53.

 後継の決定の衝撃でその年の執政官選挙のことなど大方の人間の頭から消え去ってしまっていたが、そうそう無視しておくこともできずに10月も中ごろになって再び元老院が招集された。老王はもはや出席できるような容態ではなくなってしまっていたが、書簡を執政官の元へ送り、認められている推薦権を行使し、財務官、造営官、法務官と定められた人数分の推薦者を挙げた後、執政官には亡き息子の胤を当選させてくれるようにと願いを綴られていた。
 書簡が読み上げられた後、元老院の雰囲気は些かも変化がなかった。推薦権の行使は直接に当選を意味するし、それは孫たちを支えるようにとの心配りで決められていることが顔ぶれをみれば窺い知れ、執政官に至っては今回彼ら以外を当選させずに誰を選ぶのかという程度のものだ。そもそも一度も執政官を経験しない者が元首に就任するのは些かバツが悪い。結局、老王の書簡は全てが全会一致で採択され、その後に選挙の公示日や立候補の期日を取り決められると、直ちに1ヵ月ほどの選挙戦に突入した。だが、やはり例年とは違い、どこか活気の欠けるところがあった。他の官位には例年通りの立候補があったが、執政官では、形ばかりも選挙の体を成させようとはされなかった所為である。祭りにすらならなかった選挙戦の後、順当にセレネスが主席として当選し、次席にヘリオスが二度目となる執政官就任することになった。
 セレネスに取っておそらく経歴の中でも最も軽んじられる執政官職に似つかわしく、彼自身も全く心を動かされなかった。執政官など名誉職であり権限を掌握していれば身を飾る以上の意味を見出すことは難しい。それよりも共同統治のことで感情の大半を奪われそうになってそれを断固として拒否する腹積もりでとりあえず、未だ属州で全能のアリスの処遇について強引に理性を向けた。
 結局、後任の総督は理由をつけて派遣せず、――総督もその事実さえ得られれば、好き好んで辺境へ赴任したりしない――彼女は財務官ながらも前法務官級指揮権を代行して過分な経験を積んでいた。巡回裁判では司法の考え方を身に着けていないから大変だろうと法学者を送ってやったが、それでも特別の失策は聞かない。少しばかり厳格に過ぎるというところはあるらしいが成り上がり者はそれぐらいが丁度良いだろう。行政面でも厳しさは相変わらずだ。不正を正して名声を得ていたから徹頭徹尾の清廉さは反感よりも称賛が多いと言う。そして何より軍は精強だった。訓練には熱を入れて自らが指揮する模擬戦を幾度も開催している。それはとりもなおさず様々な人物への圧力となったが、変化した状況に合わせる為にも彼女をその地位から外すことは必要だった。
南部にはホルタスもいるし、彼を昇格させてもよい。彼ならば穏当に事を運ぶだろう。
 こうして彼女の復帰が決まった。
 その日、セレネスはチュニカだけを身に纏い、日差しが弱まって過ごし易くなった邸宅の大広間でソファに身を横たえながら、詩集に目を通していた。そこに、テオドラが現れてアリスの帰還を告げる。
「いい気味だな」
 奴隷に旅装を外させながら開口一番にそう言った。
「酷い。慰めてくれてもいいのに」
 その返答は鼻で笑われ、身軽になった彼女は髪を掻き上げる。数か月で見違えた濡れ烏の髪の房が指の間から滑り落ちた。
「そんな不遜だから敵を作るんだ。この状況下ではそれが決定的だったんだろう」
 不敵なアリスにセレネスは肩をすくめてみせる。彼女もしょうがなさそうに笑った。この結果はそういった時点を超えた決定だ。誰の責任でもない。アリスは歩みを進めるとセレネスの向かい側に腰を下ろした。そしてじっと視線を彼に固定する。
「それでお前のことだから、ただで起きるつもりはないんだろ」
 アリスの探る目を避けるように視線をずらす。内に抱いていた計画を変更することを認めるのは非常に難儀なことだった。
「今は祖国に奉仕することしか考えていない。私は外を担当するから、アエテルヌムを打ち破る方策を考えなければならない。内輪のことに気を回す余裕はないよ」
 多分、真意は伝わっただろうが、アリスはその表層だけを態と捉えて話を進めた。ずっと話し易くなる。
「ラシェルはどうする? そろそろ、彼女も限界だろう。あれの負担は想像して余りある」
 完全なる敵とアエテルヌムに認識されながらも、そのしっぽを出さず、活動し続けている。その為には能力は勿論必要だし、運もある。そして絶え間ないプレッシャーに耐えている精神力は特筆すべきことだ。
「長く続けば続くほど、暴露される可能性は高くなるし、彼女が処刑でもされれば、大きなプランの変更を余儀なくされるな。しかし、まだその実現はないと思っている」
 彼女のデルタでの指導力、先見性は代えの効かないものであり、もし彼女を失えば、デルタを獲得するのに、5年程度かそれ以上を見なければならなくなるだろう。反乱分子の糾合先として彼女は絶大で、欠くことになれば各自の散発の末に、完全にデルタはアエテルヌムに帰属してしまう可能性が高い。スカルウォラは無能ではなく、ただラシェルの妨害が一枚も二枚も上手なだけだ。しかし、アエテルヌムも手を拱いているだけではない。スカルウォラの軍事的手腕に見切りをつけ、新しい将軍を派遣する動きがあるらしい、との情報を得ていた。内政に関してラシェルの影響を減らすことは中々できない。デルタ最大の実力者である彼女はことさら内政においての存在感は大きいのだ。だが、軍ではデルタはイウェール軍は補助の位置にしかなく、防衛政策はアエテルヌムが独断で行えるからこの部分でラシェルを封じ込めるしかなかった。そこの梃入れをするということはいよいよ彼の国も本腰を入れるということだ。アエテルヌムもこの平和を利用するし、では、ガラッシアはもっと上手く狡猾に平和を活用せねばならない。
「もう、何歳になるんだっけ?」
 懐かしさを思い起こしたアリスがその本性に基づいた穏やかな言葉はセレネスの感情とあまりに隔たっていて合わせるのに、少し時間が要った。
「17かな。美しく育っていることだろう」
「あの泣き虫が。きっと見違えているな」
 そこで、アリスはなんとも形容しがたい色を宿した視線をセレネスに流す。
「きっと、お前好みだろうよ」
「初恋は叶わないというよ。それに火傷するのが落ちだ」
 イウェールが公と迂闊に深い関係にはなれない。あの金髪は惜しいが彼女ももうセレネスに打算抜きの好意など見せることもないだろう。ラシェルとしても、ガラッシアの同盟となってからのデルタの主導権は握りたいだろうが……
その時、ちょうどタイミングよくロザリアが書類を大量に抱えて現れた。半年が過ぎ、すっかり彼女は秘書連中の中で首座を獲得していた。そして、散々苛めた先輩に復讐を決行しているようでロートルたちがセレネスに泣きついてきたが無視している。身から出た錆のツケを払うべきだろう。幾ら奴隷だからといって何をしてもいいわけではないが、ロザリアは証拠を残すようなヘマはしまい。
「姉さん」ロザリアは書簡をセレネスが座っていたテーブルの上に置くと嬉しそうにそう言うとアリスに小走りで近づいた。「御戻りになっていたのですか。知らせて下さったら迎えに出ましたのに」
 ロザリアとなるとアリスはいつも通りに甘い姉になる。
「どっかの馬鹿がすぐに戻れって言うから、知らせる暇もなかった。それに手紙なんてどう書けば分からないし」
「そうですよね。いっつも返信くれませんもの」
 ごめん、と微苦笑するアリスは中々見れるものではなく、ロザリアの存在はそれだけ大きいのだろう。
 姉妹の触れあいを頭の隅で聞きながら、ロザリアが乱暴に捨て置いた書簡の一つ一つに目を通す。元首に対する書簡は多岐に渡り、かつ特別重要なものは少なかった。しかし、他愛もない一つの話題を持っていることで友情を得られたりするし、この日課を軽んじたりはできない。その中でスッラからの書簡があり、開いてみると、彼に頼んでいたことに関する返答が記されていた。
「旅の疲れを癒したらどうだい、アリス。ロザリア、アウルスを呼んできてくれないか」
 セレネスがそう言うだけで、裏に響かせている意味を姉妹は直ちに理解する。ロザリアの反応がアリスの想像以上に早かったようで、訝しげな眼差しがセレネスの方に向いたがそこは慣れたもので予断を与えるような反応はしない。ロザリアに促されてアリスは浴場へと姿を消した。
スッラの対策は急務であった。老王が自らの死に言及したこと、後継者を選定したことは彼を決心へと駆り立てる要因になり得ただろう。書簡の往復は続いているし、それに尊敬していることや頼りにしていることは仄めかしてはいるが、いかほど効果があるかは分からない。1度、直接に会談したいが、任期途中であるし、そもそも適当な理由がない。巡察をするにしても全国を回らねば理由付けにはならない。それだけの時間はなかった。
内乱の目がなくなって、一番焦っているのは彼かもしれないのだ。ともかく、決断を迫ってみよう。彼の処置はまだ和平がなっている時に決めてしまいたい。
「それで、君をスッラの元へ紅章付き大隊長として派遣する」
 宙ぶらりんになっていたアウルスの処遇をとことん利用するつもりで、セレネスの前で直立不動にしていたアウルスに言った。  アウルスはセレネスの思惑など知る由もなかったし、スッラの名は著名だったから単純に喜びを示したが、秘書として傍に控えていたロザリアは流石にセレネスの思惑を察知したのか、探るような視線をセレネスに送る。
 それにはぐらかすようにセレネスは彼女の方には目を向けずに説明した。
「丁度、彼の将校に欠員が出て、適当な人物はないかと言われているところだったのでね。君を送ろう。十分、満足してくれるはずだ」
「名を汚さないよう、死力を尽くします」
 いつになく神妙な面持ちの固い言葉にセレネスは頷いた。
 ともかくアウルスの存在だけでスッラは感じ取るだろう。何しろ、彼はアリスの弟なのだから。
 一つ、懸念の解決を図ったことに満足し、セレネスはアウルスを下がらせる。ロザリアが不満を言おうと口を開きかけたのを先んじた。
「悪いようにはならんよ」
「危険な賭けであることには違いありません」
「取るに足らない賭けだ」
 失うものは少なく得られるものは大きい。しかし、そういうことをロザリアに言っても無駄だ。それは仕方のないことで肉親が使われているとなれば、不信感を抱いても責められるものではない。
「もし、兄さんに何かあったら承知しませんからね」
 よもやセレネスを脅す人物が未だにいようとは。口端が吊り上るのを抑えることはできなかった。伝統あるガラッシアの第一の市民であり執政官であるにも関わらず、自らに価値があると信ずる小娘には全く意味をなさないのだ。


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最終更新日 : 09/9/15

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