリアはセレネスを仰ぎ見るのをじっと我慢して、老王に向かって深々と礼をした。それを見下ろしながらセレネスは説明した。
「ロザリアと言います。アリスの妹です。秘書をさせることにしたので、挨拶にと。これから私の代理を務めることになるだろうと思います」
「お前の代理が務まるのか、そんな小娘に」
「適当な人物は他にはいません。優秀でしがらみのない人間なんて早々」
 人材を集めることの辛さは今に始まったことではないが、先の困難さを暗示している。ただ、これからは実績もあるし、公的な立場もこなしたから多少は和らぐかもしれない。しかし、そうした公的人材と、秘書などの私的な人材はまた別の問題だ。大体、政務官を務めるような人物には幼少の頃からの絶対の信頼を保障できる奴隷がいるものだが、セレネスにはそれがない。辛うじて、テオドラが居るが彼女は屋敷の運営と家政で手いっぱいで、彼女はそれでよかった。
 その点で、アリスの兄妹をすべて手中に収めたのはそれを補う一つの手段に成り得た。揃いも揃って質はいいし、特にアリスとロザリアは相反する性質を持ちつつも根源の部分では似ていて、どちらも伸び代を多く感じさせる。特にこの二人はセレネスに対する関心も高いし、それなりの忠誠を期待することができる。
「ふむ、それにしてもお前はそのような者ばかりを寵愛する。アリスといいそれといい。私にも盟友はいたが、お前のように下賤の者ではなかったよ」
「高名なスキピオのことは知っています。しかし、彼と比べてアリスが劣るとは考えていません。芸妓の息子でも偉大には成り得るのです。たかが、貧民の娘が才能に乏しい理由にはなりませんよ」
 セレネスの傲慢さは傍目にも明らかだった。中興の祖である老王と評価を同じくする、既に死して俗性の削ぎ落ちた理想の抽象となっている人物と自らのお気に入りを比して、更にそれを上回るというのだから傲岸というしかないだろう。その公然とした侮辱も老王は取り合わなかった。ただ、落ち着いた笑みを浮かべただけだ。
「もちろん、その可能性は多分にある。おれが選んだのではなくお前が選んだのだから。しかし、彼女の出自だけはいかんともしがたい。変えようのないのだから、他のなにかで埋め合わせをしなければ。1人、高貴な人間を取り巻きいれるだけで、それだけで和らぐものもある。お前自身がいくら高貴でもな、高貴な人間がいなければ人は軽んじるし反感を持つ」
 老王の助言を理解できないわけはなかった。そういった些細なものが大きな障害に成り得ることも分かっている。しかし、今すぐに、というのは無理だ。見極めも大事だし、清廉という評判を取っている人間が望ましい。セレネス自身が悪徳に塗れているから、同系統ではだめだ。そして、そういう人間は早々いるものではない。
「今のお前の取り巻きは、筆頭はアリス、そしてエテルノ、ホルタスか。全員、癖がある。実力は確かかもしれんがな。無能でもいい。ちゃんとした人間が必要だ」
「分かりますよ。それくらい」
「しばらくはこちらにいるのだ。人と交われ。今は思う通りに動けるだろう」
 セレネスは答えず、肩を竦めた。言われずともそうする。
 場が白けそうになり、語を老王が継いだ。
「そう、ところで今日呼んだのは他でもない、重要な決定をまず最初に知らせておこうと思ったからだ。来週、元老院を招集する。出席せよ」
 老王が伏してから元老院会議は開かれていなかった。それを開くという。議題は決まったようなものだ。老王の健康状態を見れば、早い方がいい。
「――分かりました。必ず」
 返答が一拍遅れてしまったのは不覚だった。心がそこに強く惹かれていると悟られる必要などどこにもないのも関わらず、教えてしまった。これ以上長く居るともっとボロを曝け出してしまいそうだ。この祖父にあまり手の内を見せすぎるのはよくない。
「赤く縁取ったトーガを纏えよ。お前にはその資格があるのだから」
 その言葉を最後に、セレネスは暇を乞い、ロザリアを連れて王宮から辞した。
 一週間後、元老院会議は、落成式を終えたばかりの拡張されたディアナ神殿で開かれた。神殿の周りはフォルムが整備され、商店や公証などで人が溢れていて生活音で溢れていて、その間を縫って元老院議員たちは純白に赤縁のトーガを身に纏い、続々と集結している。神殿の一か所に演劇用の舞台のように中心を囲むように席のある議場があり、中央には名うての彫刻家に彫られた女神が人の子を見下ろしている。席は決まって居なかったが、自然と党派毎に分かれた。ヘリオスが右側に座すると、クラウディウス氏族や彼らの取り巻きは一様に右側に着席したがクラウディウスそのものはいなかった。その隣には大部分を穏健派が陣取った。その右側は共和派が陣取り、左に行くに従ってより政治的立場は薄くなって行った。そして最左翼にはセレネスが座り、コルネリウス、フルフィウス、セクスティウスといったセレネスの支持層が集まった。
 今回は久し振りの開催だからか、議員資格のあって在京の人間はほぼ全員が出席していた。その総勢600名余りで、平均年齢は50を少し下回る程度だ。
 老王が解放奴隷の秘書とクラウディウスに支えられて議場に現れると、その衰えぶりに議員の間からざわめきが起こる。両孫にも視線が集まったがセレネスはそれを泰然と無視して、老王に視線を投げていた。死は近く、これが最後の晴れ舞台か。
「これほどとは聞いていませんでしたよ」隣の知人が声を上げたが、セレネスは黙殺した。
 老王はゆっくりとヘリオスの隣に腰を下ろした。それを合図にして、中央に座った執政官が促して、最元老の白髪の老人が、開会を宣言した。
 まず最初に老王が挨拶した後はさして重要でもない適当な案件が議論された。今年に入って二度目の開催で案件が殆どないというのは元老院の地位を表して余りあるが、誰もそこを真剣に見ようとはしなかった。
 そして、全てが終わり後は老王のものを残すだけとなり、彼は立ち上がると、その死にかけとは思えないほどの声を張り提議した。
「祖国は危急存亡の淵にある。いまこそ国家は一つに纏まらねばならない。それには諸君の奮闘と強いリーダーが必要だ。係るガラッシアの問題は、果断なる判断と、広い範囲の指導力を必要としている。余は死すべき運命にある只人だ。それに満足すべきだし、悲しんではならない。しかし余は後に続くガラッシアを考えなければならない」
 いよいよ来たか、と議員の間に緊張が走った。老王は一つ、拍を置いて言葉を続ける。
「そこで、私は諸君に提案する。無期限の執政官格命令権、護民官特権の付与をセレネスとヘリオスに」
 一瞬の間の後、大きなざわめきが起こった。セレネスは大理石を叩こうとするのを必死に抑えつけた。
「閣下」
 隣の誰かがセレネスを呼んだのを反射的に睨みつけてしまい、相手がうろたえたのを見て気付いて、感情を必死に覆い隠そうとした。
 セレネスは首だけを振り、視線を老王に戻す。彼はざわめきなど無いように振る舞い、大きくまた声を張った。
「挙手で採決を取る」
 長老が杖を打ち付けて、辺りを鎮めた。そしてしわがれた声で、「賛成には挙手を」とだけ述べる。
 しんとなって、誰も、手を挙げなかった。
 セレネスは逡巡した。全てを壊された。あんなことを言っておきながらその全てを奪うのか。この暴挙は決して認められない。だが、どう反抗する。やろうと思えばやれる。4個軍団を即応させられる。一か月もあれば首都に迫れる。今の老王にセレネスとアリスの攻撃を防げるだけの駒と実力はない。だが、それは滅びへの道だ。そうして覇権を握ったところで維持に何千人の血を流さなければならないし、それだけの時間的余裕はない。それではアエテルヌムに対抗できない。故にこの選択はあり得ない。
 もっと別の段階で殺しておくべきだった。この可能性を常に排除できなかった以上根源から絶っておくべきだった。
 いや、起きたことを悔いても仕方がない。問題はこれをどう切り抜けるかだ。この道で方針を立て直さねばならない。共同統治は2人で権力を二分するわけではなく、独立した元首が2人存在するということを意味する。拒否権を互いに保有するということはそういうことだ。それはつまりは潜在的な対抗者を抱えるということになる。それが一番の懸念で、積極的に考慮に入れなかった最大の原因だ。これを認めてしまうと、大きな問題を抱えることになる。だが、老王が公式の場でこの提議を行ったからにはこれは既定路線となり、嫌でも従わなければならない。
 意を決し、セレネスは右手を挙げた。それにもまたざわめきが起こったが、これはセレネスが一番でなければ意味がない。セレネスが最も強く恭順を示さなければならない。それで疑心を逸らすことができる。クラウディウスに新たな攻撃の手段を渡さずにも済む。
「私は元首の提議に賛成します。ヘリオスと共に元首を支えることが出来れば、これほどガラッシアの益に繋がるものもありません。父と、兄弟と、一致協力して国難に当たるべきです。我々にはその義務があり、それを果たすためにどれほどの犠牲も厭いません」
 次に手を挙げたのはヘリオスだった。賛成意見は彼を表して穏やかなもので、彼の賛成で大勢は殆ど決まったようなものだった。それぞれの支持者が次々と挙げ、最終的には全会一致で老王の最後の提議は可決された。
 その決議を以て元老院会議は閉会し、議員たちはこの結果を思い思いに語り合いながら、退場していく。誰に取ってもこの結果は意外だった。誰もが善後策を練る必要があり、他に気を払う余裕なんてなかった。セレネスは神妙な面持ちで集まった取り巻きを先に邸宅へと向かわせ、自身はずっと席に座ったまま重いトガもそのままに女神像をじっと凝視して、思索に耽ろうとしたが、建設的な考えは浮かばず、ただ、時間を空費しただけだった。
 すると中々、出てこないことを心配したのか、ロザリアが姿を現した。セレネスを見つけ、そこに足早に向かう彼女の顔色をセレネスは覗わなかったが、流石に歪んでいて彼をを見つけると努めて平静を装った。席に手をついてセレネスを見上げるように跪いた、彼女を見下ろすとその顔は心配に染まっている。
「セレン様」
 大理石に置いていた手に彼女は手を重ねる。
「如何いたしますか」
 ロザリアは驚きも何も言わなかった。ただ、対応を聞く。
「老王がそうしろというのだ。そうするしかあるまい。ヘリオスが国内を纏め、私が外征を担当する。独りであることのデメリットを完全に消すことができる。少なくとも4、5年を見た場合に最も適している方法であることには間違いがない」
「でも、その後は」ロザリアが後を続けようとするのをセレネスは首を横に振って遮る。
「私にそれ以外の道は採れない」
「それはあまりにも」
 セレネスは強く、拳を握った。
「私の志向を祖父さんが知らないわけがない。そうしろ、と言っているんだ。そして俺も、正しいと思う。賛成を表明した時点で覚悟した。ヘリオスもだ」
 ロザリアはじっとセレネスを見詰めた後、諦めたように慰めるように頭を垂れて額を重ねていた手に乗せる。ただそれだけのことで少しだけ救われた気がした。


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